案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年6月30日木曜日

松阪線の丸妻電車1

昭和39年12月に廃線となった三重電気鉄道(旧三重交通)松阪線。
松阪線と云えば何と言ってもあの丸妻の電車がイメージされる。
亀山まで行きながら松阪線の訪問は果たせず、学生時代に鉄研の
先輩から頂戴したのがこの3枚の松坂線現役時代のプリントであった。

撮影: 全点 法政大学鉄研OB 日暮昭彦氏

下りモ250+サ462が 土手上を走行中.  篠田山→蛸路 1964.03.30
丸妻で側面ドア2枚はモ250とモ261があった.
モ250は廃線後三重線へ転属、モ261はS26年に三重線転属済み.

サ362 元中勢鉄道のガソリンカー「カ4」を客車化.



上りモニ201+サニ422. 左は閉塞区間を統合中の標識. 蛸路 1964.03.30
丸妻で側面3ドア(荷物合造車)はモニ201~203の3両がいた.

廃線時までいた4両の丸妻電車は、全て三重線へ転属し翌1965年8月に三重線で全車確認することができた。松阪線訪問は果たせなかったが、元松阪線の丸妻車4+1両が確認できたのは幸いだった。

2011年6月29日水曜日

亀山機関区のC51225

1964(S39)年の夏、三重電鉄志摩線に向かう途中で亀山機関区に立寄ったのは、美しい「C51225」最後の活躍の姿を見るのが目的であった。この年は亀山に各地からファンが訪れたことだろう。
大径スポーク動輪、化粧煙突などオリジナルに近いC51225は他を圧倒する美しさがあり、SLの要塞 亀山機関区の女王のような存在であった。
また、この年(昭和39)はこの先の松坂にある三重電鉄(旧三重交通)松坂線が廃線間近で、次回の訪問としたが遂に訪問を果たせないまま松坂線は消えてしまった。

亀山機関区のC51225 1964.7.6    ポップアップ画像

美しいC51225  ポップアップ画像

亀山機関区の煙 



現役のC51225

2011年6月26日日曜日

長崎電軌 蛍茶屋支線

長崎駅前で3系統 蛍茶屋行きに乗ると、桜町から坂を下り公会堂前の分岐点に到着する。
蛍茶屋からこの公会堂前を通り西浜町までが蛍茶屋支線で、5系統(蛍茶屋~石橋)の一部となる。
公会堂前から繁華街西浜町へ向かうと、どこからも山並みが見えいかにも地方都市らしい。ストリートビューで44年後の今の風景を覗いてみると、ビルの間に今でも山並みが見える長崎の繁華街であった。



桜町 - 公会堂前  1967.3.2  ポップアップ画像

公会堂前の分岐点

西浜町 - 公会堂前

賑橋. 眼鏡橋はここから近い.

西浜町の賑わい. ポップアップ画像


思案橋から蛍茶屋へ向かう4系統.  西浜町(アーケード前)

もう一つの西浜町. 思案橋行きはここで分岐する.

2011年6月24日金曜日

長崎電軌 大浦支線

5系統は大浦支線と蛍茶屋支線をつなぎ蛍茶屋と石橋を往復する。街の中心部を走り沿線に名所・旧跡が多く魅力的な路線である。
大浦支線は築町から石橋までで、築町-市民病院前-大浦海岸通り-大浦天主堂下-石橋の電停がある。長崎の名所に行こうと長崎駅前で1系統に乗れば、築町で5系統に乗換えて大浦支線沿線の名所・旧跡を訪ねることが出来る。路面電車の撮影ポイントとしても誰もが真っ先に向かう路線であろう。


長崎駅前で1系統に乗ると「築町」で5系統石橋行きに乗換えができる.


海岸通りを行く5系統石橋行き.背後の高台に三角屋根の活水女子大が見える.

電停「大浦海岸通り」の処を曲がり川沿いに大浦石橋通りを走る.

対岸に夜景の名所として知られる稲佐山を背にし、レトロな町並みが続く大浦石橋通り.
あれから44年、今は一体どんな街並になっているだろうか.

大浦石橋通り風景

石橋
石橋の賑わい   ポップアップ画像









終点石橋

参考文献: 週刊朝日百科「歴史でめぐる鉄道全路線 公営・私鉄」No.13

2011年6月23日木曜日

長崎電軌 朝の長崎駅前

ハーフサイズカメラ(オリンパスペン)で撮った昭和42年の長崎電軌のカラー2点。
当時のグリーンとクリームの標準カラーは今も変わらず、あの時の車両の殆どが
今を走る車両として活躍しているようだ。


1962年に導入された370形   長崎駅前 1967.3.2.


370形広告塗装

頻繁にやって来た160形と170形

長崎本線長崎駅前

2011年6月21日火曜日

寸又峡温泉列車

大井川鐵道の訪問では、運よく千頭森林鉄道に出会ったが、もう一つこんなオマケもあった。
千頭で1両、新金谷で2両見つけた軽便廃車体。
元単端式ガソリンカーらしきこの客車は一体どこから来て、どこで使われていたのだろうか?
調べてみると元は浜松電気鉄道「中の町線」で使われていた単端式ガソリンカーで、同線廃止後に3両を千頭森林鉄道が譲り受けて客車化し「すまた号」の愛称で寸又峡温泉の湯治客輸送に使われたそうだ。
No.1とNo.2は裾と前面が絞られた典型的な日車製単端で、元はエンンジン室が前方に突出ていたのだろう。
千頭にあったNo.1は台車が無かったが、同系の新金谷にあったNo.2はアーチバーのような台車が確認できた。元は片ボギーの単端式ガソリンカーであったのだろう。
No.1とNo.2は元浜松電気鉄道「笠井線」
No.3は元浜松電気鉄道「中ノ町線」

寸又峡1 の表示が見えるNo.1.1966.9.23 千頭

湯治客を運んだ「すまた号」はこんなイメージだった?


千頭にあった廃車体1両.No.1

以下は新金谷にあった廃車体2両.
↑千頭にあった単端と同系のNo.2.前部がボギー台車. 1966.9.23   新金谷
下水色/上黄色のツートンカラーであった.
No.2の隣のNo.3は先頭部↑が絞られてなくドア2つで形状が日車製とは異なる.
このNo.3車体には片ボギー台車が残されていた.
  
軸距910mm 車輪径430mm                               車輪径530mm

その後メモが見つかり号機、カラー、車輪径などを追記しました.
keukaさんのご指摘により元の鉄道名の表示を訂正しました.'11.6.24

出典: JTB出版「全国軽便鉄道」。ネコ・パブリッシングRMライブラリー「大井川鉄道井川線」。

2011年6月20日月曜日

大井川鐵道の電車

SLの動態保存など動く鉄道博物館が始まる頃のずっと昔、昭和41年の大井川鐵道にはこんな電車が居ました。この頃から複雑な前歴を持った車両が多数在籍していたようで、あまりに複雑かつ大昔のことで前歴は参考程度の記載です。

廃車直前のモハ200形201+202. 千頭 新金谷 1966.9.23
元鳳来寺鉄道モハ10形10と元豊川鉄道モハ10形13.
子供の頃に何かの雑誌で見て、大井川と言えばこの個性的電車をイメージしたものだ.

モハ300形302.元三信鉄道(現JR飯田線) +クハ502?   千頭

モハ307+クハ  千頭
昭和30年代に全国各地の地方私鉄に転じた西武モハ151/クハ1151形.
西武で客先仕様に改装し20両全てが完売した. ↓モハ307+クハ507

  新金谷


クハ500形+モハ300形. 元富士身延鉄道  千頭 新金谷


駿河徳山駅の風景

モハ300形+クハ500形.  ポップアップ画像
 元富士身延鉄道(現JR身延線)の2扉クロスシート車

出典:週刊朝日百科「公営・私鉄」No.03、鉄道ビクトリアル臨時増刊「特集」西武鉄道.

2011年6月17日金曜日

千頭森林鉄道

駿遠線の大井川木橋を見た後、大井川を遡り大井川鐵道の終点千頭に向かった。
千頭から出ている井川線の車両を撮っていると、そこに何やら森林鉄道の木材列車がゾロゾロ出てきた。この森林鉄道についてそれまで私はその存在を全く知らず、運よく廃線数年前の森林鉄道に出会うことができた。1067mmゲージの井川線のことは放り出しこの木材列車を追ってみた。

千頭森林鉄道は千頭から井川線との3線区間を走り、沢間で分かれ寸又川一帯に路線を持っていた森林鉄道とのこと。1968(S43)年4月に全線廃止された。


井川線との3線区間から分岐し、762mm専用軌道に入る森林鉄道. 川根両国 1966.9.23


最後尾に繋がれた魅力的な客車.この客車の後を追ってみた.

着いたところは森林鉄道の車両基地.千頭  ポップアップ画像

井川線の車両に較べると、強烈な個性でインパクトある車両達.







協三工業製 DB10