案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年1月6日木曜日

北陸鉄道 浅野川線 内灘

昨年5月25日アップしました「浅野川線の風景」で、駅名が間違えていましたので訂正いたしました。

当時の終着駅があまりにも殺伐とした何もない海岸べりのような光景で、てっきり内灘の先の粟ケ崎海岸と思い込んでいた。ところが掘立小屋のような駅舎の写真を改めて見ると「内灘駅」の表示があり、数年前に訪問した内灘駅とまるで違うが、この駅は粟ケ崎海岸ではなく内灘であった。

内灘から先の内灘~粟ケ崎海岸の路線図は、減速進行さんのサイトの廃線区間を参照下さい。

46年前の内灘   1964.12.31
当時は左へカーブし、この先の粟ケ崎海岸まで線路が繋がっていたようだが、
運転は内灘止まりであった。今も左へカーブする形跡がある↓

駅周辺の風景が一変した最近の内灘。  2004年11月


↑46年前の内灘駅舎。

最近の内灘駅舎。よ~く見ると窓や入口に昔の掘立小屋の面影が。


何もない殺風景な駅。 右は海へ向かう電車のホームか?


内灘の先へ線路が左カーブし、そこに気になる2台サハ221と211が留置されていた。
その昔、夏になるとポール電車に牽かれこんな客車が海水浴客を運んだのだろうか。

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