案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。
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2020年10月18日日曜日

七ッ屋駅の構内配線図

8月12日の 浅野川線の七ッ屋で未完成であった七ッ屋駅 構内配線図。国鉄北陸本線との位置関係を航空写真に基き仕上げました。構内配線図は模型のための図でありノットスケールです。




七ッ屋駅

国土地理院航空写真1962年

2019年9月4日水曜日

粟ヶ崎海岸行の海水浴客電車

昨日の石鉄さんからのコメントから旧伊那電の電車モハ3101、3102をもう一度とり上げてみます。昭和30年代にこんな電車が夏になると内灘から粟ヶ崎海岸まで海水客を運んでいたのですね。

石鉄さんからのコメントより
 私の子供のころ(昭和30年代)金沢市民の海水浴といえば、粟崎海岸と金石海岸でした。粟崎海岸へは浅野川線(通称浅電)、金石海岸へは金石線を利用しました。
当時浅電は夏場だけ内灘から海岸駅まで営業していました。
 旧伊那電のダブルルーフのモハ851と852、3101、3102(851と852は木造車)が活躍していました。
 北鉄生え抜きの電車と比べても大きく、ゆっさゆっさと巨体を揺らしながら内灘砂丘の砂に埋もれたような線路を走っていました。
 どの電車も混んでおり、帰りの車内は汗や塩水でネチャネチャになった体をくっつけ合って帰ってきました。


撮影:1964(昭和39)年12月31日
 傷んでいる感じはなく綺麗なモハ3101。 北鉄金沢

モハ3102
北陸本線(後方)をアンダークロスして一つ目の七ッ屋に到着する。モハ3102+クハ1651のいかにも北鉄らしいゲテモノ編成。

モハ3102  七ツ屋

オリンパスペンSで撮った1964(昭和39)の内灘駅。左の海辺に延びる線路は営業休止中。
元遠州鉄道の車体を使ったモハ3571、かなり薄汚れている。

2018年6月11日月曜日

元浅野川線のポール電車

先日、西宮後さんからコメント戴いた元浅野川線の楕円窓付モハ1601とはこれですね。
浅野川線→金石線→小松線と転籍した注目の電車を思い出しました。

私が金石線を訪問した1964年12月は、既に転籍していたのか1601は見掛けず、その1年前、金石線中橋の車庫でポールを付けた1601を田辺さんが撮っていました。
この1601、私は写真でしか見たことがなく特に小松線でトレーラになった最後の姿が強烈でした。

昭和30年代後半、北陸の私鉄各線では実に興味深い電車が次々と姿を変え消えて行った時代でした。ほんの1年の差がいかいに大きいことか。

撮影:田辺多知夫
 元浅野川線のポール電車モハ1601(昭和初期の日車製)   金石線中橋車庫 1963.7.12

京福永平寺線 デハ107(昭和初期の日車製)  パンタ化以前のボウの姿が貴重です。 1964.10.4


デハ105(昭和初期の日車製)  金津 1964.10.4
こちらの永平寺線107や105は浅野川線の1601と風貌や丸窓がよく似ています。
これらも私が訪問した時はボウがパンタ化されていました。

2018年6月1日金曜日

浅野川線 内灘~粟ヶ崎海岸

内灘駅から粟ヶ崎海岸駅までの軌跡を推定してみました。
内灘海水浴場、試射場指令室跡、粟ヶ崎海岸駅跡、内灘駅の位置はこんな関係に。

この廃止区間が海水浴客輸送だけではなく、どんな戦時色があったのか、なかったのかを知りたくなってきました。休止、再開、季節運転、廃止の歴史はそんな背景と関係があるのではないでしょうか。

Googleに粟ヶ崎海岸駅跡の表示があり、赤ラインで廃止区間(内灘~粟ヶ崎海岸駅)を推定。

2004年に撮った内灘海岸の表示では砲弾をトラックで運んだとある。

内灘の歴史を何も知らない私が、お粗末な京セラ初期デジカメで撮ったこれら2004年の写真。
内灘駅から道路を直進すると殺風景な海岸に出た。2004年

朝鮮動乱末期に浅野川線で運ばれた米軍試射場の砲弾は、貨物駅内灘でトラックに積み替えられ鉄板道路を走ったとすると、内灘~粟ヶ崎海岸までの線路は米軍の砲弾輸送に使われなかったことが考えられる。

元々この試射場は戦時中には陸軍に使われていて、その後、朝鮮動乱で米軍がここに目を付け日本(大阪)で製造した砲弾の試射場として使ったそうである。
米軍試射場跡の案内板によれば、昭和28~32年に海辺が広範囲に試射場に使われたことが分かる。このことから、この時代は海水浴客輸送は無かったことになる。

内灘~粟崎海岸間の歴史は下記のようになります(代打・山本さんの調査による)
 昭和4年7月14日 新須崎~粟崎海岸間開業
 昭和20年2月11日粟崎遊園前~粟崎海岸間廃止
 昭和20年10月1日 北陸鉄道に合併
 昭和25年7月1日 粟崎遊園前~粟崎海岸間開業認可
 昭和49年6月29日 内灘~粟崎海岸間廃止許可

2018年5月30日水曜日

浅野川線 金沢風景3 内灘

内灘から粟ヶ崎海岸へ延びるカーブにいた2両の2軸客車。台車からすると元々トレーラだったのでしょう。ボギー車だけでなくこんな車両までいたのがこの時代の北陸鉄道の魅力です。

以前に頂戴したコメント
モハ573は撮影当時、すでに電機代わりに使われていたようですが、僕が両親に連れられて遥遥、福井から内灘に海水浴に訪れた時、乗った電車のポール集電器の印象が深く、今でも覚えているので、もしかしたら当時は立派に旅客電車として走っていたのではないでしょうか、地元の方の投稿を待ちます。

僕が内灘に行ったのは小学3年の夏でした。因みに、1953(昭和28)年のことです。
北鉄の駅の雑踏の中で菊の花の氷柱が涼しげでした。
福井のやすしです。

撮影:1964.12.31 
 サハ221 内灘

サハ211 内灘
コメントにあった1953年頃、モハ573がこんな客車を牽いて粟ヶ崎海岸まで海水浴客を運んでいたことを想像してしまう。

北鉄金沢の貨物線で働いていた モハ573 北鉄金沢

左にカーブして粟ヶ崎海岸へ延びる休止中の線路、島式ホーム、駅舎と内灘駅の全体が分かる1枚。
余りに殺風景な終点で、私はここが行き止まりの粟ヶ崎海岸駅と思ってしまった。
この時代に左に伸びていた線路は海水浴シーズンに海岸まで走っていたかも知れない。寂しいこの内灘駅は少し前まで貨物駅であったことを全く知らなかった。

左手の海へ向かうカーブにはもう一つのホームがあった。 内灘

内灘駅

私のコメントから
訪問時(1964年)は内灘~粟ヶ崎海岸は休止中で線路は残っていて1974年に廃止されたようです。鉄ピク216号私鉄車両めぐりに紹介されたようで、海水浴場までの経路が記録されています。

現在の地図に照合してみるとなんとなく軌道跡が推定できます。
何とGoogle地図に粟ヶ崎海岸駅跡が表示されていました。
そこは海が目の前、小さな電車が内灘の海水浴場まで通っていたのですね。
10年程前、この内灘の海岸を確認に行ったら海岸道路が走る実に殺風景なところでした。


2018年5月29日火曜日

浅野川線と金沢風景2 粟ヶ崎

浅野川から離れて大野川を渡ると粟ヶ崎に到着する。有名な撮影ポイントで沢山の元井の頭線電車の写真が撮られている。注目は背景にありで今やすっかり変わってしまった。

撮影:1964.12.31
浅野川線と言えば誰もが撮る大野川の橋梁。橋の向こう側に見える川べりの風景はこの時代特有の風景であった。粟ヶ崎ー蚊爪

川の向こうに一面の田んぼが拡がる。粟ヶ崎ー蚊爪

 粟ヶ崎の駅前
朝の通勤客と思ったがこの日は大晦日。電車から降りる人、駅に向かう人々を後に電車は内灘へ向かう。


ここは終点内灘。キンチョールの看板が目に入る。

2018年5月28日月曜日

浅野川線 気動車崩れのクハ

この頃の浅野川線の電車は大変バラエティに富んでいて、中でもモデラーが喜びそうな気動車崩れのクハ1650形の存在が楽しい。クハ1651と1652の2両が在籍していた。

撮影:1964.12.31

ダブルルーフのモハ3102と組んだクハ1651。
モハ3102 七ツ屋

 モハ3551と組んだクハ1652。改造で貫通路と幌が付いている。七ツ屋車庫

 モハ3551 七ツ屋車庫

クハ1652

2015年10月14日水曜日

昭和38年 何だこれは! の金沢3

撮影:1963.07.12  田辺多知夫

急行「ゆのくに」交直流電車471系 金沢 1963.07.12
この写真の数ヶ月前1963年4月20日に福井から金沢まで交流電化され、金沢駅は赤い新型電車の急行「ゆのくに」や「加賀」などで賑わっていました。北陸本線も交流電化で様々な入れ替えがあった時代だったのでしょう。こんな華やかな金沢駅とは対照的な「何だこれは!」の世界が金沢の片隅に存在していて北陸鉄道石川線、金石線を紹介してきましたが次は浅野川線です。

急行「加賀」

モハ572 北鉄金沢
この古ぼけた単車は貨物用に使われ北鉄金沢駅から延びる国鉄連絡線で使われていたようだ。華やかな国鉄交直流電車とはあまりにも対照的な凄い風景。

貨物は電車が牽いていた

サハ211+サハ221
翌年に見たときは内灘の先に延びる線路に放置され荒れていた。内灘の先へ海岸まで延びていた線路を電車に牽かれて海水浴客を運んでいた素晴らしい光景(想像)が目に浮かぶ。

クハ1602 この頃の浅野川線は他線に比べるとマトモな電車でインパクトは少なかった.

狭苦しい北鉄金沢駅

金沢の旅館から眺めた市内線

金沢駅前で線路は左へカーブし、その先に単車が見える??

翌年に駅前の市内線軌道配置に変化があったのか?  金沢駅前 1963.07.12


金沢駅前 1964.10.05 工事中?

金沢駅前 1964.12.31
1年半後の駅前の市内線軌道配置はシンプルになっていた.

2011年1月6日木曜日

北陸鉄道 浅野川線 内灘

昨年5月25日アップしました「浅野川線の風景」で、駅名が間違えていましたので訂正いたしました。

当時の終着駅があまりにも殺伐とした何もない海岸べりのような光景で、てっきり内灘の先の粟ケ崎海岸と思い込んでいた。ところが掘立小屋のような駅舎の写真を改めて見ると「内灘駅」の表示があり、数年前に訪問した内灘駅とまるで違うが、この駅は粟ケ崎海岸ではなく内灘であった。

内灘から先の内灘~粟ケ崎海岸の路線図は、減速進行さんのサイトの廃線区間を参照下さい。

46年前の内灘   1964.12.31
当時は左へカーブし、この先の粟ケ崎海岸まで線路が繋がっていたようだが、
運転は内灘止まりであった。今も左へカーブする形跡がある↓

駅周辺の風景が一変した最近の内灘。  2004年11月


↑46年前の内灘駅舎。

最近の内灘駅舎。よ~く見ると窓や入口に昔の掘立小屋の面影が。


何もない殺風景な駅。 右は海へ向かう電車のホームか?


内灘の先へ線路が左カーブし、そこに気になる2台サハ221と211が留置されていた。
その昔、夏になるとポール電車に牽かれこんな客車が海水浴客を運んだのだろうか。

2011年1月5日水曜日

北陸鉄道 浅野川線

金沢駅前にある浅野川線の北鉄金沢駅は今では地下化されてしまったが、当時の地上駅はこんな風景であった。ここから国鉄へ貨物線が延びていて、ポール付きの四輪単車が使われていたようである。
北鉄金沢を出て左にカーブして北陸本線の下を抜けると七ッ屋で、そこに車庫があった。

北鉄金沢駅    1964.12.31

ダブルルーフのモハ3101  北鉄金沢

貨物線にいた四輪単車モハ573。  北鉄金沢

七ッ屋の車庫。  モハ3561 と モハ3551


元気動車のクハ1652

北陸本線(後方)の下を抜けると七ッ屋の駅があった。モハ3102+クハ1651