案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年8月28日金曜日

寺下雅一さんの写真展

「ミンガラーバ! ミャンマー・レイルサイドストーリー」
本日からスタートで早速観てきました。

オリンパスギャラリー東京(新宿) 8/28~9/9  木曜休館

オリンパスギャラリー大阪          9/18~9/30 木曜休館

オリンパスギャラリー

鉄道ジャーナル誌10月号で名取さんが鉄道写真の148年でこんな興味深いことを書いていました。
              
鉄道写真か鉄道写真か・・・つまり鉄道趣味の側がツールとして写真を選択したのか、
はたまた写真の側が被写体として鉄道を選んだのか、鉄道開業150年の2022年に向けて同じ歳月を歩む鉄道写真もまだまだ変化を続けてゆくに違いありません。

今回の寺下さんの写真は奇をてらった撮り方はなく、鉄道ファンである寺下さんがありのままを記録した写真は鉄道写真になるのでしょう。私はそこに魅力を感じます。




2020年8月26日水曜日

1枚の写真から 1965年渋谷

 これも田辺さんが1965年に撮った1枚の写真。

東横百貨店西館屋上からみた営団地下鉄銀座線の検車区.1965年12月 撮影:田辺多知夫氏
東急玉川線と井の頭線の線路が並走している。今はこの検車区と玉川線の跡がすっぽり渋谷マークシテイのビルの中に納まっている。地下鉄検車区は何本か整理されたようだ。


上の田辺さんの1枚は現東急東横店西館の屋上から撮影された。2020.8.15

吉永陽一さんの写真展「空鉄うつろい」渋谷駅10年間の上空観察より。
渋谷マークシティ(エクセルホテル東急)のビルから現東京メトロ銀座線の電車が顔を出している。

吉永さんの展示作品.新しい3つのビルの土台工事をしている頃。
渋谷再開発の工事がいかに凄まじいかがよく分かります。

吉永陽一さんの写真展「空鉄うつろい」


2013年2月作成


渋谷駅へ下る玉川線の専用軌道. 1969.04.22
この写真の2年前に商号変更で東横百貨店は東急百貨店東横店となり、玉電の渋谷駅の終端は東横店西館の中に入っていた。写真に見える東横店南館はまだ建設中で翌1970年に完成している。そんな東急東横店が電車の背後に見える.

2020年8月25日火曜日

1963~1964年の横浜

 1964年東京オリンピック開催式の10月10日は横浜へ記念乗車券を買求めに行った。 その前年が先日テレビ放映された「コクリコ坂から」の舞台となった1963年5月の横浜だった。


使用許可されたスタジオジブリのコクリコ坂画像50枚より
1963年の横浜風景。



2020年8月18日火曜日

貴志川線 雑型車の時代

鉄道模型趣味(TMS) 9月号の地方私鉄失われた情景第15回は「貴志川線 雑型車の時代」です。今回は楽しい雑型車の車両紹介となりました。


1931年 山東軽便鉄道→和歌山鉄道(非電化)に改称
1943年 全線(東和歌山~貴志)電化完了 (この頃からガソリンカーが電車化される)
1955年 和歌山電気軌道に吸収合併され和歌山電気軌道鉄道線となる
1961年 南海電鉄との合併で南海電気鉄道 貴志川線となる
2005年 和歌山電鐵 貴志川線設立

たま電車で有名な今の和歌山電鐵 貴志川線は、その昔 和歌山鉄道時代からの楽しい雑型車の時代があった。淡路と海を挟んで和歌山の貴志川線は淡路交通に負けずにガソリンカー改造の電車が盛んに活躍していた。撮影した1965年はまだ南海の息がそれほど掛かっていなかった時代。

朝の通勤・通学時間にはこんな珍編成が次々と東和歌山駅にやって来た。元片上鉄道や元和歌山鉄道のガソリンカーを改造して見事に電車に化けている。
前からモハ201+クハ803+モハ202  東和歌山 1965.8.4

戻って来たモハ202と奥には改装中の小型電車らしき2両が見える伊太祁曽の小さな車両工場。この頃は南海からつまらぬ大きな電車を押し付けられていたのでしょう。

日中はモハ202を切り離してクハ803(元片上鉄道)+モハ201(元和歌山鉄道)がのんびり走る。

2020年8月16日日曜日

1枚の写真から 1963年横浜

撮影:田辺多知夫氏
横浜市電 保土ヶ谷橋 1963.12.18
国道1号線を行く市電と丸いバス。この1枚の写真(1963年横浜)からスタジオジブリの映画「コクリコ坂から 1963年5月、横浜」 のことが思い出されます。

使用許可されたスタジオジブリのコクリコ坂画像50枚より
1963年の横浜風景。
桜木町駅前

架空の「西の橋」電停


↓ 企画・脚本 宮崎駿さんのメッセージ一部。「コクリコ坂から」公式サイトより 2011年夏
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「コクリコ坂から」は、1963年頃、オリンピックの前の年としたい。47年前の横浜が舞台となる。団塊の世代が現代っ子と呼ばれ始めた時代、その世代よりちょっと上の高校生達が主人公である。首都高はまだないが、交通地獄が叫ばれ道も電車もひしめき、公害で海や川は汚れた。1963年は東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期でもある。貧乏だが希望だけがあった。新しい時代の幕明けであり、何かが失われようとしている時代でもある。とはいえ、映画は時代を描くのではない。
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宮崎駿さんがイメージした1963年頃の横浜にはこんな風景があった。
以下は田辺さんが撮った1963年横浜から。

 

横須賀線/東海道線 保土ヶ谷-戸塚 1963.12.18
高台に団地ができ始めた頃か起伏ある沿線に住宅はまだ少ない。
横須賀線で悲惨な鶴見事故があった1ヵ月後。

横浜市電の横浜駅前 1963.7.30

市電が走る市内風景1963.11.1

杉田の民家. 1963.5.3  撮影:風間

横浜高島町の高島駅(貨物)の一角にあった横浜機関区 1963.7.30
ここでC56とハチロクが自由に撮れた。田辺さんも私も同じでその殆どが機関車のドアップで周辺を写し込んだ写真は少ない。私はこの年ここで初めてC56の実車を見て感激し周りの風景などには全く目が向かなかった。

蒸機からDD13へ移行中の時代. 1963.5.3  撮影:風間

横浜機関区

2020年8月12日水曜日

浅野川線の七ッ屋

昭和39年、金沢駅前で浅野川線に乗って一つ目の七ッ屋は、小さな検車庫と奇妙な駅舎があって興味深い一角であった。検車庫が内灘に移転した後の七ッ屋はホームと待合室だけの殺風景な駅になってしまった。

前回の七ッ屋車庫の紹介
前回の七ッ屋駅の紹介

撮影:1964.12.31
 とても味わい深い七ッ屋の駅舎。 

内灘へ移転前の七ッ屋の検車庫。
正面に丸い浅野川電鉄時代の社紋が見える。モハ3561は加南線の1810形(旧温泉電軌)を改造したスタイルだが、元は加南線モハ1813であった。ではなかった
前々日に撮った加南線モハ1813は二代目1813でした。山代

七ッ屋の検車庫全景
駅と車庫のある線路配置を書いてみたくなる模型的な一角である。

写真から推定した構内配線図その3(未完)です。

浅野川線 北鉄金沢駅の地下化と移動による新旧カーブの違い(作成中)

車庫の奥にいた廃車になった2軸電車。

2020年8月9日日曜日

淡路交通 長田から広田へ

長田で下車して長田~広田間を撮ったコマを時系列に並べてみました。
風景は道路のホコリで真っ白、とても俯瞰写真を撮るどころではなかった。
やって来る電車が様々で大変に変化に富んでいた。

現在の地図の地形に置いてみた淡路交通の軌道と駅。
軌道跡が今も電車道として残っている。

撮影:1965.8.2
長田の先の急勾配を行くモハ1002。淡路らしい玉ネギ小屋が各所にありこの小屋は今も残っている。

ホコリだらけの茂み。モハ1010+モハ1011

脇を行く道路のホコリで緑は真っ白に。モハ1002

視界が開けると広田へ下る。モハ2009+モハ1003

大宮寺と思われる。

緑多い茂みを広田へ下る。モハ609+モハ610

広田駅に到着した洲本行。モハ1010+モハ1011

広田駅の福良行。モハ2009+モハ1003

全く駅の雰囲気異なるが広田駅を出た福良行でしょう。

2020年8月7日金曜日

広島電鉄 被爆車両651~653

あの日、原爆を生き延びた被爆車両が、8月6日と、復旧を遂げた8月9日の2回、広島の街を午後1時から特別運行する。(ニュースより)
広島では現在3両の被爆車両「650形」が動く形で保存されているそうで、50年前に撮った651~653を探してみました。


撮影:1967.3.7
直進すると相生橋を渡る.十日市町の653

軌道線と鉄道線の接点 己斐(西広島)駅の651 

広島駅前の652

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補足:元大阪市電1601形のこと。今回の被爆車とは関係なし。

2枚目写真で被爆車の後にいた車両とは、広電750形(751~760)の758.
元大阪市電1601形の譲渡車10両が広電750形になったものでその後廃車.

広電2500形(2511~2514)
元大阪市電1601形の譲渡車は更に4両がいてこれが広電2500形に改造された.