案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年12月26日土曜日

両国駅

田辺さんが撮った昭和38年から両国駅をアップしてみます。
この頃は地方に行かなくても上野、両国辺りでふんだんに蒸機が撮れた時代でした。


撮影:田辺多知夫氏 1963.6.8

DD13、クハ55、C58


蒸機天国の両国駅 C58、C57、8620






両国機関区


86の貨物列車


準急「内房」


準急「外房」

2020年12月25日金曜日

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2020年12月20日日曜日

雪の永平寺駅

本日発売の鉄道模型趣味(TMS) 新月号の"地方私鉄 失われた情景"第19回は「雪の永平寺駅」京福電気鉄道永平寺線線です。

1968年、永平寺線では旧永平寺鉄道から引き継いだデハ104~107が活躍していて、三国港(東尋坊)~芦原温泉と永平寺詣の観光客を運んでいた。この日、日本海は大荒れであった。



TMS新年号.

永平寺駅の105.  1968.1.14

永平寺駅.


永平寺唐門.

2020年12月13日日曜日

後楽園駅の訪問記

西大寺鉄道の後楽園駅の跡に、竹久夢二の郷土美術館本館が建てられているのを今日初めて知りました。夢二生家記念館は西大寺の西方 瀬戸内市にあるのですね。

竹久夢二の待宵草と太宰治の月見草は似たようなイメージの花で、私にとってこの二人も似たイメージがあった。津軽が故郷なのは太宰治で、竹久夢二の故郷は岡山であった。

西大寺鉄道が現役時代に訪ねた後楽園駅の記録を書き出してみました。

西大寺鉄道 後楽園駅


岡山電軌
昭和37年7月29日
朝7時過ぎ岡山市内の宿を親切な女中さんに送ってもらい出発した。いよいよこれから西大寺鉄道訪問で後楽園の駅まで岡山電軌を見ながら歩くことにした。朝のメインストリートには岡電の単車が車体を前後に揺さぶって走っていた。


後楽園駅のキハ7
大きな堀を渡るとそこは後楽園、そこを左へ曲がりまた橋を渡ると「西大寺市行のりば」の看板がある後楽園駅が目前に現れた。待合室にいる乗客はお婆さんが二人だけ。駅に荷物を預け(15円)駅舎などを撮っているとボギー気動車キハ7がホームに入って来た。


キハ7車内
発車まで車内ではバス運転手と同じ格好をした運転手が朝刊読みながら客席シートで一服
していた。お客が4~5人乗るといよいよ発車で私は運ちゃん横の特等席に座った。

エンジンがブルルンと掛かるとチェンジギアのレバーを入れ替えて気動車は動きはじめた。
やはりナローの乗り心地は格別でカタンカタンとレールの気持ち良いジョイント音を響かせて民家の軒下をかすめて進んで行った。運ちゃんの気楽な恰好の足元はサンダル履き。

しばらくすると田んぼの中一直線の草ぼうぼうの線路を気動車はえらくスピードを上げてきた。左手に山陽本線が見えてくると、まもなくして気動車は財田(東岡山)駅に到着した。


財田の交換

2020年12月5日土曜日

津軽鉄道

 雑誌の原稿で僅か数行の文章でデータ付合わせや調査の時間、無駄な努力とは思いますが仕方ありません。いっそ譲渡経歴や形式、系や形の使い分け、在籍時期などは省いてしまえば良いのかも知れません。


津軽半島の○○山系を背後にDD350形が牽く混合列車が五所川原へ向かう。
一野坪(S49年廃止駅)~十川 1966.3.3


西武所沢工場で改装され1965年に入線したナハフ1203(元西武151形)


旧塗装色のキハ2406(元三岐鉄道)

2020年11月24日火曜日

産業用機関車を訪ねて 古河足尾歴史館(あしおトロッコ館)

NPO法人足尾歴史館は2019年4月から古河機械金属㈱が運営を引継ぎ「古河足尾歴史館」として再スタートしました。これに伴い従来の鉄道保存ボランティアチームによって運営されてきた屋外展示や車両保存活動は、独立した新たな組織「一般社団法人あしおトロッコ館」となり古河機械金属㈱協力のもと「古河足尾歴史館」の屋内外展示場で昨年から活動を開始したそうです。

今回の訪問目的はこの「あしおトロッコ館」に保存されている産業用機関車の見学でした。
トロッコ館というと足尾ガソリン機関車(レプリカ)や加藤製4t機関車の動態保存がよく知られていて客寄せの運転施設のイメージが強いのですが、実は未整備車を含めて多くの産業用機関車をストックしていて、これらの整備が進むまではまだ積極的にPRしていないそうです。

今回の訪問ではとても見切れずざっと確認ができただけでした。
保存車は産業用機関車で動態保存6両、復元中7両で、その他トロッコ客車、トロッコまで様々。

再度訪問した時はこれらの車両を時間掛けて見学したいものです。
これから更に整備・復元が進んで動態保存車が増えてくるとトロッコ(森林鉄道、鉱山鉄道、工事鉄道)ファンにとってますます見逃せないメッカ「あしおトロッコ館」になることでしょう。
撮影:2020.11.21
古河足尾歴史館の展示室。丹念に資料を見れば足尾銅山の歴史が学べる。


運転中のカトー4tディーゼル機関車とトロッコ客車(足回りが元向ヶ丘遊園の客車)
背後が古河足尾歴史館

足尾ガソリンカー軌道の機関車と客車(ともにレプリカ)

加藤製作所製4t機関車(動態保存)

米川鉄工所製3tガソリン機関車(動態保存) 元花巻市建設会社からの寄贈。
最も気になったフリクションドライブの小さな機関車。


気になる未整備のガソリン機関車(復元中)



ニチユ10トン電機(復元中) 元新八茎鉱山。未整備車がゴロゴロしている。
シートに包まれた元向ヶ丘遊園の豆電車(復元中)


屋外展示場とストック材。
足尾の山に今は木が茂っている。

2020年11月23日月曜日

産業用機関車を訪ねて 足尾銅山観光

先日、紅葉のわたらせ渓谷鉄道に乗って通洞にある古河足尾歴史博物館(あしおトロッコ館)に保存されている産業用機関車を訪ねてきました。帰りにすぐ近くにある足尾銅山観光(観光客のほとんどがここへ行く)にも立ち寄ってみましたが、地下展示室にあった小さな坑内用電機が注目でした。足尾銅山観光の詳細はネットにいろいろと紹介されているので省略します。本命の古河足尾歴史博物館(あしおトロッコ館)は次回アップします。


撮影:2020.11.21

素晴らしい天気の下 わたらせ渓谷鉄道通洞駅に到着。




観光で有名な足尾銅山観光のトロッコ列車に乗って坑内へ。


トロッコ列車を降りて坑道の先にあった歴史資料展示室。


この展示室で注目したのがこの美しい坑内用電気機関車。

足尾銅山の坑内軌道は475mmゲージで誠に小さな機関車。
余りにも小さな車体でポールが巨大に見える。明治26年に足尾銅山工作課にて新造。



鉱石トロッコ


「この先1200キロ以上の坑道が続きます」の表示


展示室の通路を先に進むと、そこは先ほどトロッコ列車が入って行った坑道入口であった。
 

2020年11月17日火曜日

57年前の京王線 沿線風景

57年前の京王線の下り電車、私はこの写真は背後の風景から仙川駅を出てつつじヶ丘駅に向かって坂を下っているところと思い込んでいました。ところがこの区間にある入間川がこのような小川ではないとのご指摘があり、この近くに在住の大学鉄研OB氏に鑑定を依頼した結果、写真はつつじが丘駅の東側ではなく西側であることが判明しました。

1960年代の航空写真、当時の京王線築堤の高さ、背後に見える駅などから仙川~つつじヶ丘間ではなくつつじヶ丘駅西側のつつじヶ丘~柴崎間で撮影したものでした。
モノクロ写真のカラー化、現在のカラー写真は大学鉄研OB氏より送って戴いたものです。

一面田んぼだった風景はその後埋め立てられ住宅地となり、その住宅もいつの間にか今風の住宅に変わって来て、京王線に限らずどこでも沿線風景は大きく変化し今昔対比が難しくなってきています。今住んでいる人たちにとってかっての田園風景などは遠い昔の事として忘れ去られてしまうのでしょう。


つつじヶ丘を出た下り電車、遠くに国分寺崖線の台地が見える。 1963.7.31
モノクロ→カラー化はやはり臨場感が出てきます。

現在のつつじヶ丘~柴崎。上の写真の撮影位置はほぼこの辺りと思われる。

つつじヶ丘駅の部分拡大で駅を出たところに下り勾配がある。

柴崎~つつじヶ丘間で撮った田園風景。1963.7.31

⇧つつじヶ丘~仙川
1960年代の航空写真(地理院地図) 柴崎~つつじヶ丘間。

モノクロ→カラー化.1963年のつつじヶ丘はまるでジオラマのよう。

2020年11月11日水曜日

夜行列車

昭和38(1963)年に乗った長野行の夜行列車はこんなでした。 

昭和38年 夜行列車と浅間線

有楽町で切符を買い新宿駅に着くと22:35発の長野行準急「穂高」は既にホームに列車が入線し客車内は満員で空席なし、他に何本かある夜行列車のどれも登山客で長蛇の列。仕方なく「穂高」の車内通路の床に座る事にした。

発車時刻になる頃は床スペースも満杯となり、登山客満載した列車はまるで登山貸切列車のようであった。八王子あたりからは通路を移動する客もいなくなり眠ろうとしたが床に身体を丸めて横になるスペースもなく殆ど眠らずであった。
列車は甲府でDF50重連に付け替えし4時過ぎ頃に塩尻に到着すると、やっと座席に座ることができた。しかし松本までは1時間もなく殆ど眠らず早朝のうす暗い松本駅に4:45到着した。


写真下は文芸春秋に掲載された松本清張作品「遭難」で紹介された1958年夏の準急アルプスの普通3等車の車内である。1960年にアルプスが急行に昇格すると、準急「穂高」としてひきつづき運用された。

昭和40(1965)年前後のお盆の東北方面行き夜行列車も普通2等車の車内は帰省客や東北旅行客でこんな状況であった。旅行は季節休みを利用するのでどうしても混雑がピークとなる夜行列車であった。
(1960年~3等→2等になる)

昭和38(1963)年、私達が乗った準急「穂高」は超満員で床に寝るスペースすらなかった。


昨日、西村繁男絵本 原画展「やこうれっしゃ」で見た夜行列車の絵は上野発→金沢行のこんな時代の光景が実によく描かれているが、私達が乗った夜行列車とは時代が違うようで豊かになって来た日本を感じたものだった。

西村繁男絵本 原画展「やこうれっしゃ」 国立市

西村繁男絵本「やこうれっしゃ」から

国立駅旧駅舎の改札口とその上に表示された絵画展「やこうれっしゃ」の案内。