案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。
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2026年7月11日土曜日

西公園停車場(色合い)

先日のAIカラー化画像で、いろいろ並べてみました。②が7月10日に投稿した明るめ画像です。


①AI生成画像のまま
(彩度は適度だった)


②調整仕上げ後
①をゲタ履き学生を見えるよう若干明るくした。




③生成画像のまま
その時代に合わせた色調とし、民家屋根の色を変えたAI生成画像。

④ 調整仕上げ後
③を元にしてAdobe Expressで調整したもの。1960年代らしき色で、スマホの小さな画面でも使える彩度はこの程度か? 

これまでモノクロ画像であの時代の街並みの薄汚さをすっかり忘れていた。 車両と違ってどんな色だったかは覚えていないが薄汚かったことだけは覚えている。 そんな薄汚さがカラー化で思い出されてきた。

2026年7月10日金曜日

西公園停車場

停車場の裏手を行く小径は背後の高台にあり、そこにあった西公園に賢治が詠んだ ”春の夕暮れに停車場の灯が明滅する” 「ラジウムの雁」の碑があった。

日が暮れるころ賢治は西公園から停車場や電車の明かりを見下ろしていたかも知れない。そんな情景が目に浮かぶ。

私がこの停車場を撮ったのは1964年の夏。
今、そのモノクロ画像をAIで色をつけてみると、砂利や土に埋もれた軌道、赤ん坊を背負った母親、ベンチで昼寝しているゲタ履きの学生、木造建築の木目などに、今までになかった感覚が生まれて来る。

きっとこの停車場の色も宮沢賢治の時代と何も変わっていないのだろう。



軌道線 西公園


花巻電鉄軌道線 1964年夏
(AIカラー化画像)

2024年9月22日日曜日

地方にあった人々の活気(軌道線の賑わい)

昭和39年、夏の花巻軌道線は人々で賑わっていた。
消えゆくナロー路線ながら駅や列車に乗客が多く
日本はまだ子供や若者が多かった時代。
そんなある時代の賑わいを集めた情景につけた
タイトルを「地方にあった人々の活気」とした。
地方小鉄道の衰退はその後のマイカーブームだけではなかった。

「軌道線の賑わい」
花巻温泉郷へ向かう客で賑わう花巻駅ホーム。
スイッチバック駅西花巻の賑わい。
西公園駅を降りて道路を行く人々。
電車+客車2両が満員の朝の通勤列車。
夏休みの子供達で賑わう志度平温泉駅前の遊園地。
遊園地、温泉帰りの客で満員の列車。
終点西鉛温泉に降り立つ温泉客の賑わい。
 
撮影:1964.8.2

スイッチバック駅西花巻の賑わい.


西花巻と西公園間のSカーブを行く満員列車.


朝の通勤・通学時間帯は満員.1966.3.4


志度平温泉駅の賑わい.

終点西鉛温泉に降り立つ温泉客の賑わい.

2022年4月19日火曜日

花巻電鉄 西公園停車場

今月発売のTMS 5月号 地方私鉄失われた情景第35回は「花巻の西公園停車場」花巻電鉄軌道線です。

花巻と言えば宮澤賢治。1920年代に賢治が駅裏手にある小径を歩いて花巻農学校へ教職で通っていた時代からこの停車場の風景は変わっていないのだろう。
駅裏手を行く小径は高台にありそこに西公園があった。
日が暮れるころ賢治は西公園から停車場や電車の明かりを見下ろしていたかも知れない。
そんな情景が目に浮かぶ? 二次元レイアウトセクションの2ページ。

3月30日にブログに掲載した路線図は誌面ではモノクロです。


 


2022年3月30日水曜日

宮澤賢治と西公園停車場

花巻電鉄軌道線 1915(大正4)年9月 西公園~松原間の運転開始
その後、1925年過ぎに西鉛温泉まで開業。

宮澤賢治のこと
1896(明治29)~1933(昭和8)年
1914年(18才)盛岡高等農学校入学
1917年(21才) 肋膜炎を患う。童話を書き始める。
   農業の改良研究、法華経、科学と宗教に目覚める。
1919年(23才)に卒業し24才に家出をして東京へ出たが妹が亡くなり花巻へ帰る。

1921~1926年(25才~29才) 花巻農学校教職を4年間やって辞める。
  銀河鉄道の夜を書く初稿1924年/出版1934年。
  農民となり童話や詩を書く。
  羅須地人協会を設立。
    農業の改良、肥料の研究などの活動を社会主義と勘違いされる。
  病床につき死を考える。

1932年 35才東京で倒れて遺書を書き実家で2年療養。
1933年9月 37才で亡くなる。


宮澤賢治が花巻市街の自宅から花巻農学校へ教職で通っていた時代は、軌道線(西公園~松原間)の始発駅西公園から軽鉄花巻駅までが開業した数年後で、更に西花巻駅が開業し西花巻~花巻温泉間の鉄道線が開業した頃であった。
(軽鉄花巻駅:岩手軽便鉄道と花巻電鉄が共存した始発駅)

元西公園のところにある碑に記された宮沢賢治「ラジウムの雁」の中に”春の夕暮れに停車場の灯が明滅する”の記載があり、西公園の眼下に見えた西公園停車場のことか?
(ラジウムの雁:1919、1920年頃の春の夕暮れの実話を基に執筆した童話)



西公園停車場 1964.8.2




2018年10月23日火曜日

花巻電鉄 西公園停車場の部分拡大

1964年夏にオリンパスペンSで撮った西公園停車場は大変気になる1枚です。部分拡大して見るといろんなことが分かります。


西公園停車場。1964.08.02

以前から気になっていたこの一角、部分拡大して見るとゲタを履いた学生が木のベンチで寝ているようです。その脇の隅には掃除道具が積んである。ガラス越しに見える待合室はこんな軌道線にしては広そうだ。

駅には赤ん坊を背負って乳母車を持った母親が。そして電車に乗るための踏み台が2ヶ。 待合室入口に置いてあるのは椅子2脚か。

その先の建屋にある看板が読み取れます。軌道は砂利というよりほとんどドロ軌道、ここから専用軌道に入り軒をかすめて西花巻へ向かう。

以下は35mmフィルムで撮影
通りの商店の看板や建物がなんと魅力的なことか。そして道路を歩く人がなんと多いことか。

街へ出掛ける乗客で客車内は満員、そこへ学生たちが乗り込む。踏み台は使わないのか?
ゲタを履いた学生は下り列車を待っているのだろう。

2015年12月13日日曜日

花巻電鉄 西鉛温泉

随分昔2011年6月6日に西鉛温泉をアップしましたが、温泉通いの軌道線の風景を追加して再アップしてみます。これから花巻温泉に行く鉄道線の方をもっとアップしますが、どうしてもこんな軌道線の魅力にはかないません。


何もない行き止まりの西鉛温泉の駅名が電柱に表示されている.1964.08.02

豊沢川沿いに点在する温泉各駅に客を降ろしながら山間に入って来た電車はここで行き止まりとなる。終点西鉛温泉は何もないところで、旅館のマイクロバスが待ち受け、待合所に「歓迎 新鉛温泉 愛隣館 この先百米」と書かれた看板があった.

幅広のデハ3が発車を待っている. 西鉛温泉

 西鉛温泉を発車した電車.
この林を抜けて下ったあたりが昔の終点があったところでしょうか。

遠くに次の鉛温泉駅が見える.

鉛温泉

2014年6月22日日曜日

花巻から横手へ

青森発23:45の夜行急行「八甲田」で寝て翌朝4:35に花巻駅に到着。
庄内交通でスタートしたこの旅で夜行急行「八甲田」で寝るのはこれで3回目となった。
花巻駅の待合室で仮眠した後、花巻電鉄軌道線の朝のラッシュを撮りに歩いた。
泥んこの道端で電車を待っていると朝の田舎道は通勤・通学で町へ出る自転車で一杯。
地方ではまだマイカー時代到来前でこんな時間帯でも車は滅多に来なかった。

花巻郊外の中根子あたりまでくると前日の津軽平野とはうって変わって長閑な田園は春の日差しであった。この時の花巻電鉄には遠鉄奥山線からキハが転籍していてキハが花巻電鉄を走る光景を見たかったが活躍する場はなかったようである。

午後は花巻から横黒線に乗り山越えして横手へ出るとまた寒い残雪の世界であった。
横手で羽後交通横荘線を撮って旅の記録はここで途絶える。
この後、八郎潟の秋田中央交通を撮ってまた青森から夜行急行「八甲田」に乗って福島で下車し
奥羽本線を北上し、山形交通の2路線を訪問するなど欲ばりな旅はあと2回夜行列車を利用した。

花巻電鉄軌道線 熊野 - 中根子  1966.03.04 
 
朝の「中根子」停留場

 花巻へ向かう朝の列車は満員で道路はガラガラ.  中根子

花巻電鉄の車庫内で改装を終えイエローに塗られた元奥山線キハ1804.

花巻駅の釜石線D50250

花巻から横手へ. 横手駅の奥羽本線の特急「つばさ」

横黒線D6040  横手

DF50が走る奥羽本線の脇に羽後交通横荘線の車庫があった.  横手  1966.03.04 

横荘線の車庫にいた珍品ホハニ3とキハ3

横手の街

2013年11月20日水曜日

花巻電鉄 クルマ社会到来の直前

1960年代前半の地方の道路は幹線や都市部を除けばどこも未舗装でトラックもバスも滅多にやって来なかった。車も来ない砂利道の端をお客を満載した軽便電車が走って行く。花巻電鉄軌道線の昭和39年頃はそんな風景であった。日本がクルマ社会到来で大きく変わるほんの直前、昭和39年頃の地方私鉄は廃線ラッシュであったが、その一方でまだ元気に走っていた路線もあった時代であった。
あのクルマ社会到来の直前から50年が経った今、どこへ行ってもマイカーが綺麗になった道路や見違えった街並みを走っている。そんなマイカーもEV時代到来となる今年の東京モーターショー2013がまもなく開催される。

滅多に車が来ない砂利道と花巻軌道線の線路. 鉛温泉-山の神 1964.08.02
豊沢川に沿った街道(現:県道12号)でもこの辺りではバスやトラックを見掛けなかった.

そんな道路の端をお客満員でやってきた軽便電車. 鉛温泉-山の神


西公園を過ぎると道路は狭くて穴ぼたらけ.こんな道路を軽便とバスが走っていた.
天気が良いと水をまいて少しでも埃を抑えるのは東京郊外でも同じであった.

晴れれば埃が舞い、雨が降れば悲惨な状況に.埃と泥んこに悩まされた時代であった. 1966.03.04

2011年9月16日金曜日

花巻電鉄 中根子の朝

また花巻電鉄に戻り、石神を過ぎて次の中根子まで行ってみます。

熊野 - 中根子  1966.3.4  
朝の日が昇った中根子の朝はすがすがしく、雑木林の脇を流れるたんぼの小川の水があまりに気持ち良さそうで足を小川に入れて電車が来るのを狙った。


熊野 - 中根子

田圃の小川は軌道沿いに流れ、小川と軌道の間の電柱に中根子と表示されたところが停留場であった。
朝の日が広い道路に長い影を落とし、道路には車やオートバイが数台走るだけでひっそりとし、朝のラッシュ時を感じさせるのは客車を牽いて花巻へ向かう満員電車くらいであった。 軌道が廃線になって道路が奇麗に舗装され車社会になったのは、この後ほんの数年だったのだろう。

のどかな中根子の朝の光景であった。この辺りを東北自動車道がまたぎ、近くに花巻南ICが開通したのは20年後の1986年であった。

2011年9月11日日曜日

花巻電鉄 泥んこの朝

初春のどんよりとした朝のぬかるみ道を、西公園から数駅先まで西鉛温泉方面に向かってみます。

石神 - 西公園  1966.3.4
西公園を出発した下り電車は古い家並みをかすめて直進し、その先を右へカーブして消える.

石神 - 西公園
石神の手前で鼬幣稲荷神社の前を走る.この区間は狭い道路で穴ぼこだらけ.
車とのすれ違いで電車はドロ水を掛けられたことでしょう。


泥んこの朝の通勤・通学時間

ドロを撥ねられないように登校する小学生.  石神近辺

2011年6月10日金曜日

豊沢川 夏の日の思い出

地図: 志戸平温泉を出て急カーブを曲がると豊沢川に接近する.
その先の不二保前、松倉、松原を過ぎると神明前に到着する.
志戸平温泉から神明前まで3.3Kmの道程を撮り歩いたようだ.

鉛温泉側から見た志戸平温泉駅  1964.8.2
夏休みのせいか子供連れの客で賑わう駅.左の西鉛温泉行きの電車は、ここで殆ど客を降ろし終点に向かった.山と駅に挟まれたこんな狭いところに遊園地があり、賑やかな様子であった.この子供達も今や50代で、軽便電車に乗って訪れた遊園地のことが楽しい思い出になったことだろう。
志戸平温泉駅を出るとすぐに急カーブを曲がりまた道路と合流する.


「松原」 道路に溶け込んだ軌道以外は何もない.


「神明前」

太神宮の前にある藁ぶき屋根小屋は電停「神明前」であった.
この土壁の中には一体何があったのだろうか?

駅の小屋の裏に回ってみた.向こうに見える神社入口の石碑には村社太神宮とあった.

この辺で花巻温泉峡は終わり花巻市郊外の平地を
しばらく走ると西公園辺りに到着する。