案内文章
高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった。
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
を回想してみました。
2026年10月4日日曜日
2026年9月28日月曜日
冬の三国港駅その2
臨時改札口を右へ入ると売店があり
その奥に駅本屋があった。
背後の松林の中に木造の建屋が見える。
サハを付け替えたモハが発車を待つ
静かで落ち着いた駅のひと時。
京福福井支社 三国芦原線 1968.1.14
その奥に駅本屋があった。
背後の松林の中に木造の建屋が見える。
サハを付け替えたモハが発車を待つ
静かで落ち着いた駅のひと時。
京福福井支社 三国芦原線 1968.1.14
2026年9月27日日曜日
冬の三国港駅その1
どうしてもカラーにしてみたかった1枚。
京福福井支社の車体カラーのことではなく、
この時代の三国港の駅の雰囲気を出してみたかった。
車体カラーは「記憶にある色を求めて(まとめ)」で終了しています。
ひっそりと静まり返った駅前。
駅の向うは九頭竜川の河口で、
遠くに越前の山並みがかすかに見える。
夜から雪になり翌朝は真っ白の世界になった。
(地方私鉄 失われた情景より)
京福福井支社 三国芦原線 1968.1.14
2026年9月23日水曜日
2026年8月25日火曜日
山陽電軌の2軸車
下関の朝は山陽電軌の2軸車が活躍していた。当時 2軸車は12両在籍し、朝夕のラッシュ時に下関~東下関駅間で使われた。朝のラッシュが終わると、次々と戻って来た2軸車で東下関駅車庫は賑わった。
撮影:1967.2.27
2026年8月24日月曜日
2026年8月18日火曜日
夜行列車
鉄道撮影の旅では、夜行列車と周遊券はもってこいであった。
深夜に乗り込む夜行列車は、驚くほど空いていることがよくあった。ボックスシートを一人占めして、体を横たえて眠りにつく。ぐっすり眠って目を覚ますと、そこは一変して朝の通勤時間帯。通路には通勤客がびっしり立ち、車内は別世界になっていた。
こんな利用を何度も繰り返したが、通勤客から注意されたことは一度もなかった。旅を続ける若者を、みな温かい目で見守ってくれていたのか、それとも私が運が良かっただけなのか、今となっては分からない。
2026年8月14日金曜日
2026年8月11日火曜日
2026年8月9日日曜日
2026年8月7日金曜日
横浜駅前1964年
1964年10月10日
この日は東京オリンピック開会式があった歴史的な日。秋晴れの青空の下、記念乗車券を求めて横浜に向かった。その時の相模鉄道、横浜市電のオリンピク記念乗車券が今も手元に残る。
あれから62年。空が広かった横浜駅と街並みもすっかり変わり当時の面影は何もない。2軸単車が走っていた当時の横浜は、ジブリの「コクリコ坂から」 1963年5月とちょうど時代が重なる。
(AIカラー化画像)
2026年8月2日日曜日
雨の羅漢寺駅
羅漢寺を守実行の気動車が発車すると、
人影のないホームに、切り離された客車が一両。
その向こうに、青の洞門の上に
雨で霞む耶馬渓の岩壁が迫っていた。
見事な風景の中にある駅なのに、
降りる人も乗る人もごくわずか。
耶馬渓を訪れる観光客は、
既にバス利用の時代になっていたのか。
雨の羅漢寺駅は静まり返っていた。
大分交通 耶馬渓線 1967年3月
(AIカラー化画像)
2026年7月31日金曜日
客車牽引時代の栃尾線
あの越後平野を走っていた様々な編成の列車。
上見附駅に次々やってくる列車は、どれも客車を数量牽引した電車or電機であった。機回り線を使って付け替えると、スイッチバックして栃尾や長岡へ出発して行く。電車には様々のタイプがあるが、それ以上に種々雑多なのが電車に牽かれた客車。古典から珍品までその編成の不揃いさが楽しい。大正初期の最古参ダブルルーフ客車ホハ1~8、元草軽の古典小型車ホハ17,18、単車をつなぎ合わせたホハ10、それにガソリンカーや電車崩れのデカイ客車など、さまざまな珍品が活躍していた。
その後、これらの客車牽引時代は6年後の昭45年頃までに消滅してしまったようだ。


モハ214の快速列車はこんな編成で長岡へ出発した。モハ214+ホハ6+ホハ27 上見附
上見附駅に次々やってくる列車は、どれも客車を数量牽引した電車or電機であった。機回り線を使って付け替えると、スイッチバックして栃尾や長岡へ出発して行く。電車には様々のタイプがあるが、それ以上に種々雑多なのが電車に牽かれた客車。古典から珍品までその編成の不揃いさが楽しい。大正初期の最古参ダブルルーフ客車ホハ1~8、元草軽の古典小型車ホハ17,18、単車をつなぎ合わせたホハ10、それにガソリンカーや電車崩れのデカイ客車など、さまざまな珍品が活躍していた。
その後、これらの客車牽引時代は6年後の昭45年頃までに消滅してしまったようだ。

客車の付け替え作業。

モハ214の快速列車はこんな編成で長岡へ出発した。モハ214+ホハ6+ホハ27 上見附
2026年7月29日水曜日
越後平野を行く
栃尾線は1970年代に総括制御になり車両が明るいツートンカラーに塗られた。その前の時代はマルーン一色の電車が雑多な客車を牽いて越後平野を走っていた。全ての車両がマルーン一色の地味カラーで3月の寒くて暗い越後平野に埋没しそうなカラーであった。
春と呼ぶには、まだ寒すぎた。
雪が残る山々と、冬枯れの越後平野。
冷え切った田んぼがどこまでも続き、
小さな列車が静かに通り過ぎてゆく。
あの時の越後平野には、
まだ冬の余韻が残っていた。
越後交通 栃尾線 1964年3月
(AIカラー化画像)
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