秩父鉄道と言えば熊谷駅構内で見た美しい電機たち。あの頃の貨物輸送にこんな魅力的な電機が活躍していた。それと秩父鉄道のホームの先にいた東武熊谷線の美しい気動車。
案内文章
2026年4月20日月曜日
2026年4月19日日曜日
秩父鉄道SL列車と、63年前のC58 363
先日、秩父鉄道SL(C58363)列車で熊谷から三峰口まで乗ってきました。
会社OB達との旅は、毎度飲み食い主体の飲み鉄であり、改めてSLと西武特急ラビューを撮りに行きたくなる絶好の季節であった。それにしても新緑の野山が美しかったこと。
2026年4月16日木曜日
2026年4月13日月曜日
Oナローの線路
マイクロエンジニアリングのコード83(レール高2.1mm)(実物30kg相当)のスパイク打込み。実物で30kg相当は沼尻の太いレールくらいになるが、模型にすると沼尻より細く見える。Oナローの地方私鉄ではレールはコード83と70で十分か? 林鉄やトロッコでは更に細いコード55や40のレールか使われるようだ。
2026年4月8日水曜日
記憶にある色を求めて 沼尻鉄道
モノクロ写真の生成AIによるカラー化。
AI任せでは色が出ない昭和30年代の難関車体色の代表が尾小屋DC121、浅間線、沼尻。
沼尻のカラー写真の事例がネットに多々あるが、その多くは模型のカラー写真。
書物の印刷でイメージに近いのが機芸出版社「軽便探訪」の表紙くらいであった。
青でもない緑でもない、何とも言葉で表現できないのが沼尻の色だった。
2026年4月4日土曜日
記憶にある色を求めて 松本電鉄浅間線
刻々と進歩している生成AIによるカラー化。
試しに63年前の松本駅前の浅間線を生成AIカラー化してみた。
街並みの色に不自然さはないが、
浅間線のカラーリングがどうしても再現できなかった(1枚目)。
昭和30年代の地方私鉄カラーリングは独特で、特に浅間線のくすんだカラーリングの再現は最難関の部類と思われる。数年前まで松本市内を走っていた浅間電車カラーのバスもイメージが違っていた。
街並みの色に比べて、浅間線の色の情報が如何にネットにないかである。
ヒギンスさんの写真集にあった1枚の写真が唯一近いと思われるがネットにはない。
次の2枚目は色あいを文章で指定し様々作成したうちの1枚で、おぼろげな記憶に残る色。
2026年4月1日水曜日
奥羽本線 糠ノ目駅
ホームで列車を待つのは、
山形交通 高畠線からやってきた乗換え客。
厚い外套、手袋、長靴を履いた足元。
子どもを連れた人、荷物を抱えた人。
やがて煙が近づく気配で、線路の先を見る。
列車が到着すると、決まったように乗り降りしていく。
どこにでもあった、乗換え駅の風景だった。
2026年3月30日月曜日
井笠ホハ10と三度目の出会い
写真は1年前の3月30日に関水本線(関水埼玉工場)で撮影した元井笠ホハ10。
西武山口線仕様34号として見事に復元された。
井笠ホハ10の経歴
①井笠鉄道での現役時代
②井笠鉄道廃線後、西武山口線で使用され、
その後、西武遊園地でレストラン列車として使用される
③関水本線で山口線仕様34号(元井笠ホハ10)に復元
山口線仕様34号の復元で井笠ホハ10と三度目の出会いであった。
2026年3月23日月曜日
底冷えの岩倉
正月の京都に来ていた。街は華やかな正月だった。
なのに観光らしいことは何もせず、
私は洛北へ向かい、岩倉盆地の田んぼの中にいた。
しかし京都の底冷えには参った。
今思うと、廃線になる路線でもないのに、
あの寒さの中で防寒着も着ず、
薄着でよく我慢して撮っていたものだと不思議に思う。
そう思うと、底冷えの岩倉も悪い思い出ではない。
2026年3月19日木曜日
2026年3月18日水曜日
火鉢
定員たった37名の小さな客車は、川桁で乗り換えてきたスキー客で身動きもとれなかった。列車は雪の中をゆっくりと走り、沼尻に到着すると、スキー客は一斉にバスへ乗って沼尻温泉スキー場へ向かった。
駅に残された客車の中をのぞくと、そこに、ぽつんと火鉢が残っていた。
やがてこの路線も消え、その後すぐにスキーもマイカーの時代となった。
あの車内のぬくもりを、ふと思い出すことがある。
2026年3月13日金曜日
時代のひとコマ
大山街道手前の踏切を走り抜ける電車の前を、
人が足早に渡っていく。
自転車に乗ったおばさん、塾通いらしい女の子。
下駄を履いた若者、どこにでもある街の昼下がり。
こうした街の風景は、早くに消えてしまった。
気がつけば街はすっかり姿を変え、
玉電が走っていたことさえ忘れ去られて行く。
あれは何気ないある日の記録。
今思うと、それは時代のひとコマだった。
電車は踏切を渡ると木立の脇をカーブし併用軌道(大山街道)に入る。
2026年3月11日水曜日
奥山線 最後の日
奥山線が廃止になる最終日、終点の気賀口駅に立った。小さな駅には、静かな時間が流れていて、線路の先に客車が1両休む風景はいつも変わりない。見送る人も、名残を惜しむ声もない。秋の草が線路脇で揺れていた。この駅も線路も今日が最後。そんなことを思いながら、去っていく列車を見送った。夜には最終列車の見送りがあり、この駅の役目が終わる。
2026年3月8日日曜日
煙の中へ
稲刈りが始まった秋の田んぼ。
ここですれ違った。
通り過ぎた蒸機の煙が、田の上にゆっくり残る。
二俣線の線路を越えて消えていった。
翌日から奥山線はバスに切り替わった。
2026年3月6日金曜日
湯野上温泉
国鉄会津線 1974年 夏
一枚の鉄道写真を見ると、
あの日のことが鮮明によみがえる。
若い頃に撮った写真は、なぜか記憶によく残る。
さらに鉄道写真には、
日付と場所がしっかり記録されている。
雨が上がった朝の駅を撮りに行ったこと、
対岸から貨物列車を狙ったこと、
同行した友達や家族のこと、
などが思い出される。
鉄道だけではない。
あの頃はどんな時代だったのか。
50年たった今でも、
ついこの間のことのように蘇ってくる。
2026年3月3日火曜日
新宿警察署前
都電を撮っていると、クルマが写り込み、
しかし何年も経って昔の写真を見返すと、
クルマのいない写真はどこか物足りない。
クルマもまた、その時代を映す存在だったのだ。
この写真でも、
当時の東京にこんなクルマが走っていたことが楽しい。
路面電車だけが走る道路よりも、
クルマと共にある風景にこそ、街の息づかいがある。
それに気づいたのは、ずっと後になってからだった。
2026年3月2日月曜日
夏の朝
仙北鉄道 1964年夏
地方へ鉄道を撮りに行くと、よく声を掛けられることがあった。
「どこから来たの?」「何を撮っているの?」
まだカメラをぶら下げて線路端に立つ者が珍しかった時代だ。
仙北鉄道では早朝に列車を待っていると、背後の家から声が飛んできた。
「お茶でも飲んで、ゆっくりして行きなされ」
縁側に呼ばれて、お茶と漬物をいただく。
どこから来たの等、取り留めのない話をしているうちに、
庭の先を朝の列車が通り過ぎて行った。
列車のことよりも、あの夏の朝のことが強く思い出される。
地方では見知らぬ者に声を掛けることは、ごく自然なことだったのだろう。
沿線の人のぬくもりが感じられた夏の朝だった。
仙台まで行商に行っているそうだ.













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