案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年11月30日月曜日

金沢犀川の川向こう野町~白菊町界隈の今

10月9日に紹介しました昭和38年の 何だこれは! の金沢1 で、金沢犀川の川向うの一角を走っていた今はなき野町~白菊町界隈の現状を定点撮影された代打・山本さんから写真を送って戴きましたのでアップします。

川向こうの一角(現状)に廃止区間を入れてみました。赤が1972年に廃止になった白菊町~野町(推定)、青が現状の石川線です。白菊町が随分わかりにくい場所にありますが、真の起点は昔から市内線が来ていた野町であったのでしょう。工場地帯の貨物扱いで野町の先白菊町まで線路が伸びていた。

写真で○○枚目とあるのはブログ「昭和和38年 何だこれは! の金沢1」にある写真の順番です。

9枚目と同じ場所で 野町駅前を出た市内線が国道に合流するため坂を上ってくるところです。
(市内線単車がカーブして国道に向かっていたところですね)

 野町駅
1枚目、3枚目とほぼ同じ場所です。田辺氏は駅のホームから撮影されたようですが、現在はバスとの乗り継ぎのために改築された駅舎に面したホームしか使われておらず、向かい側のホームへは立ち入りができません。ポイントも撤去されており、交換用のコンクリート枕木が並んいるのはレールの上です。なお石川線は大正4年の開業から今年でちょうど100周年を迎え、電車にもヘッドマークがついています。

 10枚目と同じ場所です。(野町駅前でここから右へカーブして市内線が出ていましたね)

 野町~白菊町の中間から分岐していた建設資材会社の敷地内には、今でも線路が残されています。  

 建設資材会社の横から先は線路跡が道路になっています。
(白菊町手前の大きなカーブでしょうか)

6枚目、7枚目と同じ場所です。線路跡にアパートが建っていますが、6枚目に写っているブロック塀は当時のままです。(電機が貨物入替え作業をやっていた踏切のところですね)

5枚目とほぼ同じ場所です。変電所の敷地になっていますが、右に曲がる側線の跡に沿って木が植えられています。(あの奇怪な建物は変電所だったようですね、それが今はこんな風景に)

先日行われたイベントで、もと井の頭線の車両の行先が演出で「白菊町」になっていました。この車両が入ったのは平成になってからなので白菊町へ行ったことはなく、こんな方向幕があるはずがありませんが、紙にマジックで書いてあったそうです。(元井の頭線と白菊町の組み合わせが面白いですね)

2015年11月28日土曜日

秋田中央交通のデワ+ナハフ

トミーテック鉄道コレクションでよくぞこんなモノが発売されましたね。

模型用に撮ったデワ3001の1枚.五城目  1966.03.05
ミゾレまじりの曇天でねむいネガのトーン調整がやっかいな一枚です。

デワ+ナハフ 五城目

2015年11月22日日曜日

松尾鉱業鉄道 雲上の都市があった頃

1966年3月の私鉄めぐりも宿代わりの夜行列車で東北ぐるぐる回りの連続で、松尾鉱業鉄道へ向かう時の寝不足はひどかった。仙台で夜行列車に乗り深夜2時に盛岡に到着し駅待合室で寝て花輪線の一番で松尾鉱業鉄道が出ている大更へと向かった。
松尾鉱業鉄道の雲上の楽園はすでにアップされていますが、同行した田辺さんが東八幡平駅で別角度で撮った写真をアップしてみます。

東八幡平の駅の背後に迫る山並みの上にまだ「雲上の都市」の生活があったようだ。この頃鉱山はピークの時代を終え終焉の時代を迎えていたようだが、2両の客車には大更へ出る乗客が結構いた。東八幡平の駅前に生活感は何もないので乗客のほとんどは雲上の都市に生活している人達だったのでしょう。
終着駅 東八幡平   1966.03.02

殺伐とした東八幡平の駅前には生活を感じさせるものは何も無く地面がツルツルに凍結していた。ここから山の上に鉱山ロープウェイらしきものが見えるが雲上の都市の住民はバスで駅まで降りてきたようだ。

東八幡平からやってきた乗客はここで花輪線に乗り換える。花輪線に乗って盛岡へ買い物のお出かけでしょうか。 大更  1966.03.02


東八幡平駅の鉱山輸送 ED252

2015年11月19日木曜日

九州夜行列車 1枚の写真

九州の地方私鉄、路面電車めぐりで毎夜宿代わりに利用した夜行列車。この1枚は確か鹿児島で夜行列車に乗り早朝の鳥栖に到着した時でしょう。駅で顔を洗いパンをかじり熊本へ引き返したのか、あるいは長崎へ向かったか? 
そんな1枚をスキャニングした後、トリミングもゴミとりも調整も何もしないでリサイズだけした画像を試してみました。これは楽です。


早朝の鳥栖 鹿児島発の夜行列車 1967.03.02 


1967年3月1日、鹿児島20:11発の門司行夜行鈍行列車に乗り込む。鈍行列車のせいかお茶や弁当売りはほとんどやって来ない。隣の急行発車ホームには駅弁もたくさんあったのに・・・・。改札が始まっても乗り込んでくる客はまばらで西鹿児島で地元の客が乗ってきて少しだけ席が埋まったがすぐにガラガラの夜行列車となった。一人で1ボックス占領し今日一日の疲れでぐっすり眠れそう。

翌3月2日4:41定刻に鳥栖に到着し隣のホームに停車しているローカル列車に乗り込んで目が醒めると博多に到着。鳥栖で長崎行に乗ったつもりが列車は逆方向の長崎発門司港行きであった。博多で6:49発急行「雲仙 西海」C60牽引列車に乗って引き返し長崎へ向かう。長崎に10:27到着したとたん南国の明るい太陽のもと異国情緒豊かな音楽が聞こえてきて南国ムード満点であった。

と、旅の記録を読み返してみると狂電関人さんご指摘の通り朝の陽ざしの方向からすると写真は東京発長崎行きの下り夜行列車急行「雲仙 西海」かも知れません。

2015年11月15日日曜日

多摩湖線のN101系

昨日朝、西武新宿線の上石神井近くの踏切でふと見ると新宿線からは消えたはずの3扉車が?  よくよく顔を見れば懐かしいN101系で4両全電動車263Fの回送でした。
通常は多摩湖線で営業運転しときどき機関車代わりに新秋津ありに出没する263F、今でも多摩湖線を走っているのでしょうか。ノーマルN101系が白一色塗りになってからすっかり遠のいてしまった多摩湖線の今を見に行きたくなってきました。

263F   一橋学園-国分寺  2009.11.15  
2007年春に入線した4両全電動車のN101系263F、デカい抵抗器をぶら下げ、全車両モータ付のパワフル電車はまるで大型模型のよう。今日はどこの舞台裏にいて何をやっているのか、西武新宿線ファンからいつもその日の所在を追跡されていた(当時のはなし)。多摩湖線で「1両目パンタグラフ付」通称"前パン"はこの全電動車だけ。

261F 一橋学園-国分寺 2009.11.15
あの頃、もう一つの多摩湖線名物がN101系261Fで2008年春の陽気の中をリバイバルカラーに化粧直しして登場した。窓回りが懐かしいの昔の西武の淡いうす茶に塗られ、このリバイバルカラー車が多摩湖線専用に走っていた。

朝の本町信号所(一橋学園-国分寺)を行くN101系   2010.02.08
朝、巨大エレクトロニクス産業に向かう通勤者の連なる光景には驚かされた。その後、あの巨大エレクトロニクス産業はどうなったのでしょうか。

2015年11月8日日曜日

昭和38年夏の広島駅

広島駅はC62特急列車の競演、こんな華やかな山陽本線も電化が進み、東京オリンピック開催の1964(昭和39)年秋を節目に広島駅の蒸機特急列車の時代も幕を閉じた。
撮影:田辺多知夫 1963.07.17

特急みずほ 機関車交換 

 C6240 特急あさかぜ用待機

 C6241 特急みずほ

 C6240 特急あさかぜ

 C625 特急はやぶさ

C59162

2015年11月7日土曜日

昭和38年夏の広島機関区

昭和39年10月の山陽本線全線電化の前年昭和38年夏の広島機関区、この時代はどこの機関区でもこんな迫力ある場面が撮れたことでしょう。広島機関区を訪問した田辺さんはしっかり庫内風景まで撮っていました。蒸気機関車で華やかだった時代の機関区の記録が貴重です。
撮影:田辺多知夫 1963.07.17

C62を整備する機関区の人たち


これから特急を牽引するC62の始業点検でしょうか.
山陽本線において京都駅 - 博多駅間の特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」などの当時を代表する優等列車の牽引に充当された。

機関区に一体何両の蒸機がいたのでしょうか.

扇形機関庫にD52やC59などが顔を揃えた華やかな時代. 

2015年11月5日木曜日

国鉄蒸機がいた駅の情景

「国鉄時代」Vol.43 2015-11月号に掲載された「筑豊」~蒸機王国の黄昏~を見た人は多いことでしょう。毎号素晴らしいグラビアを飾っている堀越庸夫さんの蒸機写真には圧倒され、今月号も「筑豊」のグラビアに目が釘づけになりました。

私が好きな国鉄蒸機の写真は今になってみると走行中の定番写真よりも駅や機関庫で撮られた情景写真です。しかし、当時は駅で撮るなんてナンセンス、一刻も早く良い撮影ポイントを求めて歩き回るのが当たり前だったと思います。駅(ホーム)で撮った乗客排除した蒸機全身は誰が撮っても、どこで撮ってもみな同じ、駅撮り写真は単に車両写真に過ぎないと当時私もそう思い込んでいました。

ところが駅撮り写真でも視点を変えてみれば本橋成一プロの「上野駅の幕間」(1979年~)のように無限の題材が当時の駅にあったのですね。堀越さんは1960年後半にはこのことを意識し始めたそうです。
国鉄の駅や機関区を訪問した時、私ももしこれに気付いていれば、あの時撮った国鉄蒸機の写真は無駄にならず宝物になったことでしょう。

「国鉄時代」に記事連載中の堀越さんや榊原さんと先日の鉄談義でこんな話題になりました。私は国鉄蒸機の写真の魅力は駅の情景にありと思っていますが、好みや楽しみ方は人さまざまですね。


直方駅は伊田線、宮田線の乗り換えもあり、4番線まであるホームのどれかにはいつも乗客がいる活気ある構内だった。しばし休息するC55のスポーク動輪に朝日が射す。1971.11 直方
撮影:堀越庸夫 「国鉄時代」vol.43より


  「国鉄時代」vol.43 筑豊

堀越庸夫さんのホームページ