案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。
ラベル 東海 甲信越 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 東海 甲信越 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年5月12日月曜日

中央本線 夜行準急「穂高」2407レ

浅間線を撮りに松本へ向った新宿発のあの夜行準急「穂高」2407レは甲府でDF50の重連に付替えと日誌にあったので、この深夜の牽引機付替えのことを調べたところ「DF50だぶる」という記事を載せたサイトがありました。管理人様にお断りして掲載します。画像は私達が乗った1963年夏から1年半後、深夜の甲府駅で撮られた準急「穂高」です。


中央本線夜行準急「穂高」は甲府からEF13+マヌ34に換ってDF5033+DF503の重連牽引になります.
編成はナハ10系にオロハネ10など、機関車客車ともまだ茶色塗装の時代でした.1965年2月甲府駅.
寺田牧夫様のサイト【安楽鉄道趣味】轍楽之路No.234の「DF50だぶる」より。

季節は違うがあの夏の超満員の夜行列車はこんなであったのでしょう。
準急「穂高2号」2407レは昭和37年12月の改正で準急「穂高」2407レに変わったようで
私達が乗車した1963(昭38)年夏は「穂高2」号ではなく「穂高」になっていたようです。


2014年5月7日水曜日

昭和38年 夜行列車と浅間線

写真展「上野駅の幕間」と浅間線の話題から、昭和38年の夜行列車と浅間線のことが懐かしく思い出されてきます。1962(昭37)年~1967(昭42)年のよく夜行列車を利用した時代は、先日の写真展の上野駅風景から更に15年も昔のことであった。
あの時代の夜行列車の駅や車内が一体どんな風景であったのか自分のカメラで記録してなく悔やまれて仕方ないが、日誌の記録より1963(昭38)年夏の新宿発長野行き準急「穂高」夜行列車から翌朝の松本駅前までを追ってみました。

「ニュー東京」から見た昭和38年の有楽町風景.1963.07.19
1963(昭38)年7月19日。この日はまもなく消える京王の中型車を下高井戸~代田橋で撮って夕方に鉄道友の会の写真部会が開催される有楽町の「ニュー東京」へ向かった。友の会のアプト見学会の前々日で8mmを見たりして21時過ぎに「ニュー東京」を出た。

有楽町で切符を買い新宿駅に着くと22:35発の長野行準急「穂高」は既にホームに列車が入線し客車内は満員で空席なし、他に何本かある夜行列車のどれも登山客で長蛇の列。仕方なく「穂高」の車内通路の床に座る事にした。
発車時刻になる頃は床スペースも満杯となり、登山客満載した列車はまるで登山貸切列車のようであった。八王子あたりからは通路を移動する客もいなくなり眠ろうとしたが床に身体を丸めて横になるスペースもなく殆ど眠らずであった。
列車は甲府でDF50重連に付け替えし4時過ぎ頃に塩尻に到着すると、やっと座席に座ることができた。しかし松本までは1時間もなく殆ど眠らず早朝のうす暗い松本駅に4:45到着した。

費用削減で夜行列車はいつも自由席であり、寝台列車や特急などは縁遠い存在であった。何時間も駅で並ぶことで大抵は自由席が確保できたが盆暮れシーズンには床に新聞紙を敷いて寝る事があった。しかしこの松本ヘ向かった時の夜行列車は床に横になることさえできない超満員の一夜であった。
あの頃はコンビニも自動販売機もペットボトルも無かった時代、鉄撮り旅で水筒を持っていった記憶もない。クーラも付いてない真夏の超満員夜行列車でどうやって水分補給していたのだろうか? 駅にある水飲み場でなんとかなったのだろうか。

まだマイカー時代到来する前の頃、若者達の余暇の楽しみ方は登山やハイキング等が上位を占めていたのだろう。新宿駅の地下通路や階段に列をなすリュック客や松本駅前の賑わいはあの時代特有の風景であったと思われる。夜行列車を使って全国各地をめぐるリュックを背負った若者も多かった。そんな旅人達と車中で言葉を交わすと、秘境旅であそこが良かった、これから何処へ行く等の旅の話題が噛みあわず鉄ちゃん旅がなんとも悲しかった。

始発前で薄暗い浅間温泉行き電車のりば.1963.07.20
薄暗い早朝の国鉄松本駅前に見つけた浅間線の線路に歓喜! カーブした線路の先へ進むと駅前広場の隅に2本のホームからなる駅があった。暗い駅には薄汚れた木造電車が2両停車していて始発まではまだ30分あった。廃線ムードが漂うひと気のない駅はまるで廃線後のようであった。国鉄松本駅前はどの商店もまだ閉まっていたが駅前のバス停には登山客が溢れ、ここだけは日の出前の早朝の感じではなかった。

松本駅前で登山客を乗せたバスが次々発車して行くと、やがて浅間線始発電車がホイッスルを鳴らし駅前にゴトゴト出てきた。朝食をとるのも忘れ早朝の駅前通りを進むと人もまばらで静まり返った街の中を電車が何本か通り過ぎて行った。
昭和30年代を色濃く残した松本駅前通りの佇まい

1段下がった運転台、そして昔の車内デザインの素晴らしさ.

 昼頃の国鉄松本駅前  
早朝の駅前通りの写真は「浅間線 早朝の温泉行き電車」にあります。

2013年10月31日木曜日

小海線 臨時 「八ヶ岳高原号」

清里の民宿に一泊し、翌日は1日一往復だけ走る臨時「八ヶ岳高原号」を往復とも撮れたがこの時は背後の八ヶ岳が見えず「八ヶ岳高原号」は不発に終わった。この前年には上田丸子と長野電鉄の合間に一日掛けて立寄って上りだけ撮れたがこれも煙吐かずイマイチであった。今思えばお立ち台などには目もくれず視点を変えて小海駅でC56旅客列車を小さく入れた駅風景を気の済むまで撮るべきであった。
この頃の小海線C56については「津島軽便堂写真館」さんで地図とダイヤ入りで詳細に紹介されていますのでご覧ください。

下りは朝霧の中にかすむ「八ヶ岳高原号」 清里-野辺山 1971.08.15

上りの「八ヶ岳高原号」  1971.08.15

小海線お立ち台の賑わい

前年に撮った上り「八ヶ岳高原号」    野辺山-清里 1970.08.16   

2013年10月30日水曜日

小海線 臨時急行「こうみ」

1970年頃から一時期小海線沿線をたびたび訪問していたことがあった。しかし上田丸子電鉄のついでに立寄ったり、八ヶ岳赤岳登山や高原ハイキングで利用したり、沿線をドライブしたりしたりで、小海線をまともに撮る事はなかった。唯一1971年8月14~15日の小海線訪問だけは珍しくC56を目的としてクルマを利用した撮影旅であった。

小海線のC56が牽く客車列車は新宿発の季節臨時「八ヶ岳高原」号だけでなく、お盆休みの8月18日まで上野~小海間に夏の臨時急行「こうみ」があった。上野発急行「こうみ」は列車を小諸で分割して小海線の小海まで上下各一本が走っていた。

朝一に中込駅に待機していたC56125の単機回送を追い掛け小海駅までやって来ると、小海駅ではC56125が9:19発上野行き旅客列車の準備に動きまわっていた。清里の喧騒とは違って静かな小海駅の旅客列車はローカルムードに溢れていた。

上野行き旅客列車の準備で、C56の煙と転車台が右奥に見える.小海 1971.08.14

小諸側に向きを換えたC56125は停車中の客車3両を連結する. 小海

小海9:19発の上野行き臨時急行「こうみ」は千曲川沿いに小諸へ向かう

「こうみ」撮った後は貨物を撮りながら清里へ向う. 松原湖-小海
松原湖が近い

佐久海ノ口

海尻-佐久海ノ口?

佐久海ノ口を出たあたり?

2013年10月28日月曜日

小海線 夏の思い出

小海線と言えばC56、そして夏の賑わい。C56は高原の人気物であった。

佐久海ノ口  1971.08.14

清里駅のC56

清里の賑わいとC56   1971.08.15

清里駅のC56

道路に人と車が溢れた撮影ポイント. 清里 - 野辺山  1971.08.14

野辺山  1971.08.15