案内文章
高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった。
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
を回想してみました。
2026年8月25日火曜日
山陽電軌の2軸車
下関の朝は山陽電軌の2軸車が活躍していた。当時 2軸車は12両在籍し、朝夕のラッシュ時に下関~東下関駅間で使われた。朝のラッシュが終わると、次々と戻って来た2軸車で東下関駅車庫は賑わった。
撮影:1967.2.27
2026年8月24日月曜日
2026年8月18日火曜日
夜行列車
鉄道撮影の旅では、夜行列車と周遊券はもってこいであった。
深夜に乗り込む夜行列車は、驚くほど空いていることがよくあった。ボックスシートを一人占めして、体を横たえて眠りにつく。ぐっすり眠って目を覚ますと、そこは一変して朝の通勤時間帯。通路には通勤客がびっしり立ち、車内は別世界になっていた。
こんな利用を何度も繰り返したが、通勤客から注意されたことは一度もなかった。旅を続ける若者を、みな温かい目で見守ってくれていたのか、それとも私が運が良かっただけなのか、今となっては分からない。
2026年8月14日金曜日
2026年8月11日火曜日
2026年8月9日日曜日
2026年8月7日金曜日
横浜駅前1964年
1964年10月10日
この日は東京オリンピック開会式があった歴史的な日。秋晴れの青空の下、記念乗車券を求めて横浜に向かった。その時の相模鉄道、横浜市電のオリンピク記念乗車券が今も手元に残る。
あれから62年。空が広かった横浜駅と街並みもすっかり変わり当時の面影は何もない。2軸単車が走っていた当時の横浜は、ジブリの「コクリコ坂から」 1963年5月とちょうど時代が重なる。
(AIカラー化画像)
2026年8月2日日曜日
雨の羅漢寺駅
羅漢寺を守実行の気動車が発車すると、
人影のないホームに、切り離された客車が一両。
その向こうに、青の洞門の上に
雨で霞む耶馬渓の岩壁が迫っていた。
見事な風景の中にある駅なのに、
降りる人も乗る人もごくわずか。
耶馬渓を訪れる観光客は、
既にバス利用の時代になっていたのか。
雨の羅漢寺駅は静まり返っていた。
大分交通 耶馬渓線 1967年3月
(AIカラー化画像)
2026年7月31日金曜日
客車牽引時代の栃尾線
あの越後平野を走っていた様々な編成の列車。
上見附駅に次々やってくる列車は、どれも客車を数量牽引した電車or電機であった。機回り線を使って付け替えると、スイッチバックして栃尾や長岡へ出発して行く。電車には様々のタイプがあるが、それ以上に種々雑多なのが電車に牽かれた客車。古典から珍品までその編成の不揃いさが楽しい。大正初期の最古参ダブルルーフ客車ホハ1~8、元草軽の古典小型車ホハ17,18、単車をつなぎ合わせたホハ10、それにガソリンカーや電車崩れのデカイ客車など、さまざまな珍品が活躍していた。
その後、これらの客車牽引時代は6年後の昭45年頃までに消滅してしまったようだ。


モハ214の快速列車はこんな編成で長岡へ出発した。モハ214+ホハ6+ホハ27 上見附
上見附駅に次々やってくる列車は、どれも客車を数量牽引した電車or電機であった。機回り線を使って付け替えると、スイッチバックして栃尾や長岡へ出発して行く。電車には様々のタイプがあるが、それ以上に種々雑多なのが電車に牽かれた客車。古典から珍品までその編成の不揃いさが楽しい。大正初期の最古参ダブルルーフ客車ホハ1~8、元草軽の古典小型車ホハ17,18、単車をつなぎ合わせたホハ10、それにガソリンカーや電車崩れのデカイ客車など、さまざまな珍品が活躍していた。
その後、これらの客車牽引時代は6年後の昭45年頃までに消滅してしまったようだ。

客車の付け替え作業。

モハ214の快速列車はこんな編成で長岡へ出発した。モハ214+ホハ6+ホハ27 上見附
2026年7月29日水曜日
越後平野を行く
栃尾線は1970年代に総括制御になり車両が明るいツートンカラーに塗られた。その前の時代はマルーン一色の電車が雑多な客車を牽いて越後平野を走っていた。全ての車両がマルーン一色の地味カラーで3月の寒くて暗い越後平野に埋没しそうなカラーであった。
春と呼ぶには、まだ寒すぎた。
雪が残る山々と、冬枯れの越後平野。
冷え切った田んぼがどこまでも続き、
小さな列車が静かに通り過ぎてゆく。
あの時の越後平野には、
まだ冬の余韻が残っていた。
越後交通 栃尾線 1964年3月
(AIカラー化画像)
2026年7月26日日曜日
真夏の「にしもない」
西馬音内駅の薄暗い待合室に入り、その先に広がる街並みを見て、
「駅舎も町も、なんとうす汚いのだろう」と思い、
カメラ向けたのは、たった一枚これだけだった。
あの時は、駅舎や町の魅力が見えていなかった。
40年、50年という歳月が流れ、
ようやく、あの時代の駅舎にも、あの街並みにも、
失って初めて気付く風情や情緒があったことを知る。
車両だけではなかった西馬音内の魅力。
2026年7月25日土曜日
終活と思い出
思い切って処分するのが殆どですが、昨日、紙類を処分していたら、こんな記録が出てきました。2018年、写真集出版と新宿リコーでの写真展。私の趣味活動が最も活発な頃の記録です。
写真展の感想ノート、写真展の記録、地方私鉄めぐり青春の記録、数々の祝賀会記録……。これだけは、処分することのできない宝物です。ページをめくると、当時いただいた温かい感想や励ましの言葉が、そのまま残されています。
あの頃、写真展や記念イベントに足を運んでくださった皆様、ブログをご覧いただき応援してくださった皆様、、あらためて心より感謝申し上げます。
あれから早や八年。世の中も大きく変わり、私自身も鉄道写真への想いが少しずつ変わって来た感じがします。あの頃に思い残すことなく取り組めたからこそ、今は新しい表現へすこしだけ歩みはじめています。
これからも、昔と同じことを繰り返すのではなく、その時々の自分らしい形で心に残る風景や人の余韻を追い続けていければと思っています。
2026年7月22日水曜日
記憶にある色を求めて(まとめ)
古いモノクロ画像をAIでカラー化するキッカケは、昭和30年代(1960年代後半)の地方私鉄の奇妙な車体カラーを再現する「記憶にある色を求めて」でした。
モノクロ画像をあえてAIの変なカラーにしてどうするの? そんな声も聴こえそうな中を、単にカラーにすることではなく、その後の情景のAIカラー化も同様で、ある目的にかなう画像だけを取上げてきました。
「記憶にある色を求めて」で、まだ満足行かない色の沼尻や法勝寺線を除くと、ここに並べた車体カラーがほぼ記憶にあるイメージに近いものでした。
あと沼尻と法勝寺線で車体カラー・シリーズは終了です。
2026年7月20日月曜日
電鉄上田駅のワンシーン
過去に写真集等で使った上田丸子電鉄 電鉄上田駅のモノクロ写真。
これをカラーにしてみると一体どんな感じになるのか?
写真から想いついたタイトル。
「電鉄上田駅のワンシーン」鉄道(ブログ)

上田丸子電鉄 真田傍陽線の電鉄上田駅 1970年夏
カラー化によってある時代の想いがより感じられるようになった。
この2年後に真田傍陽線が消え、
家族旅行も鉄道利用からマイカーへと時代が変わる。
■車両と駅の魅力
画面右手の半身だけ写った電車に
くすんだツートンカラーの色がつき、
事実とは異なるけどアルミサッシの色効果で
高まる上田丸子の車両の魅力。
画面右手の半身だけ写った電車に
くすんだツートンカラーの色がつき、
事実とは異なるけどアルミサッシの色効果で
高まる上田丸子の車両の魅力。
画面左手の木造りに感じる駅のぬくもり。
■ もの悲しさ
木造駅舎、真田傍陽線、家族との時間、1970年の夏、
木造駅舎、真田傍陽線、家族との時間、1970年の夏、
今 写真に写るその多くは失われ、
そこに感じる喪失感、もの悲しさ。
そこに感じる喪失感、もの悲しさ。
■大切な時間
祖父母が待つ田舎へ帰るのだろう列車を待つ家族。
父親が、つかの間の夏休みに家族と過ごした何気ない
ひと時は、きっと人生で大切な時間の一つになったことだろう。
ひと時は、きっと人生で大切な時間の一つになったことだろう。
上田丸子電鉄 真田傍陽線
(AIカラー化画像)
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