案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年1月30日水曜日

玉電 タルゴ200形と鉄道模型趣味誌のこと

デハ200形 上通り  1969.04.22

コメントで思い出話が出ました昭和30年登場の玉電タルゴ200形。玉電タルゴと言えば兄が毎号購読していた鉄道模型趣味誌で、玉電タルゴの製作記事を子供の頃に読んだことがあり、無性に読みたくなって昔の趣味誌を神田の古本屋で1冊だけ買戻して? きました。この記事が掲載されたのは58年前の1955(昭30)年9月号で86号でした。
「TKK玉川線 新車200形の作り方」のタイトルでO番1/42の製作記事が3回に亘り連載され、筆者は第1第2東京電鉄工機とあり、かの有名な自由形2線式Oゲージャー兄弟だったと思います。

玉電タルゴ製作記事の出だしはこんなでした。
クリームとライトグリーンと夏の粧いも華やかにスマートな80系で名を売った玉電にデビューした新車 !
超軽量、超低床等々幾多の新機軸を採用した200形は、モデルファンがデザインしたような近代的な連接車です。
モデルとしては軽量車の価値を再検討する意味も併せて、R部分の工作を容易にするために、オールペーパ床板なしの張殻構造を採用、また台車、伝動関係等も極力簡易化するなど運転本位の近代的車両とする所に重点をおいてあるつもりです。貴社に於いても、50糎級の堂々たる路面電車を一本増備されては如何でしょうか。縮尺は1/42としてみました。

1955(昭30)年発行の86号

玉電タルゴの模型製作記事(第1回)

【鉄道模型趣味】誌のこと
機芸出版社の山崎喜陽氏によって1947(昭22)年に第1号が創刊された。実物誌の鉄道ピクトリアルの創刊は1951年であり、実物誌がなかった時代から模型趣味誌では模型だけでなく実物記事も多く掲載されていた。上記86号でも「電車を訪ねて」が第50回となり地方私鉄の紹介などは確か100号くらいまで続いた。子供の頃に夢中で読んだ1~100号の実物記事は多くの人が影響を受けたことでしょう。私の地方私鉄もここが原点でした。

数年前に古本屋行きとなった兄の鉄道模型趣味 1号~100号他

2013年1月28日月曜日

玉電風景 大橋

大橋の商店街風景をよ~く見ると精肉・鮮魚店の脇に電車が顔を出している.
ここが大橋車庫の入出庫線であった.  1969.04.22

道路を横断し商店街の間を大橋車庫へ入って行くデハ200形.

大橋停留場の向こう高台の木立の中に氷川神社が見える.

「連結2人のり」が表示された連結運転車. 大橋停留場

大橋停留場風景

下高井戸行きのタルゴ式連接車も乗客が溢れていた.  1969.04.22

車庫に休むデハ80形と30形.  1962.12.07

最古参のデハ30形.1965(昭40)年から予備的存在に. 1962.12.07

2013年1月26日土曜日

玉電風景 中里から三軒茶屋へ

1969(昭和44)年5月11日、玉川通り(国道246号)上への首都高速3号渋谷線の建設、営団地下鉄銀座線と接続する地下鉄(のちの新玉川線)建設の計画等により、下高井戸線である三軒茶屋 ~下高井戸間を除いて、東急玉川線、砧線は全線廃止された。

廃線直前の1969年4月に撮った玉電風景を中里あたりから三軒茶屋方面へ向かって追いかけてみました。この頃はまだ高速道路の建設前で玉川通り(国道246号)の空は広々としていた。
道路は満杯の状態であったようだが、玉川線廃線後の1971年12月には首都高速3号渋谷~用賀間が開通し玉川通りもあっという間に一変してしまった。

上馬  桜新町  1969.04.22

電柱に表示された電停名で「玉電中里」と分かる. →上馬方向.

専用軌道を三軒茶屋方面へ向かう. 三軒茶屋-中里

三軒茶屋方面へ向かう.  三軒茶屋-中里

三軒茶屋電停

満員の二子玉川園行き電車. 三軒茶屋

二子玉川園行き電停の向こうが分岐点.  三軒茶屋

三軒茶屋の分岐点を行く下高井戸行き.

2013年1月25日金曜日

オリンパスペンで撮った玉電砧線3

玉電砧線の名所と云えば吉沢の急カーブでしょう。ギィギィ音をたて90度方向転換するのが面白くて何回も撮ったはずだが出てきたネガはこの1枚のみ。ラッシュ時には連結運転があたそうで、連結運転でこのカーブを曲がる光景はさぞや見ごたえがあったことでしょう。

吉沢の急カーブ  1963年4月
廃線跡めぐり  吉沢の急カーブがあったところ. 2007.04.15

この頃、二子玉川園駅の砧線側線にこんな貨車が留置されていて昔のジャリ電時代の名残でしょうか。二子玉川下流の砂利採取が禁止されたのが昭和9年だそうで、貨車はその後保線などに使われていたのかも知れません。こんな貨車を牽く砂利軌道線を模型の世界で楽しんでいました。

 二子玉川園 1963年7月
時代物のカプラー

二子玉川園駅の日常風景. 1963年4月
ホームの看板には「アンリ・ファルマンからジェット機まで航空博 3月16日~5月31日二子玉川園」 と.

二子玉川駅  2010年12月

2013年1月23日水曜日

オリンパスペンで撮った玉電砧線2

砧本村駅 1964.11.03   撮影: moro9さん  クリックで拡大

駅の向こうに「わかもと」の工場が見える懐かしい砧本村駅の風景、moro9さんに提供して戴きました。子供の頃に見た「わかもと」とはこの工場だったのだ。私が駅を撮った頃は「わかもと」の工場が眼中に無く工場があったのかどうかも記憶になし。電車のことしか頭になかったのでしょう。
わかもと製薬㈱玉川工場は1967年に工場跡地を駒澤大学に売却し、神奈川県大井町に相模大井工場を新設しています。

切符売り場がある終点砧本村駅 1964年2月

当時と現在の対比
ホームにあった待合所は90度向きを変えバス待合所に.2007.04.15

営業時間午前10時~午後6時と書かれた切符売り場の出札口.脇に貼られた
二子劇場の時代劇映画のポスターや、裏の洗濯物を干した民家がいかにもこの時代を表わす.

西日を浴びたホームの待合所

待合所はそっくりそのまま今もバス停に使われている. 2007.04.15

昔線路があったところを直進すると、その先にあった「わかもと」は駒澤大学玉川校舎グラウンドになっていた.

2013年1月22日火曜日

オリンパスペンで撮った玉電砧線1

私にとって砧線の思い出は吉沢駅から砧本村の区間であった。子供の頃に狛江から自転車をこいでここまで遊びに来た目的は、この区間を走る砧線を見ることと、もう一つは玉川読売飛行場を見る事であった。写真を撮り始めたのはずっと後であったが、オリンパスペンで撮った1964年は子供の頃に見た砧線沿線風景がそのまま残されていたと思われる。

吉沢の踏切 1964年2月
二子玉川園からやってきた電車は急カーブを曲がり多摩堤通りの踏切を渡ると吉沢駅に到着する。
まるで模型のレイアウトのような光景で、吉沢駅を出ると直ぐ野川の鉄橋を渡り右へ曲がる。

吉沢駅 1964年2月
吉沢駅の昔と今

2007.04.15
鉄橋の先を砧線と別れ土堤を越えると、今は河川敷に緑地運動場が開けるが、昔ここに玉川読売飛行場の格納庫と滑走路があった。自動車に牽引されて上昇するグライダーの練習風景や格納庫に新聞社のセスナの機体が並ぶ光景は正にこの場所であった。

別世界のような砧線沿線の玉川風景 1964年2月
1964年2月の撮影で場所は少し上流と思われ、この頃はまだ読売飛行場は存在し
砧線の吉沢~砧本村間はこんな長閑な土手の近くを走っていた。

何もない長閑な沿線風景の中を砧本村に到着する.

2013年1月20日日曜日

オリンパスペンで撮った 橋本駅のC11

東海道線茅ヶ崎から出ている国鉄相模線の終点橋本駅にC11を撮りに行ったことがあった。
この頃、東京近郊でもC11やC12が貨物用に活躍している風景はよく見る事ができ、
蒸機の入替え作業などはついでに撮る程度であったが、この時は珍しくC11を撮る目的で
オリンパスペンを持って橋本まで出掛けてみた。わざわざ地方へ出掛けなくても東京近辺で
国鉄蒸機ローカル線ムードをほんのチョットだけ味わえる楽しみがあった。

橋本駅3番ホームの相模線気動車
相模線茅ヶ崎行と横浜線八王子行が並ぶ橋本駅. 1964.02.11

旧型国電が走る橋本駅の反対ホームには気動車が停車し、
その脇でC11が入替えに励んでいた。
C11の構内入替え作業

一隅にはC11用の小さな給水給炭設備があった.

2100形(塗分け時代)と1400形. 向ヶ丘遊園
帰りに乗った小田急線の風景.