案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2025年2月14日金曜日

川崎・鶴見界隈の専用線蒸機4

日本鋼管の過去記事より.公開日2011.8.24

鶴見線の駅で見た日本鋼管鶴見の蒸機は、前回のボールドウィン古典機10号と有名な珍品古典機クラウス12号、そして協三工業製18号であった。撮影場所が不明確であったが訪問記を見つけ鶴見線浅野と弁天橋で撮ったことが判った。

訪問記より。
扇町の三井埠頭を引きあげて鶴見線浅野に向かった。この辺はクモの巣ごとくレールが敷かれさっぱり分からない。駅のそばに置いてあった産業用SL(日本鋼管18号機)を撮り、弁天橋へ向かった。鶴見線と工場専用線が並行して走るので駅は絶好の撮影場所であった。弁天橋で電車を降りたとたん遠くにカン高いホイッスルの音が聞こえ怪しげなSLがこっちにやって来た! 目を開けてよく見るとあの1Bのクラウスであるのには驚いた。そしておまけにもう1両やってきたのはあのボールドウィンであった。
どんよりとした天気が不満であったがこの幸運に大満足して引きあげた。

弁天橋に現れたクラウス12号機。この珍品中の珍品は、クラウス1907(明治40)年製で青梅鉄道が改軌に備えた1B形タンク4両の1両が日本鋼管鶴見製鉄造船12号機となった。煙突より後ろの位置に先輪があり、シリンダーがさらに後方にずれ缶だけが先走った姿をしていた。
(臼井茂信著: 機関車の系譜図2の記述より)

カン高いホイッスルを鳴らし現れたクラウス12号機

日本鋼管 12号機  弁天橋  1964.12.25


引き続き熔銑車2両を牽いて現れたのはボールドウィンCタンクで10号機であることが写真で判る。このボールドウィンは9号と10号があり同タイプのようで明治村へ行ったのが9号機らしい?
日本鋼管鶴見の内部に入って調査された田辺幸男様のサイトに9号機の銘板(ボールドウィン製番)の写真があり9号機の製番37944は明確になっている。
元は富士身延鉄道1~3号で、その2号と3号が日本鋼管鶴見の10号と9号になったらしい。

 
熔銑車を2両牽いてやってきたボールドウィン10号機
 
日本鋼管 10号機  弁天橋  1964.12.25



浅野で見た産業用機関車は協三工業製28トン機で、日本鋼管鶴見製鉄所の18、19号機として1951(昭和26)年に製造された。協三で製造した最大(重量)の機関車である。
(臼井茂信著: 機関車の系譜図3による)
 
日本鋼管 18号機 浅野 1964.12.25
 



2025年2月13日木曜日

川崎・鶴見界隈の専用線蒸機2

三井埠頭の過去記事より.公開日2011.8.16

高度成長期が本格化した昭和38年、川崎工業地帯は工場の吐きだす煙でいつもかすんでいた。
古いものは消え新しい社会へとスタートした時代。構内搬送で活躍してきた蒸機もディーゼル機化へと急激に様変わりして行った。昭和38~39年頃の三井埠頭では1号、5号、7号機の中で5号機が主に動いていた。三井埠頭だけは稼働現場の撮影が許可され、自由に撮らせてもらえた風景はこんなであった。
 
三井埠頭 5号機 1964.12.25



この5号機は汽車製造1924年製で汽車製造の地方私鉄向けCタンクの基準となった相模鉄道向け4両の内の1両で、相模→国鉄→東野→三井埠頭という経歴を持っている。
動輪が少し大きい南薩5号機Cタンク、これに先従輪付とした神中3号機とともに地方私鉄タイプのタンク機として模型でもよく知られた蒸機である。一連の汽車製造の小型タンク機でキャブの窓の独特なR形状が耶馬渓鉄道10号機と同じである。


昭和39年12月は運よく1号機が動いていた。
ピーコック5500形を2B1形タンク機に改造したB10形(小湊鉄道に保存)のような英国系2B形テンダの改造機のようであるが正確なところはよく判らない。


小さな機関庫の前で 三井埠頭 1号機. 1964.12.25



参考文献引用 臼井茂信著: 機関車の系譜図3 交友社

2025年2月7日金曜日

川崎・鶴見界隈の専用線

第一セメントを訪ねたある日 1964年12月25日


川崎鶴見 工場地帯の風景.

オリンパスペンで撮った第一セメントの機関庫風景.
三井埠頭3号機 1963年6月
三井埠頭の3号機は産業用機関車風であったが、1924(大正13)年コッペル製であった。
鶴見臨港鉄道→国鉄→三井埠頭へ譲渡(昭和25年)の経歴で昭和43年まで稼働した。
運転整備重量30.2tでコッペルのCタンクとしては最大級だそうだ。



三井埠頭5号機。








三井埠頭1号機(ピーコック)と5号機(汽車会社)が動いた第一セメントの現場.こんな現場に立ち入るのをよく許可してくれたものです。

2025年1月24日金曜日

オリンパスペンから落穂拾い(4)

朝の仙台機関区は大型蒸機が至るところに休んでいてその大きさに圧倒された。
まだSL全盛であった仙台以北の東北本線。

2011年にアップした仙台機関区はこちら→「朝の仙台機関区


撮影:1963.9.29







2025年1月23日木曜日

瀬峰駅風景

1960年に東北本線から眺めた仙北鉄道の瀬峰駅風景が初めて見た軽便の感動だった。 


瀬峰駅風景 1966.3.1

2025年1月4日土曜日

オリンパスペンから落穂ひろい(3)

 2025 新年

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。



北陸鉄道加南線(山代線)の新動橋から歩く.1964.12.29


2024年12月31日火曜日

2024年12月23日月曜日

鉄道模型アートマルシェ

年の瀬の吉祥寺で開催されたマルシェにご来場戴いた皆さんありがとうございました。
二日間多くの方との出会いがありました。

私は写真の他に初めて車両採寸ノート、模型のための車両写真集、沼尻の図面、初公開1/45九十九里鉄道貨車ケワ50を展示しましたが、採寸ノートに意外な反響がありました。これらを今の3Dプリンタによる模型製作と較べてみると、60年後の模型技術の進歩が驚異的です。
 

バス顔 単端の出会い.
1/48 根室拓殖鉄道キハ2かもめ(鉄道青年さん)と西大寺鉄道キハ1(S山さん).

根室拓殖鉄道の時刻表.昭和33年 提供 esehokuさん
中央のたった2行だけです.

ラスト(西花マキさん)と写真(風間克美)を対比させた初のコラボ展示.


アララギさんの3Dプリンターによるシェイ.


S山さんの1/48 西大寺、駿遠、沼尻.


車両採寸ノート、模型のための車両写真集、実測に基づく沼尻車両図面など60年前の活動成果.

60年前に製作したO番ナロー九十九里鉄道ケワ50の初公開.へっついとジオラマは城東電軌さん

2024年12月12日木曜日

鉄道模型アートマルシェ

来週のアートマルシェで西花マキさんのイラストと私の地方私鉄写真をコラボで展示します。地方私鉄のイラストと写真、果してどんな感じになるか?  




ギャラリー永谷  2022年12月

2024年12月6日金曜日

東急世田谷線(旧玉川線)

青空と玉電カラーの世田谷線(旧玉川線)


下高井戸-松原 2024.11.24
沿線にドラマの民家「大沢家政婦相談所」が写っていたとは驚き!

下高井戸駅   1962.12.07
この辺りで玉電や京王線の中型車を撮っていたのは遠い昔62年前のことであった。

玉電山下近辺

2024年10月1日火曜日

『軽便讃歌13』

2024年9月28日 軽便祭プレイベントの講演にご来場ありがとうございました。

綿商会館4Fホールで開催された講演と、翌29日の軽便模型祭が終わりました。
プレイベントの講演「軽便讃歌13」では私の『地方私鉄めぐり 魅力のナロー情景』と
名取編集長の「1976年、第一回軽便祭の頃」でした。


今回は、当時の旅のポリシーやエピソードも交えつつの内容と、遠州鉄道奥山線の印象深かったナロー情景や西大寺の単端などを取上げました。スタートすると会場は真っ暗に、準備した駅名などのメモが読めない・・幾つか駅名が出てこないのには焦りました。

次は名取編集長の「1976年、第一回軽便祭の頃」で紹介場面です。
約300枚ほどの画面で後半は私が知らないトワイライトゾーンを追った時代が紹介され、長髪の若者たちが何故トロッコを追ったのか? あの時代のことが分りました。あの若者たちは今や60~70才前後でしょう。


翌日の軽便模型祭の賑わい.

2024年9月12日木曜日

第20回軽便鉄道模型祭プレイベント『軽便讃歌13』

毎年恒例のプレイベント(講演)の宣伝です。

期日:2024年9月28日(土)
・会場:綿商会館 4Fホール

・開場13:00・開演13:30

プレイベントの案内サイト
https://keibenfes.exblog.jp/242393978/

『地方私鉄めぐり 魅力のナロー情景』
今回は、遠州鉄道奥山線をはじめとする、軽便鉄道の殊更印象深かった情景を中心に、当時の旅のポリシーやエピソードも交えつつの内容です。


あれから50~60年眠っていたネガを取り出してプリントしてみると、当初の撮影ポリシーには無かった撮影対象が新鮮で、時を経て見る情景写真にはあの時代の生活感が溢れていた。





2024年9月1日日曜日

60年前の小さな旅

先日8月17日にビックサイトで開催したJAM クリニック「地方私鉄 失われた情景」で
参加者に配布された冊子です。


冊子「60年前の小さな旅」
関東鉄道竜ヶ崎線

私が竜ヶ崎線を知ったのはTMS 89号に紹介された地方私鉄めぐり「鹿島参宮鉄道竜ヶ崎線」だった。TMS 89号は1955年12月号で昭和30年、私はまだ小学生だった。
この記事から竜ヶ崎線にすっかり惚れ込みマイカメラで真っ先に訪問したのが7年後の昭和37年とその翌年。TMS記事で見た5両の古典二軸客車は一両となり客貨混合列車は消えていたが蒸機2両が健在で、記事にあった昭和30年頃の鹿島参宮鉄道の面影が至るところに残されていた。





東京近郊でこんな蒸機が牽く列車の光景をまだ見ることができた昭和37年。 列車はハフ15(片ボギー)荷物車を連結して、まるで客貨混合列車のようだった。1962.3.29