案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2026年6月13日土曜日

会津田島の秋

 「会津田島の秋」  昭和46年11月

秋の休日、紅葉を求めて会津線のC11をよく撮りに出掛けたことがある。

当時のカラー写真は思うような発色にならず、そのまま長く眠っていた。

今回色調を整えてみると、鮮明なC11と紅葉、そして秋の空が現れた。

あの日の会津田島が、少しだけ戻って来た気がした。
(AIによるカラー画像の鮮明化)




会津田島  1971.11.3


2026年6月12日金曜日

矢掛線の雲と民家

この日の井笠鉄道は青空に浮かぶ白い雲と、沿線の民家が印象的であった。
北川から矢掛へ向かう列車を撮った1枚。
これまでのカラー画像では空と遠方に見える民家が生きて来なかった。
今回、AIで鮮明化したあと、Adobeで様々トーンを変えて仕上げてみた。
作り物の白い雲ではなく元画像にあった雲のカタチや、民家などが鮮明に見えてきた。
(AIによるカラー画像の鮮明化)


矢掛線の雲と民家。 北川 1967.3.8


2026年6月10日水曜日

早春の陽光

「早春の陽光」井笠鉄道 昭和42年3月。

草木が青々とした新芽を出し始めた両備地方に、やわらかな春の陽光が降りそそいでいた。この地方独特の家々の間を、小さな軽便鉄道が静かに通り過ぎてゆく。
暖かな陽気に包まれた午後、赤い気動車に牽かれた緑とクリームの客車は、この土地の日常の風景の一部だった。
(AIによるカラー画像の鮮明化)

色の調子が不満足だったカラー画像をAIで鮮明化してみると、死んだカラー画像が生きて来る。元画像がカラーなので車両のカラーはよくある暴走が無くて安心できる。ジオラマのような色あいから、渋い色合いまで何種類か生成画像を出して、その中の一枚を好みに仕上げてみた。



薬師 - 北川 1967.3.8



北川駅を発車し井原へ向かう。
井原駅では矢掛線のホジが発車を待っている。


2026年6月7日日曜日

真夏の淡路 宇山駅

「真夏の淡路 宇山駅」淡路交通 1965年夏 
洲本駅を発車した電車は民家の裏手をかすめるように走り、洲本川を渡り左へカーブするとほどなく宇山駅に到着した。

駅の待合室の壁には、島まつり案内や、「ご利用のみなさんへ」迫りくる廃線に関する紙面が貼られていた。洲本行のホームでは子ども連れの家族が電車を待っている。きっと洲本の島まつりへ向かうのだろう。笑い声と東京にはいない喧しいセミの鳴き声が混ざり合い、空気は夏一色に染まっていた。
 (AIカラー化画像) 以前、モノクロで取上げた宇山駅をカラーにしてみると、真夏の空に浮かぶ白い雲、乾いた駅前広場の暑さ、ゆっくり流れていた島の時間などが蘇って来る。夏の陽ざしも今ほど強くなかったあの夏の日はもうやって来ない。



淡路交通 宇山駅 1965.8.2


2026年6月3日水曜日

里山風景

「里山風景」奥山線 1964年春

軽便鉄道の築堤の下に、一軒の民家がひっそりと建っている。庭先には洗濯物が干され、暖かい春の日差しを浴びていた。

当時、浜松郊外に自然豊かな里山があった。やがて各地で繰り広げられたのと同様に、丘陵は削られ、広大な宅地へと姿を変えていった。昭和30年代は、都市近郊にそんな里山がまだ息づいていた最後の時代だったかも知れない。
(AIカラー化画像)

昭和30年代のをカラーにしてみると、写真を見ているというより、あの時代の空気の中へ戻って行くような感覚になる。


祝田駅から谷駅へ向かって三方ヶ原台地を上って行く列車。
その車窓に自然豊かな里山があった。1964.3.23



2026年5月30日土曜日

2月終わりの庄内砂丘

「2月終わりの庄内砂丘」庄内交通 湯野浜線 1966年

丘に登り松林の向うに穏やかに開けた日本海を眺めると、早朝から撮り歩いて来た岩場が続く暗い日本海とは違って、優しい雰囲気を感じる海岸線だった。
モノクロ画像をカラーにしてみると、海辺の湿度感、砂丘、二月の終わり、小さな電車、曇天の海などの色が効いて、空腹を忘れ丘に登ったあの時のことがより鮮明になって来る。


庄内砂丘  1966.2.28


昔のネガに写った七窪駅を、今カラーにしてみると、庄内砂丘の曇天、潮風に揺れる防風林、枯草、木造駅舎の風化した壁、かすかに感じる生活感。 そんな細部が刻まれた現役の七窪駅が、より鮮明になって来る。


砂丘の中にあったひと気のない七窪駅。

2026年5月29日金曜日

築館線の残照

「築館線の残照」仙北鉄道 1964年夏

鉄道が動いていた時代のこと以上に、鉄道が消えた後の線路の風景には深さがある。
そんなことに気づいたのは、撮影したずっと後のことだった。

この写真は仙北鉄道 築館線の廃線跡。当時私は何の感慨もなくシャッターを押したのは「記録として残すだけ」の感覚だった。ところが後になって見ると、妙に心に残る。

この線路の向こうにあった、かつての暮らしの気配。駅に集った人々の声。行き交う小さな2軸ガソリンカーのエンジン音。 それらが消えて久しいのに、ここには「何か」が残っている。鉄道が消えた後の線路の風景は、私たちに鉄道が活躍していた時代の光景を想像させてくれる。



瀬峰から延びる1950年に消えた築館線のナロー廃線跡。
撮影:1964.8.4

 過去に投稿した「鉄道が消えた跡の深さ」をカラー化したものの、やはりモノクロの方が似合うようで、ハーフ判モノクロ画像の鮮明化だけをAIでやってみました。




2026年5月27日水曜日

「ディスカバード・ジャパン」 鉄道沿線に見るこの国の姿、今昔。

著者 大木茂さんが十年掛けていたのはこの本だった。16歳から日本各地の鉄道を撮り歩き、十年かけて記録した風景。その半世紀後、再び同じ場所に立ち、失われた線路や変わり果てた街並みを十年撮り続けた。

車で全国を巡りながら、十年を費やしてまとめ上げた「日本の今昔」。それは単なる鉄道写真集ではなく、この半世紀で地方がどれほど衰退し、風景が変わってしまったかを物語る記録であった。

一つの時代を見つめ続け、なお撮り続ける。その団塊世代の気力と執念に、ただただ敬服するばかりである。あの時の現場で何を想い、半世紀後の現場で何を想ったか、本を開くと惹き込まれる写真+エッセイの本。




2026年5月25日月曜日

京都市電 京大吉田寮

「京大吉田寮と市電」京都市電 1969年正月

記憶から消え行くあの時代の空気感。
電停近衛通の向こうに見える吉田寮。写真は学生寮の問題に端を発し京大全学的紛争へと発展する直前だった。この時に吉田寮生で2回生だった方からのコメントでそれが分かった。
これから大変な時代を迎える昭和44(1969)年正月の静かな風景であった。


背後に京大吉田寮の建物.電停 近衛通.1969.1.2

先日のコメントから。
1969年1月2日、私は吉田寮生で2回生でした。この年は学生部封鎖から大学紛争に入り、今では考えられない時代でした。寮費は月100円、寮食堂は生協食堂より安くて美味しく恵まれていました。下宿代は1畳が1000円の時代でしたので、奨学金とバイト代で月1万円あれば何とか過ごせました。当時の写真は何もなく、アップして下さる市電の写真で昔を思い出しています。

2026年5月20日水曜日

雪の湯野町

「雪の湯野町」福島交通軌道線 1966年12月

飯坂温泉の街外れ湯野町を発車した電車は、
雪が残る家並みの間の専用軌道を走って、
伊達駅前へ向かって行った。
(不鮮明なハーフ判カラー画像をAIで鮮明化)


福島交通軌道線の難解なツートンカラーは私の記憶にはない色で、様々な情報からこの写真のツートンカラー(特に窓下の青緑)に落ち着きそう。




2026年5月19日火曜日

記憶にある色を求めて 能登線

北陸鉄道 能登線  1962年夏

1962年夏、何がいるのか行ってみないと分らなかった能登線。分かっていたのは時刻表の情報だけ。能登線のカラーリングの根拠はノートにあったメモによる。福島交通軌道線、沼尻と同様に窓下が微妙な青緑カラーで、正に昭和30年代らしいカラーリングであった。この後すぐに北陸鉄道の赤系カラーに変更され、能登線と言えば北陸鉄道の赤系カラーが有名になった。
(生成AIカラー化画像)


滝駅を発車した気動車は民家の間を抜けて海辺へ向かうと、前方に日本海が開ける。
滝 - 柴垣

実車を見た時の感想は、窓回りが灰色で白っぽい/窓下が緑がかった水色で緑に近かった。この緑がかった水色が特徴で、彩度と色温度の調整で様々変化する青~緑の色合い。能登線の昭和30年代らしい難解のカラーは未だ完成していない。

2026年5月16日土曜日

記憶にある色を求めて 法勝寺電鉄

日の丸自動車 法勝寺電鉄 1962年夏

1962年夏、国鉄時刻表にあった「日の丸自動車・法勝寺電鉄」を頼りに山陰本線米子駅に降り、米子駅の地下道をくぐり反対側に出ると、「日の丸自動車㈱電車部米子市駅」の看板を掲げた駅があり、木造電車が朝一番の発車を待っていた。朝日を浴びたツートンカラーが強烈に記憶に残り、あの時の記憶に近いのがこんな色であつた。
(生成AIカラー化画像)

屋根の色は記憶になくヒギンズさん写真集を参考にした。ChatGPT Plusが数種類出力した画像の一つを基準とし、記憶にある色に近いイメージになるまで調整したものの、青みが未だ完成していない。

朝日を浴びたツートンカラーが強烈な印象であった。
この色の木造電車(元池上電鉄 日車 大正11年製)はデハ201と203がいて、写真はデハ203+フ51。


2026年5月11日月曜日

さいわい橋

「さいわい橋」 福島交通軌道線  1966年

雪の川を渡る電車は、
年の瀬の光の中を走っていた。

山は遠く霞み、
木橋の匂いまで
冷たい風に混ざっていた。


使い物にならなかった不鮮明なハーフ判カラー画像がAIで蘇った。 
福島では「記憶にある色を求めて」の車体カラーの検証ではなく、あの時の清々しい空気感を優先したので、車体カラーが濃くなっています。
(不鮮明なハーフ判カラー画像をAIで鮮明化)


摺上川に架かる木橋「さいわい橋」 1966.12.31
私が見た軌道線の車体カラーは泥だらけでよく覚えていません。誌面情報、ネット情報には様々なカラー情報があり、青寄りも緑寄りもあります。私にはハッキリした記憶が無いので、福島では記憶にある車体カラーの検証ではなく写真の空気感を優先することにしました。ハーフ判カラー画像からAIが出力した車体カラーのままで、Adobeで調整仕上げしたものです。



写真の空気感より車体カラーの検証を重視して出力したもので、調整仕上げなしです。


2026年5月8日金曜日

オリンパスペンで撮ったカラー画像が蘇る

今回は、単なる「モノクロの色付け」ではなく、オリンパスペンで撮った不明瞭なカラー画像を生成AIで鮮明化してみると、これは驚いた59年前の記憶の空気感まで戻ってくる。


島原城から見下ろした瓦屋根の街並み、遠くに広がる有明海、その向こうに浮かぶ熊本。
 1967.3.3

今回の調整は
・海を少し淡くしたこと
・彩度を抑えたこと
・コントラストを自分で追い込んだこと
この調整が昭和40年前後の島原らしい冬〜春先の空気感に効いたようだ。

小さなハーフ判画像の不鮮明な情報から、AIは“存在しないものを勝手に作る”だけではなく、カラー画像の鮮明化では、カラー画像の中に埋もれていた微細な色調や形を拾い直して「当時の記憶に近い形」で再構成していると思われる。

昔のハーフサイズ・ネガの画像は粒子も粗く、情報量も少ない。しかし逆にその曖昧さが「記憶の風景」と非常に相性が良いのかもしれない。


島原の武家屋敷跡。1967.3.3

2026年5月6日水曜日

夕暮れ時の尾道

 「夕暮れ時の尾道」  尾道鉄道  1962年夏

山陽本線尾道駅のホームが帰宅客で賑わいはじめた夕方、駅の地下道を進むと、背後に山が迫る狭い一角に「尾道鉄道のりば」があり、小さな2面のホームに電車や客車が休んでいた。
(生成AIカラー化画像)



尾道の街に灯りが燈り始める頃、
電車は発車して行った.1962.7.30


2026年5月3日日曜日

学校前の急カーブ

「学校前の急カーブ」松本電鉄 浅間線 1963年7月

砂利道の併用軌道を、埃を巻き上げながら木造電車がやって来る。
十分に速度を落とし、急カーブに差しかかると、
ギィギィと音を立てながら直角に曲がって、松本駅前へ向かっていった。

正面の高校では、生徒たちが大掃除に追われている。
明日から夏休みなのだろうか、
校舎のあちこちに、そんな気配が漂っていた。
(生成AIカラー化画像)


学校前 - 日の出町 1963.7.20


これまで「記憶にある色を求めて」で、昭和30年代の車両カラーを生成AIとのやり取りで詰めてきました。さらに車両の背景を含めた情景としての色あいも煮詰まってきましたので、写真+短文を1枚に仕上げてみました。

こんなシーナリーセクションを作ってみたい、けど私はこの1枚で十分です。
使ってきた生成AIは、ChatGPTの有料プランPlusです。


今回、私の記憶にある車体色で浅間線が定まってきたので、昭和30年代の沼尻、尾小屋、能登線などの車両カラーを更に詰めて行こうと考えています。

1970年代以降は車体カラーが誌面情報・ネット情報などで分かるのでカラー化した時の感動は薄く、美しいモノクロ写真を何でわざわざAIで酷いカラーにするの?? こんな疑問はよくあることだと思います。

ここで取上げて来たのはカラー情報が無くて車体カラーがよく分からない、また誌面情報で車体カラーが分っていても記憶とは何か違う、そんな昭和30年代から昭和40年代初頭までの車体カラーです。


2026年4月29日水曜日

記憶にある色を求めて 尾小屋DC121

昭和30年代の地方私鉄独特なカラーリングの中で、今回のカラー化は尾小屋、沼尻、松本浅間線などの奇妙で曖昧な色を出すことが主目的であった。この路線に限らず昭和30年代の地方私鉄の奇妙な色はその殆どが昭和40年代に塗り替えられて、消滅してしまった。

その一つ尾小屋DC121が赤系になる前の1962年に見た曖昧な色を、記憶とノートのメモを元にAIカラー化してみた。当時の色は紙媒体があったとしても仕上りにバラツキがあり正確な色の記録は無く、見た人各人の記憶にあるのみ。

FBに投稿したカラー化DC121を更に仕上げたのが今回です。



窓回りの緑がかったクリームが印象的であった
DC121  金平 1962.8.1


2026年4月26日日曜日

記憶にある色を求めて 北陸鉄道能登線

1962(昭和37)の北陸鉄道能登線も昭和30年代らしいカラーリングで、北陸鉄道の標準色(クリーム/朱色)になる以前は、こんな昭和30年代らしい色であった記憶がある。決して朱色の能登線ではなかった。

記憶の裏付けとなるカラー情報はネットや書物に見つからず、やっと見つけた訪問ノートのメモが裏付けとなった。窓下が北陸鉄道の朱色ではなく微妙なブルーであるのは間違いなかった。

窓下のブルーをもっと明るい水色に指定して再度AIカラー化をやってみた。
AIは昭和37年の能登線のカラーを知らない(ネットにカラー情報がない)ので何種類もブルーを試してみて、その中の1点を自分でトーン調整したのがこの1枚になった。ブルーをもう少し濃くしたいがAIは窓上クリームまで濃くしてしまうのでそれは無理であった。記憶に近い色の見本が無くて能登線も厄介な色ブルーであった。


撮影:1962.8.2

昭和37年 夏の能登.能登線のカラーリングが能登によく似合っていた時代、これが記憶に近い昭和30年代の車体カラーリングであった。


2026年4月25日土曜日

記憶にある色を求めて 常総筑波鉄道筑波線

 1962(昭37)年の筑波線のカラーリングは、正に昭和30年代らしい色だったが、奇妙な色ではなくオーソドックスなツートンだった。窓下が少し明るめの紺色で、決して派手さは無かった。

#9999さん、ご指摘ありがとうございます。
側面にある常総筑波の複雑な社章、AIでは読みとれず消しました。

撮影:1962.3.31


キハ401。真鍋


キハ305。真鍋


2026年4月19日日曜日

秩父鉄道SL列車と、63年前のC58 363

先日、秩父鉄道SL(C58363)列車で熊谷から三峰口まで乗ってきました。 
会社OB達との旅は、毎度飲み食い主体の飲み鉄であり、改めてSLと西武特急ラビューを撮りに行きたくなる絶好の季節であった。それにしても新緑の野山が美しかったこと。

撮影:2026.4.18



新緑を背にSLを眺めて楽しそうな家族連れなど素敵な風景でした。撮影がスマホなのでデジタルズームでかなり無理をしています。




C58 363 三峰口



63年前の美しい現役時代 C58 363. 
仙台駅  1963.9.29 (AIカラー化)



仙台機関区