案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2026年3月30日月曜日

井笠ホハ10と三度目の出会い

写真は1年前の3月30日に関水本線(関水埼玉工場)で撮影した元井笠ホハ10。
西武山口線仕様34号として見事に復元された。

井笠ホハ10の経歴
①井笠鉄道での現役時代
②井笠鉄道廃線後、西武山口線で使用され、
 その後、西武遊園地でレストラン列車として使用される
③関水本線で山口線仕様34号(元井笠ホハ10)に復元

山口線仕様34号の復元で井笠ホハ10と三度目の出会いであった。


西武山口線34号の復元(元井笠ホハ10)
ダブルルーフ、平妻、雨樋位置、でホハ10と分かる。2025.3.30


車内の木工仕上り.



西武山口線の終焉後、西武遊園地でレストランとして使用された元井笠のダブルルーフ客車4両。客車細部の相違点から元井笠は左からホハ5+ホハ10+ホハ2+ホハ6と推定される。 2011.4.29


井笠鉄道 現役時代のホハ10 1967.3.8

2026年3月23日月曜日

底冷えの岩倉

 京福電鉄鞍馬線 1969年
正月の京都に来ていた。街は華やかな正月だった。
なのに観光らしいことは何もせず、
私は洛北へ向かい、岩倉盆地の田んぼの中にいた。

西陽が差す午後、田んぼの向こうを行く鞍馬線を狙った。
しかし京都の底冷えには参った。
今思うと、廃線になる路線でもないのに、
あの寒さの中で防寒着も着ず、
薄着でよく我慢して撮っていたものだと不思議に思う。

60年近くたった今、あの時の我慢も無駄ではなかった。
そう思うと、底冷えの岩倉も悪い思い出ではない。


木野 - 岩倉




2026年3月19日木曜日

曇天の五城目

秋田中央交通軌道線 1966年3月
どんよりと曇った空のもと、八郎潟から、
みぞれ交じりの寒風が吹きつける。

そこへやって来たのが珍しい列車。
その姿に、寒さを忘れる。
高校生たちを乗せた列車は、
泥だらけの道を行くトラックに追い抜かれ、
のんびりと走って行った。


五城目駅を発車し道路に現れた列車。


列車を追い抜いたトラックはすでに前方に見えない。








五城目


2026年3月18日水曜日

火鉢

日本硫黄沼尻鉄道 1964年冬
定員たった37名の小さな客車は、川桁で乗り換えてきたスキー客で身動きもとれなかった。列車は雪の中をゆっくりと走り、沼尻に到着すると、スキー客は一斉にバスへ乗って沼尻温泉スキー場へ向かった。

駅に残された客車の中をのぞくと、そこに、ぽつんと火鉢が残っていた。
やがてこの路線も消え、その後すぐにスキーもマイカーの時代となった。
あの車内のぬくもりを、ふと思い出すことがある。


小さな客車内の火鉢。



2026年3月13日金曜日

時代のひとコマ

東急玉川線 玉電用賀 1965年夏
大山街道手前の踏切を走り抜ける電車の前を、
人が足早に渡っていく。
自転車に乗ったおばさん、塾通いらしい女の子。
下駄を履いた若者、どこにでもある街の昼下がり。

こうした街の風景は、早くに消えてしまった。
気がつけば街はすっかり姿を変え、
玉電が走っていたことさえ忘れ去られて行く。
あれは何気ないある日の記録。
今思うと、それは時代のひとコマだった。

電車は踏切を渡ると木立の脇をカーブし併用軌道(大山街道)に入る。



2026年3月11日水曜日

奥山線 最後の日


遠州鉄道奥山線 気賀口 1964年10月31日
奥山線が廃止になる最終日、終点の気賀口駅に立った。小さな駅には、静かな時間が流れていて、線路の先に客車が1両休む風景はいつも変わりない。見送る人も、名残を惜しむ声もない。秋の草が線路脇で揺れていた。この駅も線路も今日が最後。そんなことを思いながら、去っていく列車を見送った。夜には最終列車の見送りがあり、この駅の役目が終わる。
(ハレーションの失敗作を何とかトリミングで隠した1枚です)


曳馬野では、「さようなら奥山線」の看板の下、地元の人々が盛装してお別れ列車を乗りに来ていた。


いつもの日常がこの日で終わる「さいわい町」の駅。


寂しげに都田川を渡る列車。

2026年3月8日日曜日

煙の中へ

遠鉄奥山線 1964年 秋
稲刈りが始まった秋の田んぼ。
二俣線の蒸機列車と奥山線の小さな列車が、
ここですれ違った。

通り過ぎた蒸機の煙が、田の上にゆっくり残る。
煙の先にかすかに見えた列車は、
二俣線の線路を越えて消えていった。

翌日から奥山線はバスに切り替わった。






1964.10.31



                                                        

2026年3月6日金曜日

湯野上温泉

 国鉄会津線  1974年 
一枚の鉄道写真を見ると、
あの日のことが鮮明によみがえる。

若い頃に撮った写真は、なぜか記憶によく残る。
さらに鉄道写真には、
日付と場所がしっかり記録されている。

この一枚から、湯野上温泉で泊まった宿のこと、
雨が上がった朝の駅を撮りに行ったこと、
対岸から貨物列車を狙ったこと、
同行した友達や家族のこと、
などが思い出される。

鉄道だけではない。
あの頃はどんな時代だったのか。
50年たった今でも、
ついこの間のことのように蘇ってくる。



朝の湯野上駅.1974年

2026年3月3日火曜日

新宿警察署前

都電杉並線 1962年
都電を撮っていると、クルマが写り込み、
がっかりすることがあった。
路面電車の撮影では、いつもクルマが邪魔に思えた。

しかし何年も経って昔の写真を見返すと、
クルマのいない写真はどこか物足りない。
クルマもまた、その時代を映す存在だったのだ。

この写真でも、
当時の東京にこんなクルマが走っていたことが楽しい。
路面電車だけが走る道路よりも、
クルマと共にある風景にこそ、街の息づかいがある。

それに気づいたのは、ずっと後になってからだった。



青梅街道の杉並線 新宿警察署前


2026年3月2日月曜日

夏の朝

 仙北鉄道 1964年夏
地方へ鉄道を撮りに行くと、よく声を掛けられることがあった。

「どこから来たの?」「何を撮っているの?」
まだカメラをぶら下げて線路端に立つ者が珍しかった時代だ。

仙北鉄道では早朝に列車を待っていると、背後の家から声が飛んできた。
「お茶でも飲んで、ゆっくりして行きなされ」
縁側に呼ばれて、お茶と漬物をいただく。
どこから来たの等、取り留めのない話をしているうちに、
庭の先を朝の列車が通り過ぎて行った。
列車のことよりも、あの夏の朝のことが強く思い出される。

地方では見知らぬ者に声を掛けることは、ごく自然なことだったのだろう。
沿線の人のぬくもりが感じられた夏の朝だった。



朝の通勤通学時間.瀬峰

60年前の親切な沿線のおばさん.
仙台まで行商に行っているそうだ.
 

沿線の静けさ

仙北鉄道 1964年夏
終点の登米に近い畑の中に、気動車が現れると、
手前の道にリヤカーを牽く家族が通りかかった。
母親と祖母とお手伝いの子は一家なのだろう。
ちょうど夏休みだった。

沿線で列車を待っていると、人に会うことは滅多にない。
見かけるのは、畑に出ている人影ぐらいだった。