案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2016年12月28日水曜日

ブログ「編集長敬白」のラストラン

12月27日の最終日、予告通り23時59分にブログ「編集長敬白」最後の記事がアップされました。

これまでの全てを終える最終列車を見送るような感じがしたものです。

2005年5月にスタートし11年半に亘り楽しませて貰ったブログ、ほんとうにお疲れさまでした。



先日購入したRMライブラリー209号、これが最後の編集になるのでしょうか。


2016年12月25日日曜日

NHKテレビで紹介されたヒギンスさん

特集 米国人が記録した”東京の歴史”

昭和30年代の日本の原風景、地方私鉄と路面電車をカラーで記録したあのJ・ウォーリ・ヒギンスさんが日本に住んでおられるとは。昨日朝のNHKテレビの紹介で初めて知り驚いた。

余りにインパクトが強すぎて実はまだ写真集を買っていないのですが、この都電の踏切光景を見てやはり1~3偏は買わねばと思いました。昭和30年代の路面電車や地方私鉄をこのようなカメラアイで捉え、しかもカラーで撮影されたことがもの凄く、これを見てしまうと単なる鉄道写真集は見れなくなってしまいそう。


来年90になられるヒギンスさん

2016年12月13日火曜日

目黒駅前再開発

この日、白金から目黒通りを歩いて目黒駅前に到着するとこんな見覚えのある駅前風景があった。今、駅東側で盛んに駅前再開発中の場所は確か都電の目黒車庫があったところだ。都電が走っていた頃、目黒車庫には5系統4系統の小型車1000、1100形などが配置されていた。再開発で車庫の跡地は大きく変貌を遂げているが、駅ビルには50年前の目黒駅の面影が残されていた。今や時代遅れとなってしまった駅ビルもいずれ建替えられるのだろう。

現在の目黒駅前で左手が工事中の駅前再開発現場.2016.12.13

昭和42年の目黒駅前。各所に見られた「祝目黒駅完成」の表示から目黒駅ビルが完成直後だったのでしょう.目黒駅ビルは築50年の今も変わりない.手前の分岐線から目黒車庫へ入る。1967.12.03


ここから都電5系統が発車していた目黒駅前電停(4系統は五反田から発車)

祝目黒駅完成の看板を掲げた商店街

目黒駅前電停 駅ビルは今も変わらない.

駅前電車通りの商店街に掲示された「夢のショッピング 目黒ターミナルビル 11月1日開店」.当時としては画期的な駅ビルだったのでしょう。

表通りから奥へ入ったところに目黒車庫があった.

車庫のトラバーサ

目黒車庫には5系統4系統の小型車1000、1100形が配置されていた.

車庫跡に工事中の目黒駅前再開発ビル

2016年11月29日火曜日

「瀬戸内海の呉」ふたたび

過去にリニューアルした「瀬戸内海の呉」ですが、話題のアニメ映画「この世界の片隅に」を観て戦後の呉市電の風景を再びアップしたくなりました。

アニメの舞台となったのは戦時中の呉と広島で、戦後22年が過ぎた昭和42年の市電が走る呉の街、そこにはまだ戦後の暗さを感じさせる風景があった。そして戦時中の悲しい過去があった今の呉を見てみたい。

話題のアニメ映画 


市電川原石← 呉線呉駅  (山並み)  呉線安芸阿賀駅 →市電長浜  現在のgoogle航空写真


長浜行の電車 呉駅前 右手が呉駅   1967.03.07

 呉駅前 左手が呉駅 背後の山並みは鉢巻山.


 川原石行の電車 右手が呉駅で海側、背後の山並みは休山.

殺伐とした阿賀駅前.

阿賀駅前を長浜へ向かう電車。 車庫に向かう分岐線がある。

阿賀駅前 右手に市電車庫がある.

呉線安芸阿賀の駅前通りは子供達の遊び場.

街に戦後の暗さが漂っていたが、この頃、呉線で活躍していた蒸機が美しかった.
呉駅のC59

呉駅のC62鈍行列車

2016年11月25日金曜日

鹿児島交通 何故訪問しなかったのか

田辺さんが訪問した2年前、私が鹿児島交通を訪問しようと国鉄指宿線に乗って西鹿児島を出発したのは1967(昭和42)年3月の夕方であった。その日は指宿温泉に泊り翌日に枕崎に出て、そこから鹿児島交通の加世田を訪問するつもりだった。

指宿線の気動車が指宿駅に到着するとあたりは薄暗くなり不安が的中、いつも泊まるような安い駅前旅館などこの有名温泉地にある筈はなし、指宿温泉の旅館やホテルに泊まるくらいならもっとフィルムが買える、ということでまた西鹿児島へ引き返し、博多行き夜行列車のボックスシートに寝て翌朝博多から長崎に向かった。
もう一度夜行列車で南下し伊集院から鹿児島交通を訪問するのを断念してしまったのが悔やまれる。

鹿児島駅前 1967.03.01

市電通りから一歩入った鹿児島の裏通り

指宿線のC12貨物列車

夕闇迫る指宿駅 立派な温泉地で駅前安宿などあろう筈はなし.

唯一、私が撮った鹿児島交通の1枚は夜の西鹿児島で真っ暗であった。

博多で長崎行き夜行に乗り換え夜が明ける頃.

2016年11月1日火曜日

土佐電の魅力2

土佐電のもう一つの魅力は道路端の専用軌道を行く区間にあった。
この区間の道路端軌道は今も変わらないようだが沿線の風景は大きく変わっている。
今、同じ位置に立っても当時の風情は残っていないのでしょう。
綺麗になった日本、全国津々浦々まで。

まもなく後免町の直線区間. 1969.05.05

田んぼと路線電車.

軒先かすめての世界.

明見橋を行く重連.

重連の急行安芸行.

2016年10月29日土曜日

私達が見た尾小屋は鉱山鉄道と言えるのか?

1970(昭和45)年のSL運転会で観音下~倉谷口で撮った写真を見ると、背景に鉱山用ゴンドラが見える。この時ゴンドラが動いていた様子はなく、昭和37年の日本鉱業の尾小屋鉱山閉山で私はゴンドラはとっくに使われていないと思い込んでいた。しかし引き継いだ北陸鉱山が細々と採掘を続けていたようで写真の翌年の北陸鉱山閉山までゴンドラは使われていたかも知れない。もしゴンドラが使われていたとしても、産出物を鉄道輸送したような施設は見当たらず尾小屋が鉱山鉄道と言える時代はとっくに終わっていた。

鉱山用ゴンドラが見える観音下~倉谷口 1970.11.03

昭和37年の尾小屋鉄道.1962.08.01
遡ること8年、昭和37年は日本鉱業が尾小屋鉱山閉山と同時に傘下の尾小屋鉄道から撤退している。この夏はまだ車両に日本鉱業の社紋◎をつけていて、なるほど鉱山鉄道かと思ったが、それらしきイメージの施設は鉄道用ではなくトラック輸送用に使われていて、それらしき貨車もこの時点で皆無であった。

以下は1962(昭和37)年時点の新小松駅の鉱山関係の設備だが当時鉄道用に使われていた様子はなく、トラック輸送の積み替えホームだった。 昭和30年頃に鉱山輸送の全てが鉄道からトラック輸送に切り替わっていたのであった。よく言われる鉱山鉄道の尾小屋は見たことのない昭和30年頃に終わっていたことになる。

左手の鉱山積み替えホームと右手に鉱山事務所.

鉱山積み替えホームに延びてきていた国鉄貨物線(手前側)

貨車はごく普通の無蓋・有蓋車.
1962(昭和37)年の新小松駅

2016年10月27日木曜日

土佐電の魅力1

後免町で軌道線が安芸線に乗り入れる素晴らしい光景があった.1969.5.5

五月晴れの安芸線風景.

安芸線の魅力溢れる車両.後免町

どれも魅力的な車両たち.


安芸線 後免町駅全景.

軌道線 後免町駅