案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年5月31日火曜日

松本電鉄 学校前の急カーブ

学校前の急カーブは浅間線の沿線風景で最大のハイライトだった。
松本駅前から市中心部を東へ進むメイン道路上の併用軌道は、この学校前で急カーブして脇道へ入り、
砂利道の併用軌道になる。トロリーラインならではのこんな光景が素晴らしかった。


砂利道の併用軌道 学校前-日の出町 1963.7.20
木造電車モハ2(昭和2年製)が埃をまき上げながら浅間温泉からやってきた.

十分に速度を落とし急カーブに差しかかる.


学校の手前の急カーブをギィギィ音出して曲がると、メイン道路(舗装路)の併用軌道に入る.
学校では明日から夏休み? 生徒達が大掃除をやっているようだ.


学校前駅
急カーブした直ぐのところに「学校前」駅があった。
この交換駅含め3ヶ所の駅で交換があったので、本数はかなりあった.
現在の交差点は校舎前の急カーブのところではなく、このあたりに移動されたようだ.



2011年5月30日月曜日

松本電鉄 横田~学校前

次の交換駅横田は駅らしい大きな駅でここに車庫があった。
朝は庫内に1両のみで電車は殆ど出払っていたようだった。
乗客の姿も多くこの翌年春の廃線を前にして寂れたムードは無かった。

横田駅の交換 1963.7.20   ポップアップ画像

街外れの畑や民家の間をクネクネ曲がり、専用軌道区間を更に走ると
そこに清水駅があった.

専用軌道を行く. 学校前 - 日の出町

浅間温泉からの専用軌道は終わり、ここから松本駅前までの併用軌道へ入る.
 学校前 - 日の出町

2011年5月29日日曜日

松本電鉄 朝の通学風景

下浅間  1963.7.20
浅間温泉から松本方面に向かって行くと2つ目に「下浅間」に到着する。
石碑のある温泉入口道路の踏切脇のところである。電車はこの先を左へカーブして行く。

運動場前
その次が交換駅「運動場前」で、この時間帯の下り電車は松本方面からやってきた高校生を満載、ここで高校生達を下すとガラガラとなってしまった。

電車から降りて来た高校生達は学期末のせいかカバンを持っていない。
東京では見れなくなった男子のゲタ履き姿が粋だった。
この頃 高校・大学生の間ではアイビールックが流行りl始めていた。

次々と電車がやってきて高校生が絶えない運動場前駅


あれから46年、松本電鉄上高地線の松本市郊外の通学風景は.

松本電気鉄道上高地線 下島 2009.10.20
ホビダス「今日の一枚」投稿画像.

2011年5月27日金曜日

松本電鉄 早朝の浅間温泉

昭和38年の夏 松本電鉄浅間線を訪問した。夜行で朝5時前まだ暗い松本に到着すると、早朝の温泉行き電車を狙った。ひと気がなくまだうす暗い松本のメインストリートを木造電車が行き来していた。
途中で温泉行き電車に乗ったが、運転台が客室より一段下がったタイプ(客室からは前方がよく見えない)で超骨董品級木造電車であった。
到着した浅間温泉は松本市の東方 美ヶ原高原から続く山並みの麓にあり朝モヤに包まれていた。
朝の通勤時間帯で上りは松本市内へ向かう乗客で満員であった。こんな朝を夏の太陽がまぶしくなる8時頃までこの浅間温泉近辺で撮り歩いた。気がつけば朝食抜きだったがこれは毎度のこと。
この長閑な風景も2年前に訪れた時は山のかたちと道路のカーブくらいしか面影はなく、すっかり変わってしまった。軌道跡は立派な大通りとなり、この道を走って美ヶ原高原に向かうバスの車中ではガイドさんが軌道跡がこの大通りになった事を説明していた。

朝の浅間温泉を出発した上り電車  1963.7.20   ポップアップ画像


朝陽が差し込む早朝の浅間温泉駅 中浅間駅

洋風の駅本屋.浅間温泉駅

この先を右へカーブしすると浅間温泉に到着する.

温泉旅館の看板が掛った温泉入口.
今では軌道跡は大通りとなり、この温泉入口の道はそのまま残っていたようだ.

2011年5月21日土曜日

軽便のアーチバー台車 2

地を這うように走る軽便客車の小さなアーチバーの極めつけは沼尻と西大寺でしょう。
軸距は32~33インチ、車輪径は17~18インチクラスと極小のアーチバー。
その反対で、まるでアメリカンナローのような大きなアーチバーは草軽の貨車。
軸距は48インチ、車輪径は24インチと軽便にしては巨大なアーチバー。
前回のアーチバー台車1で書いた、草軽貨車、西大寺客車、沼尻ボハなどの特殊サイズ台車とは
ここに紹介する特殊サイズ台車のことです。

沼尻鉄道ボハ6
 軸距32in(813mm)、車輪径18in(457mm)


西大寺鉄道ハボ14
 軸距33in(840mm)、車輪径17in(431mm)

草軽コワフ113→栃尾ニフ23

 軸距48in(1219mm)、車輪径24in(610mm)
草軽コワフの廃車体 新軽井沢

2011年5月14日土曜日

軽便のアーチバー台車 1

ここ暫くBloggerの不調で、コメント欄でエラー表示が出てしまい、ご迷惑おかけしました。
エラー直前に投稿戴いたコメントで消えたのもあるようで申し訳ありませんでした。
今朝からBlogger機能は正常に回復したようです。


九十九里鉄道 廃線後14年の残骸から思いついた軽便アーチバー台車のことです。
アーチバー台車と言えば3'6''ゲージ鉄道ではお決まりのサイズだが、軽便鉄道ではアーチバー台車の大きさは千差万別で不揃い、そこが軽便の面白さだが模型化では大変厄介なところ。客貨車の模型でオリジナル車のイメージを出すのにはこの台車サイズの選定が重要なポイントと思います。

九十九里客貨車の台車採寸サイズと、軽便各社の車両竣功図や採寸サイズをつけ合わせてみると、九十九里の軸距42in~40in、車輪径20inの台車は、軽便アーチバーの代表的サイズと言えそうだ。これに数種類の車輪径と入替えると各社の主な台車サイズに近くなる。
(但し草軽貨車、西大寺客車、沼尻ボハなど特殊サイズ台車は除く)

九十九里 軸距42inアーチバー台車
九十九里ボギー貨車の台車サイズを採寸すると
井笠の軸距42in(1066mm)、車輪径20in(508mm)クラスであった.

九十九里 軸距40inアーチバー台車
九十九里ボギー客車用を採寸(写真は天地逆)すると
軸距40in(1016mm)、車輪径20in(508mm)クラスであった.


井笠鉄道ホハ2

 軸距42in(1066mm)、車輪径20in(508mm)


仙北鉄道ハニフ1404

 軸距40in(1016mm)、車輪径18.5in(470mm)、19in(483mm)


遠鉄奥山線サハ1108

 軸距40in(1016mm)、車輪径20.9in(530mm)

沼尻鉄道ホハフ1

沼尻鉄道 軸距40in(1016mm)、車輪径22in(560mm)

2011年5月11日水曜日

廃線間際の九十九里鉄道 4

のんびりと上総片貝へ向かうキハ104の運転室.速度は自転車を速くこぐ程度か.
鼻先に収めたエンジンによる後輪駆動で客貨車を4両も牽く. 1961年2月

終点上総片貝に到着すると車庫脇のターンテーブルに乗って、
運転手と車掌さんの人力による方向転換はこの鉄道の名物光景であった.

鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり第1分冊」に紹介された「午前10時の終点」は
昭和34年の夏にここで撮影されたものであった.
車庫にはキハ102が休み、右に分岐した線路は洗濯物があるターンテーブルへ向かう.
こんな上総片貝の光景も、数日後の廃線で消滅してしまった.

東金行の列車はケハ111+ケハ107の前後にボギー貨車を加えた編成となった.上総片貝駅


この日のもう1本の編成は、キハ103が牽くケハフ301+ハニフ105で、
踏切を通過しハニフ106の脇を走って上総片貝駅に到着する.

東金駅の留置されたボギー貨車ケワ52は最後の日まで活躍した.
廃線後もこの場所に留置されたケワ52と50は、
14年後もその形を保っていて採寸ができた.


撮影: 全点 飯島巌氏

2011年5月10日火曜日

廃線間際の九十九里鉄道 3

昨年12月14日に「廃線間際の九十九里鉄道」1と2をアップし、暫く経ってから私の模型製作用のアルバム中に飯島巌さん撮影の九十九里鉄道の写真を更に見つけました。前回同様に九十九里に行けなかった私がプリント版を頂戴したもので、将来の模型製作に備えていたものです。
1961年2月、廃線が迫る九十九里鉄道の光景。この日の車両の動きは、写真から私が想像したものです。まずは東金駅の光景から。


東金の留置線の奥に休む不揃いな車両達.その各車を確認してみると、


手前には、さんさんと2月の陽を浴びて休む超人気者 キハ104が. 1961年2月


その先にボギー客車ケハ111が.この大型客車はこの鉄道に1両しか居ない.


更にその先に雨宮製キハ201(トレーラ化後)と、元増東軌道のケハ107が.
元増東軌道の小さなボギー客車は堪らなく愛嬌がある.


ターンテーブルで方向転換したキハは、2両のボギー客車を従えて発車を待つ.
東金駅のキハ104+ケハ107+ケハ111

撮影: 全点 飯島巌氏