案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年10月25日火曜日

草軽電気鉄道


昨夜、古い写真が入手できたので早速アップして見ました。
九十九里と同様にその最後を見に行くかどうかさんざん迷い、結局行けなかった軽便の一つが草軽電鉄でした。手の出ない遠い昔の軽便とは違い最後の草軽は手の届くところにあったのに・・・。

写真は昭和33年、国鉄軽井沢駅前にある新軽井沢から草津温泉まで営業していた時代である。
この時代は国鉄駅前の新軽井沢には何もなく、1駅先の旧軽井沢に後に軽井沢銀座と呼ばれる中心部があり、この間をモハ100形が区間運転していたそうである。
5両いたモハ100も、この時既に3両が栃尾電鉄に移籍していた。
昭和33年の写真 撮影:実兄
区間運転のモハ100形   新軽井沢-旧軽井沢 1958(S33)年
新軽井沢駅構内のデキ 1958(S33)年
二度上 嬬恋のスイッチバック 1958(S33)年
駅員さんの長靴と学帽風が時代を感じさせてくれる.


栃尾線モハ208(元草軽電鉄モハ103) 上見附  1964.3.22

学校の隅に保存されていたデキ. 中軽井沢 1966.8.19


廃線後の新軽井沢駅  1963.7.21
草軽電鉄の新軽井沢駅がそのままバスターミナルに.1960年4月廃線の3年後で
「電車・バスのりば」の看板が「草軽バスのりば」へ書きかえられていた.

駅はバスの施設となり草軽の貨車の車体が残されていた.

2011年10月19日水曜日

寄居から丹荘へ

上武鉄道へ向かう時に通った寄居と丹荘の風景に戻ってみます。
当時は気にも留めなかった寄居の光景も今みると昭和37年を感じさせる。

東上線のクハ246 寄居 1962.12.23      拡大画像
池袋で乗った寄居行き準急はこんな電車であった。先頭を除く3両の凄い電車がとても気になる。
ホームの看板には東京へ準急98分とある。

いくらでも撮れた八高線のC58の貨物列車. 寄居  拡大画像
  
秩父鉄道の電機ED38 3号機.  寄居   拡大画像

何もない上武鉄道丹荘の駅.ここから西武化学工場前まで走っていた。
ポツンと置かれたハフ2(元川越鉄道の古典客車改造)

2011年10月18日火曜日

上武鉄道 英国系蒸機

英国系の蒸機は1886年製などとんでもなく古い古典機が夕陽を浴びて休み、
格調高い英国紳士を思わせる風貌を北関東の工場内に見ることができた。

1891年英国ダブス社製の8号機(後に3号)  西武化学工場内 1962.12.23

1902年英国ナスミス・ウィルソン社製の6号機

休車の1896年英国ナスミス・ウィルソン社製の5号機

1886年英国ナスミス・ウィルソン社製の4号機

番外は工場の外れに休車になって置いてあった元飯山鉄道の日車製3号機.
同系機が別府鉄道に在籍していた.

2011年10月16日日曜日

上武鉄道 アメリカン蒸機

上武鉄道に居た6両の蒸機を紹介してみます。
まずは再三取上げている1897年ピッツバーグ社製のアメリカン7号機。
こんな古典機が北関東でアメリカン独特の美しい姿で煙を吐いていた。
池袋から東上線で寄居まで行き、八高線で少し先の丹荘で降りると西武化学までたった6.1Kmを走っていた上武鉄道があった。日帰りでこんな古典蒸機が撮れたあの日の事が思い出される。

西武化学前  1962.12.23



東武熊谷線でリンクさせて戴いたlodgershinmeishrineさんのYou-tubeで 寿都鉄道8100形
が素晴らしいです。ボールドウィン蒸機の動きのバックに流れるブルーグラス音楽を聞き
ながら動画を見ているとこれぞアメリカン! 最高です。


2011年10月13日木曜日

お知らせ ポップアップ画像について

9月19日の「ポップアップ画像について」にてポップアップ画像のLightbox機能変更についてお知らせしましたが、その後改善がされました。


拡大不要画像では画像上のマウスポインターが矢印を表示し、
画面は拡大画面に切替りません。


サムネイル画像では画像上のマウスポインターが人差指を表示し、
クリックで画面が切替り画像が拡大します。
元の画面に戻すには×をクリックするか、背景(黒)をクリックして戻して下さい。


2011年10月12日水曜日

東野鉄道 昭和14年に消えた区間(続)

前回の東野鉄道 昭和14年に消えた区間 では箒川を渡ったところで終わっていましたが、今回はその先の終点那須小川までの廃線区間の風景を確認してみました。廃線跡らしきは道路くらいで、今回も廃線の痕跡の探求ではなく、遠い昔にガソリンカーやボールドウィン蒸機が走った風景を確認するのが目的でした。
なす風土資料館史跡マップに、廃線跡を赤ラインで印したもの

この辺で箒川を渡っていた.那須小川側から対岸の相良土方面を見る.2011.10.11

箒川を渡って緩くカーブして廃線跡(道路)は那須小川まで一直線に進む。町には那珂川が流れ、対岸に那珂川沿いに八溝山へ連なる山並みが続く風景は黒羽と同様で、那須降ろしの寒風が吹く季節にはまだ早く心地よい秋の日差しであった。こんな風景の中を遠い昔に東野鉄道が走っていた。
      
Baldwin製1-B-1蒸機  大田原市歴史民俗資料館パンフレットより

キハ10,11

箒川を渡って那須小川まで進む直線区間.写真は那須小川側から黒羽方面を見る.

直線区間が終った先に中学校があり、そこに終点那須小川駅があったらしい.

以下は1939(S14)年6月廃線の前から走っていたガソリンカー3タイプ.
 1930年竣功の元キハ10,11→ハ32,33    1966.12.30


元キハ30→ハ30 1938年常総線から入線


1936年竣功の元キハ20→ハ31 

2011年10月9日日曜日

八高線 金子駅界隈

ススキと蒸機と言えば東京郊外の国鉄八高線が思い出される。
地方私鉄に行かない時は、身近な蒸機を撮りに金子界隈に通ったものである。

金子駅 1966.9.29

1960年代の佇まいが感じられる家並み
人気のない土手のススキに差す、けだるい午後の陽差し


金子駅を出て桑畑を行くごく当たり前のDCも懐かしい光景になってしまった.


2011年10月3日月曜日

第7回 軽便祭り

昨日10月2日に開催された毎年恒例の「軽便まつり」に行ってきました。
本回想ブログでお出かけ記事を書くのは苦手で「軽便まつり」くらいです。
今年も大変な盛況で、あまりの混雑に新製品などじっくり観察できなかったのが残念ですが、いかに軽便ファンが多いか、いかに軽便に萌えているか がひしひしと伝わってきました。

今回は会場の一隅で開催された講演「軽便賛歌2」で、元けむりプロの梅村さんの頚城・沼尻の写真による体験談に私も惹きこまれました。豪雪の頚城鉄道での出来ごとはRMライブラリー読むより遥かに伝わってきます。
今回私が注目したのはアートプロさんの三重交通模型の拘りです。その拘りと仕上げの素晴らしさは抜群で1/80軽便派の私でも1/87へ傾きそう。アートプロさんでは3'6''で'も魅力的な地方私鉄をいろいろ製品化されていて、3'6''地鉄と2'6''軽便とを並べるなど、これぞ軽便模型の醍醐味です。
沼尻、尾小屋などとは趣がちがった軽便電鉄の楽しみ方が近年増大してきたようです。

今年も盛況で熱気に包まれた会場 2011.10.2

3'6''地鉄と2'6''軽便が並ぶアートプロさんの展示ブース

アートプロさんのキット三重モ229を、クラフトさんが完成させたもの.

今年も圧巻であった軽便モジュール倶楽部の下北南部電鉄 奥入瀬本線.

Oナローでは「夢遊生活の日々」で製作記が連載された頚城の車両が.

2011年10月1日土曜日

下津井コーストライン 児島駅

JR瀬戸大橋線と瀬戸大橋がまだ開通してなかった頃は、倉敷からバスで児島までやってきた観光客はこの先の鷲羽山方面に向かうには下津井電鉄に乗るかバスに乗るしかない。児島駅はそんな観光客目当てに新築されたテーマパークのようなつくりのメルヘン駅であった。

しかしJR瀬戸大橋線と瀬戸大橋が開通し鷲羽山周辺の道路も整備されると、岡山から来る観光客はわざわざ下津井電鉄に立寄る必要性もなくなってしまった。
1987(昭62)年8月 児島駅の改築移転工事と下津井駅構内の改良工事が開始され同年中に児島駅を移転した、となると下津井コーストラインの繁栄は1988年4月大橋開通までのたった3ヵ月余りだったということに?  そして児島駅など含めた下津井コーストラインは完成から3年で全廃となってしまった。

下津井コーストラインへの入口児島駅. 1988.4.8

つかの間のメルヘン駅の繁栄.沢山の観光客を呼んでもっと永く続いて欲しかった。


生まれ変わった立派な駅に到着したモハ103+クハ24.


両端駅を除けば沿線には昔からの風景が残っていた. 東下津井-鷲羽山