案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年3月26日火曜日

月山と三山線(2) リニューアル

三山線の終点間沢の駅前食堂でラーメンをすすり、月山へ向かった。
間沢から少し進むと舗装路が終わり谷川に沿った山道に入る。それほど狭くもないごく普通の山道を進むと1時間ほどで一面に視界が開け志津の高原に出た。急にひんやりとした冷気を感じる広漠とした原野であった。
スキー板を載せた東京ナンバーのクルマが何台も止まっている志津の旅館街をぬけ、月山の手前の姥ヶ岳へ登り始めるところに国民宿舎「月山壮」があった。しゃれたロッジ風の宿舎でここで友人と合流し宿泊した。

この15年くらい後に家族と月山へ来た時は新幹線とバスで一気に志津に到着し、三山線もとっくの昔に消え、志津方面へ向かう立派な道路が何本も開通し、あの時に信仰の山「月山」へ向かった雰囲気は全く消えていた。

5月連休中の国民宿舎「月山壮」 1971.5.5

写真の月山壮に泊まった翌日は一日雨となり、ここにもう一泊し翌日羽前高松へ下った。この日も陽が差さず、やる気なしで曇天の寒河江川鉄橋で撮ったのがこの写真であった。

白岩-新田 1971.5.5

白岩-新田

白岩-新田 最上川支流の寒河江川を渡る。

地方私鉄めぐりの記録

2019年3月23日土曜日

「竜鉄の歴史を探る」パネル展(第二回目)

「高校生が探究活動で取り組んだ‥」竜ヶ崎一高のプロジェクト「竜鉄の歴史を探る」。
昨年11月に引き続き、本日、パネル展示会が龍ヶ崎市で開催されました。

今回の会場は龍ヶ崎市歴史民俗資料館で小雨模様の寒い朝で訪問者は少ないだろうと予測したが、開場直後から大変な盛況で地元の方々がいかに竜鉄に関心持っているかが伺えた。
会場では「竜鉄の歴史を探る」新訂版冊子 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校編集 が来場者に配布された。

地元高校生による地元小私鉄の歴史研究、展示会開催、冊子発行の活動は大変素晴らしい活動だと思う。指導された小野先生のお話しによると龍ヶ崎の町と鉄道に活気があった昭和30年代末までの懐かしき良き時代に、地元方々の関心が大変に高いそうである。

今回のパネル展ポスター→画像準備中

熱心にパネルを見る地元の方々で大盛況であった 

前回の提示内容の各部を見直しプリントも鮮明となった。
レールの記録

新訂版冊子34頁「竜鉄の歴史を探る」

会場の 龍ヶ崎市歴史民俗資料館

歴史民俗資料館に保存されている竜鉄4号機

活動を進めてきた高校生達と記念写真

今日の竜ヶ崎駅

2019年3月20日水曜日

月山と三山線(1) リニューアル

山形から出ている国鉄の行き止まり非電化ローカル線から出ていた不思議な電化私鉄線、と先日コメントがありました山形交通三山線(1974年11月廃止)について、新たに画像リサイズしてリニューアル版とします。

3月18日にNHKBSで放送されたにっぽん百名山「月山」

1971年5月に二回目の訪問をした三山線について私鉄めぐりノートをたどってみました。
国鉄ローカル線左沢線の羽前高松から間沢まで国道112号に沿って走っていた三山線。

桜満開の左沢から果樹園を抜けて細い砂利道を下ると、山形から月山の梺を通り鶴岡へ抜ける国道112号に出る。この国道に沿って走る三山線は桃畑の向うに朝日連峰を望み、真っ白な月山に抱かれて走るような素晴らしい沿線風景があった。

朝日連峰を望む三山線の沿線

月山を背に桃畑を行く三山線 1971.5.3

三山線の終点間沢(西村山郡西川町)はバスターミナルとなっていて典型的な私鉄終着駅。志津から下って来たバスに月山春スキー客が数人いた。

国鉄ローカル線から更に小私鉄で繋がれたこの間沢は大変な奥地という印象を抱いていたのだが、山形市西方にある寒河江、羽前高松、間沢などは山形市と道路で結ばれ山形近郊の感じで開けた街であった。

間沢は鉄道交通だけ考えると大変な奥地だが、昔から六十里越街道沿いに点在する街として発展してきたのだろう。奥地は当てはまらず、ここ数年のクルマ普及で山形に出るのも便利、ここでも鉄道の時代は終わったを思い知らされた。

春夏スキーのメッカ月山へ向かスキー客が山形から左沢線、三山線と乗り継いで更に間沢からバスに乗り継いでいた時代は終わり、この頃は既にマイカーにスキー載せて月山へ向かう時代になっていた。「歓迎 月山夏スキー」のバス案内板は三山線良き時代の名残りか。 1971.5.3

ゴールデンウィークなのに客も少ない間沢駅ではホームが子供たちの遊び場に

モハ110形  貨物ホームにはマイカーが並ぶ

廃止3年前の静かな終着駅間沢に休むモハ107

最古参のモハ101

三山線によく似合っていたモハ106

2019年3月16日土曜日

西武新宿線の上井草駅

上井草 2008.4.30

西武新宿線 上井草~東伏見間の連続立体交差化計画で都市計画素案の説明会がありました。素案では地下化素案がなく高架化素案のみであり、都市計画素案→都市計画案となって、高架化が決まるのでしょう。

最も昔を残すこの上井草の地上駅も撮っておかねばと思いながら乗客に気を使い、中々気に入った写真が撮れません。私は夕方の逆光でホームの乗客を暗くして撮るのが好きです。

上井草 2008年5月

2019年3月6日水曜日

雄勝線名物あぐりこ駅のこと

昨日のコメント欄にありました「あぐりこ駅」のことを調べみました。

あぐりこ駅で朝の一番下り電車を待っている女の子達。アカ抜けたよそ行きの服装をした女の子達は朝早くどこへお出かけなのでしょうか。

あぐりこ駅で思い出したのが、鉄道模型趣味92号 昭和31年3月号の「電車訪ねて第53回」 にあったこの記事です。

雄勝線名物あぐりこ駅
当線が全国で長野駅に次ぐ神殿造りと自慢するのが此のあぐりこ駅です。朱色一色に塗られたお宮型の駅舎は、小さいながらも異色ある存在と云えるでしょう。
あぐりことは、当線沿線の雄勝郡三輪村地内にある稲荷神社に祭られた、幻の女狐 “阿久利子"から発した名称で、この “阿久利子"は、其のむかし、村に大いに尽くしたと云われております。部落の名と共に駅名もこれから生まれたわけです。以前の駅舎は普通の平屋の駅舎でしたが、突風によって崩壊し、その後、その名にちなんだ神殿造りにしたそうです。

年に二回、このあぐりこ稲荷神社のお祭りに集まる人々は、近くは福島・山形から遠く北海道に及び、その人出は3, 4万を数えるとか。この時こそ雄勝線の掻き入れ時なのでしょう。話して下さる西馬音内庫区長の工藤氏はニコニコ顔でした。  
                              以上
                      


        
当時から鉄道誌の地方私鉄といえば青木栄一氏流の車両調査の報告や紹介が主体でしたが、鉄道模型趣味誌の「電車をたずねて」や「海辺の小私鉄を訪ねる」などの実物記事では車両紹介だけでなく、ローカルカラー豊かなほのぼの記事で現地のイメージが目に浮かんだものです。

2019年3月4日月曜日

雄勝線 ポール電車から内燃動力へ

すばらしい雄勝線の写真をfacebookに連載投稿されたusuiさんからもう少しお借りしました。撮影は1971年8月7日で、1971年7月26日の電化→内燃動力化してから半月後になります。

ポール電車から気動車に入れ替わっても電化時代の施設がまだそのままです。これから西馬音内の駅舎や電車区、架線などの施設が徐々に破壊され、廃線に向かって悲惨な光景になっていったようです。

雄勝線の電車時代の風景そのままに気動車との組合わせが楽しめたほんの僅かの期間だったのでしょう。施設破壊前の気動車の雄勝線もポール電車とは一味違ってよきものです。

撮影:usui
 朝、気動車の先頭から見たすばらしい雄勝線風景。ポール電車時代に古典客車のオープンデッキから見た過ぎ去る風景そのままに残されています。う~ん 見とれてしまう1枚です。

 あぐりこ駅

貝沢駅

usuiさんの羽後交通雄勝線訪問記(1971年8月7日)
一番列車で西馬音内へ行く途中に撮影した写真です。三枚目は貝沢駅で停車中の写真です。どうして乗務員さんも外に出ていたのか記憶にありません。遠くを見ているようなので誰か乗る人を待っているのでしょうか?一枚目は朝なので農作業に出掛ける夫婦でしょう。鉄道に関係ありませんが線路際なのでアップしました。二枚目は子供達が待っている、あぐりこ駅に到着を湘南顔の大きな窓から撮影しました。