案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年3月20日水曜日

月山と三山線(1) リニューアル

山形から出ている国鉄の行き止まり非電化ローカル線から出ていた不思議な電化私鉄線、と先日コメントがありました山形交通三山線(1974年11月廃止)について、新たに画像リサイズしてリニューアル版とします。

3月18日にNHKBSで放送されたにっぽん百名山「月山」

1971年5月に二回目の訪問をした三山線について私鉄めぐりノートをたどってみました。
国鉄ローカル線左沢線の羽前高松から間沢まで国道112号に沿って走っていた三山線。

桜満開の左沢から果樹園を抜けて細い砂利道を下ると、山形から月山の梺を通り鶴岡へ抜ける国道112号に出る。この国道に沿って走る三山線は桃畑の向うに朝日連峰を望み、真っ白な月山に抱かれて走るような素晴らしい沿線風景があった。

朝日連峰を望む三山線の沿線

月山を背に桃畑を行く三山線 1971.5.3

三山線の終点間沢(西村山郡西川町)はバスターミナルとなっていて典型的な私鉄終着駅。志津から下って来たバスに月山春スキー客が数人いた。

国鉄ローカル線から更に小私鉄で繋がれたこの間沢は大変な奥地という印象を抱いていたのだが、山形市西方にある寒河江、羽前高松、間沢などは山形市と道路で結ばれ山形近郊の感じで開けた街であった。

間沢は鉄道交通だけ考えると大変な奥地だが、昔から六十里越街道沿いに点在する街として発展してきたのだろう。奥地は当てはまらず、ここ数年のクルマ普及で山形に出るのも便利、ここでも鉄道の時代は終わったを思い知らされた。

春夏スキーのメッカ月山へ向かスキー客が山形から左沢線、三山線と乗り継いで更に間沢からバスに乗り継いでいた時代は終わり、この頃は既にマイカーにスキー載せて月山へ向かう時代になっていた。「歓迎 月山夏スキー」のバス案内板は三山線良き時代の名残りか。 1971.5.3

ゴールデンウィークなのに客も少ない間沢駅ではホームが子供たちの遊び場に

モハ110形  貨物ホームにはマイカーが並ぶ

廃止3年前の静かな終着駅間沢に休むモハ107

最古参のモハ101

三山線によく似合っていたモハ106

2 件のコメント:

H. O さんのコメント...

いつも素晴らしい写真を見せて頂き,ありがとうございます。
以前にアップされた写真が大判になってリニューアルされるのも,老眼が進んだ目には嬉しいことで,更新を心待ちにしています。
今回の間沢駅の写真,以前の写真では気付かなかったのですが,よく見ると,遊んでいる子供たち,卓球をしているではありませんか。
卓球台の横で順番を待っている子もいます。
ホームに卓球台があったのですね。

ピンポン玉がホームから線路に落ちることも当然あったと思うのですが,線路に飛び降りて取りに行ったのでしょうか。
上の写真では電車が卓球台のそばまで入っていますが,当時の子供達は,危険なこととそうでないことは十分にわかっていて,怪我をするようなことはしなかったのでしょう。
大らかな時代だったこと,あらためて感じました。
しばらくの間,50年の歳月をさかのぼって見入ってしまいました。
どうもありがとうございました。

katsu さんのコメント...

H.Oさん
今、昔のブログを見ると当時当たり前だった画像が何と小さいことか !
ネット環境の急速な進化で、今や不満だらけになってしまいましたね。
二番せんじの写真を使うのは大変心苦しいのですが、大きいサイズで喜んで戴ければ嬉しいです。
アップ済みの写真を大きくして再アップし、切口を変えたリニューアル版にできればと思います。

間沢駅の卓球台、その通りですね。
今ではありえない風景で、ゆるい規制で何も危険はなかった大らかな社会だったんですね。
子供たちも、鉄道ファンの撮影も危険性は自分達の責任でマナーを守ることができた時代だったと思います。