案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年8月26日金曜日

横浜市電の車両


横浜市電の4輪単車に惹かれて ボギー車含め戦前、終戦直後生まれの古参車両を並べてみました。
廃車体800形を除き、昭和30年代後半の横浜市電では、こんな古参車両を見ることができた。

撮影日 特記なしは1963年5月3日

大正生まれの4輪単車 400形

昭和4年製で4輪単車で最も台数が多い 500形 桜木町駅前

単車500形と600形が顔を揃えた横浜駅前 1964.10.10

 昭和3年製の初の大型鋼製ボギー車 1000形 滝頭車庫

昭和11年製で戦災復旧車 1100形 横浜駅前 1964.10.10   ポップアップ

昭和17年製 1200形 滝頭車庫

昭和14年製の木造4輪単車 700形. 桜木町駅前を出て弁天橋を渡る.

桜木町駅前


戦時設計(200形改)の800形 滝頭車庫


戦災で全焼した500形15両の戦災復旧車 600形 高島町


参考文献: RMライブラリー第120巻 横浜市電(下)

2011年8月20日土曜日

「コクリコ坂から」 1963年5月、横浜。

宮崎駿さんのメッセージに惹かれて
1963(昭和38)年の横浜を舞台としたスタジオジブリの映画「コクリコ坂から」を観てきました。
昭和38年の時代描写が実に巧みで、あの何とも言えない風景に懐かしさが込み上げてきました。
映画が終わって外に出た瞬間、現実の風景とのギャップに複雑な気持ちになったものです。
何かが失われようとしている時代から48年が経った。

↓ 企画・脚本 宮崎駿さんのメッセージの一部。 「コクリコ坂から」公式サイトより
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「コクリコ坂から」は、1963年頃、オリンピックの前の年としたい。47年前の横浜が舞台となる。
団塊の世代が現代っ子と呼ばれ始めた時代、その世代よりちょっと上の高校生達が主人公である。
首都高はまだないが、交通地獄が叫ばれ道も電車もひしめき、公害で海や川は汚れた。
1963年は東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期でもある。
貧乏だが希望だけがあった。新しい時代の幕明けであり、何かが失われようとしている時代でもある。
とはいえ、映画は時代を描くのではない。
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「コクリコ坂から」 1963年5月、横浜。
ちょうどこの1963年に横浜市電を撮ってあった。
撮った日は5月3日の祭日で横浜は五月晴れ、市電には日の丸の旗が立てられていた。
東京オリンピック前年だが道路工事中の混乱は写ってなく休日のせいか道路も空いていたようだ。
頻繁にやって来たのが単車500形でダブルルーフの400形も走っていた。
既にツートンカラーは消えてクリーム色に青帯の車体であった。
もしあの時に当たり前の風景の貴重さに気付いていれば、全く違う視点で街と市電を撮っていたのに・・・・。

麦田町の本牧トンネル.  1963.5.3

 
トンネルの向こう側は元町


高島町交差点


紅葉坂

  終点杉田の近く   ポップアップ
トラックのスタイル、中華洋食屋、看板、高い煙突などがこの時代らしい.
高い煙突から吐き出る黒い煙は全国どこにでも見られた.


2011年8月19日金曜日

川崎・鶴見界隈の専用線蒸機3

三井埠頭の3号機は産業用機関車風であったが、1924(大正13)年コッペル製であった。
鶴見臨港鉄道→国鉄→三井埠頭へ譲渡(昭和25年)の経歴で昭和43年まで稼働した。
運転整備重量30.2tでコッペルのCタンクとしては最大級だそうだ。

三井埠頭3号機 1963年6月

第一セメント17号機
元 北総(総武)鉄道5号で昭和29年に第一セメントに譲渡された。33トンCタンクは雨宮としては最大級に近く、原形の写真の堂々とした英国古典機風貌からは雨宮らしさが全く感じられない。

第一セメント17号機 1963年6月


第一セメント1404、1411号機はめったに動かず、いつも庫内に居たようであった。

第一セメント1404号機. 1963年6月 
元国鉄クラウス1400系1404

参考文献 臼井茂信著: 機関車の系譜図2、3  交友社

2011年8月15日月曜日

川崎・鶴見界隈の専用線蒸機1

国鉄鶴見線沿線の川崎界隈には日本鋼管川崎、第一セメント、三井埠頭など、鶴見界隈には日本鋼管鶴見があり、そこで働く工場専用線の小型蒸機が注目であった。特に日本鋼管は規模が大きく大変な台数だったようだが工場内入門は困難で外部に出てくるところを撮るしかなかった。

撮影できた号機
第一セメント 1404, 17
三井埠頭     1, 3,  5,  17, 
日本鋼管    10, 12, 18, 105, 124,


三井埠頭 5号機    1963年6月


三井埠頭 1号機    1964.12.25

日本鋼管 105号機    1963年6月


日本鋼管 10号機    1964.12.25

2011年8月8日月曜日

上田丸子電鉄 別所線

夏の塩田平を行く 1970.8.15
ポップアップ
信州の鎌倉と呼ばれ鎌倉~室町時代の文化財が多く残されている
別所線沿線一帯の塩田平.

塩田平を行く丸窓電車

終点 別所温泉駅



下ノ郷を出て右にカーブし別所温泉へ向かう. 下ノ郷 1970.8.17

モハ4257    上田原

まるで非電化私鉄のような光景が. 上田

2011年8月7日日曜日

丸子線を走った車両

1970(S45)年、上田丸子で最も魅力的な丸子線は前年に、西丸子線は遠い昔に消え、残った別所線はあまり期待もなしの訪問であった。しかし当時の写真をよく見てみると別所線の「下の郷」駅には1961(S36)年に休止となった西丸子線の駅の面影が残り、更に丸子線を走った話題の車両が別所線に居て、これらから消えた路線のことを偲んでみました。載せた車両は丸子線のごく一部です。


別所線の下ノ郷駅  1970.8.17
左が別所線の島式ホームで、手前が西丸子線のホームだった.廃線で使われなくなった線路上に橋を渡し改札口から別所線のホームへ渡れるようにしてある.向こうには使われなくなった電車が留置されていた.

反対側から見た下ノ郷駅でホーム右が別所線の線路.  ポップアップ


留置されていた電車は元山梨交通のモハ2342+2341. 下ノ郷
橋の向こうに少し離れて西丸子線が発着していたホームの跡が見える.
留置されていた電車の写真をよく見ると山梨交通からやってきた高床式電車2両であった。昭和38年に入線し改造後丸子線で使われ、この留置の翌年に江ノ電に譲渡され連節車となった。


山梨交通時代とはすっかりイメージが変わったモハ2341. 下の郷

気動車の車体を使った丸子線らしい小型電車モハ3220形. 山梨交通から入線し改造前の姿.
  信越線と並走し車窓に見える丸子線はいつも気になる存在であった. 1963.7.20



丸子線を走っていた元近江鉄道の小型車モハ2322+2321   上田原 1970.8.17
よく整ったスタイルの日鉄自動車製のミニ電車.この後1両が銚子電鉄へ転じてデハ501となった.


丸子線の電車と組んで走っていた元気動車のサハ27. 真田

丸子線からやってきたEB4111.      上田

丸子線からやってきたED251. 上田原

2011年8月5日金曜日

上田丸子電鉄 真田傍陽線

ホームに入ってきたのは真田行きの電車モハニ4250形.乗客が乗り込んで発車を待っている.
荷物合造車モハニ4250形は開業時からの古参電車で4両も揃っていた. 
左に停車しているのはモハ4256(元鶴見臨港).    電鉄上田 1970.8.15

トンネルを抜け神川第一橋梁を渡るモハニ4250形.  伊勢山 - 殿城口

真田氏発祥の郷 真田町を行くモハニ4250形.  殿城口 - 下原下   ポップアップ

傍陽方面へ支線が分岐する本原駅.

真田から勾配を下ってきたモハ4260(元東武鉄道).  長村
真田傍陽線は山岳路線であった.

カーブを登ると終点が近い. 長村 - 真田  ポップアップ


勾配を上りつめ真田駅に到着する.

終点真田駅の風景


真田駅は山間の長閑な風景の中にあった.