案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年2月28日月曜日

最後の筑波鉄道 上大島

酒寄を発車すると次第に筑波山の全容が見えてくる。
左手に筑波山麓、右手に一面の畑を見て上大島そして筑波へと進む。
上大島駅には荒れ果てた貨物側線と貨物上屋があり、こじんまりと纏まった駅。
初めてこの駅を見た時に筑波鉄道の駅の魅力に気がつき、各駅の撮影がスタートした。

晴れていれば筑波山の全容が見えて来る。 上大島近辺  1987.3.22


こじんまりと纏まった上大島駅  1987.3.22
貨物上屋がある上大島駅の全景。  1987.3.22

使われていないのか荒れ果てた貨物上屋。  1987.3.22


筑波山の麓を一直線に走る。 上大島 - 筑波 1987.3.22

2011年2月25日金曜日

筑波鉄道 本日の真壁

猫が好きさんからのコメントにあった、真壁の100軒超える文化財町並み真壁のひなまつり号バス(3月3日迄期間限定)を読んで、たまらず本日 ひなまつり号バスに乗って真壁へ行ってきました。
北千住からつくばエクスプレスに乗ってつくば駅まで35分、駅前のつくばセンターでひなまつり号バスに1時間ほど乗って真壁に到着。真壁まで走っている定期バスは4月1日から筑波山口~真壁間の便が無くなってしまうので、車がないと猫好きさんのコメントにあったように、今後はつくばセンターから筑波山口までバスで来て、そこからレンタサイクルで廃線跡をたどったって真壁まで来るしかなさそうです。

車を使えばどうということのない土地だが、今日の自転車による廃線跡巡りは車とは違って何かと快適なこと。筑波鉄道の廃線跡は土浦から岩瀬までサイクリングロードが完備しているようで、何回か来て全線を楽しめそうだ。
今日は真壁で無料レンタサイクルを借りて酒寄までの廃線跡を探索し、その先の筑波駅跡までは次回とした。そしてオマケに真壁の文化遺産の町並みめぐり、更に古いお雛様まで見ることができ、無料レンタサイクルのフル活用であった。真壁の町は昔よく車で通過したが、当時はこの古い町並みに全く気付かなかった。

真壁駅跡のホーム。 どの駅もホームはしっかり残されているようだ。
真壁のホームの桜も残っていた。 2011.2.25
加波山(左手)を背景に廃線跡のサイクリングロードがどこまでも続く。真壁~常陸桃山

真壁の町から見える筑波山

真壁の町並みには300余棟の見世蔵(店舗兼用)、土蔵、門があり
104棟が国の登録有形文化財に登録されている。


各家自慢のお雛様が座敷や店先・玄関先に飾られ観光客を楽しませてくれる。
古い町並みのごく普通の商店等(192軒)に飾られたところが素晴らしい。
江戸時代のひな人形が見どころだそうで、この街おこし10年くらい前に始めたそうだ。

2011年2月22日火曜日

松尾鉱山のこと (続)

松尾鉱業鉄道について、更に画像アップ(一部再アップあり) してみます。
松尾鉱山の人達はこの列車に乗って大更で国鉄花輪線に乗り換え、盛岡などへ出たのでしょう。
列車が大更から東八幡平へ戻って来る時は、上り勾配を超スローで牛車のようであった。

発車間近の混合列車。 東八幡平  1966.3.2


山を下りて来た混合列車が大更に到着。

ハチロクの列車が走っていた国鉄花輪線。 大更駅
松尾鉱業鉄道からの乗客は国鉄「花輪線のハチロク」へ乗換え盛岡方面へ向かう。


大更から客車1両牽いて戻って来る列車。

遠い昔はこんな客車の混合列車が走っていたのでしょう。
東八幡平 1966.3.2

↑ 郵便荷物車 ユニフ1。 大変な古典客車

↑ ナハフ8  東八幡平

↑ ハニフ4 ?

↓ラベルの鉄道名クリックで、アップ済み松尾鉱業鉄道が繋がります。

2011年2月21日月曜日

松尾鉱山のこと

先日、昨年6月16日アップの松尾鉱業鉄道「栄枯盛衰 松尾鉱山(続)」に興味深いコメントを戴きました。
松尾鉱業鉄道の終点東八幡平からさらに山の上にある松尾鉱山と鉱山町。
その鉱山町に小学校4年生の頃まで住んでいた方からです。

この終着駅から松尾鉱山の町まで、バスに乗ってかなり時間が掛ったそうです。
この写真を撮った1966(S41)年、この方は小学生で「雲上の楽園」と言われた鉱山町に住んでいた頃。
「雲上の楽園」の住まいのこと、閉山後廃墟となった鉱山町のこと等について書かれています。

更にこの上の鉱山町から見る岩手山はどんな風景であったのだろうか。

東八幡平の構内と背後の風景

'10年6月16日「栄枯盛衰 松尾鉱山(続)」のコメント投稿欄より

コメント1
過去、小さい頃まで松尾鉱山に住んでいたものです。
(小学校4年まで)やっとの事であの鉱山鉄道の写真を発見できました。
盛岡の祖母を訪ねるために、必ず利用したこの鉄道と駅舎、そして構内は今でも記憶に鮮明に残っています。鉱山に帰るのに、当時は花輪線の大更で乗り換えて、そして、この東八幡平駅でバスに乗り換えてと随分と時間がかかりました。
今は自家用車で気軽に行き帰りができる距離です。
今は全部取り壊されて、跡形も残っていませんのでとっても貴重な写真でありがとうございます。
閉山後、10年後に友達と遊びに行ったときは駅は貨物車、電車等がそのまま放置されて、雑草に埋もれていていたのをよく覚えています。


コメント2
丁寧なご返事ありがとうございます。
私が小学生の頃は1966-1969年でしたから、もう閉山が目の前でよく語り継がれている戦後から1960年頃の絶頂期とは程遠い衰退時期であったのでしょう。ですから、鉱山鉄道が人で混んでいたという印象は全くありませんでした。
鉱山のガラガラの誰もいない精錬の施設で使われないで置かれていた、トロッコでよく、友達と遊んだのを覚えてます。
私は当時、鉄筋コンクリートの水洗トイレ、スチーム暖房完備のアパートに住んでいました。とっても恵まれていたんですね。
毎年、何度も父と訪れますが、当時と比べて、植物が回帰してきたのか考えられないくらい草がぼうぼうと生えているのは驚きです。でもそれくらい、鉱山の排煙はひどかったということなのでしょうね。
もう鉱山鉄道の当時の写真を見るのは不可能なのかと探していたら、こんな貴重な写真の数々。
本当にありがとうございます。

2011年2月20日日曜日

最後の筑波鉄道 筑波北方の駅

筑波北方には似たような感じの駅が続き、撮影メモがないため撮影場所の確定に難航し、
この区間の全駅を北から南へ岩瀬駅から並べてみました。
駅の解説は「さようなら筑波鉄道線」記念乗車券の各駅スポットガイドより。
撮影は全て1987(S62)年1~3月。

岩瀬駅 国鉄水戸線乗換え駅、近くに県指定文化財「富谷観音」がある。

雨引駅 坂東33ヶ所霊場“雨引山楽法寺”(雨引観音)


東飯田駅 村の鎮守八幡神社(旧暦8月17日が祭典で花火大会がある)

樺穂(かばほ)駅 大ギセルで有名な加波山タバコ神社。筑波連峰の加波山への登山口。


真壁駅 雪見灯篭など石材加工の盛んな町、近くに伝正寺がある。


常陸桃山駅 筑波山を源にした男女川沿いに水車を利用した
ウドン、ソバが作られている。


紫尾(しいお)駅 県営筑波山ユースホステル入口、ここから日光・那須連山が眺望できる。


酒寄駅 みかん狩りに最適「観光みかん園」、近くに椎尾薬師がある。

上大島駅 白壁土蔵、古い家並みが続く真壁街道。 

筑波駅 名峰筑波山への登山口。縁結びの筑波山神社、筑波梅林。

最後の筑波鉄道、最終日の3月31日に向けてまだまだ続きます。

2011年2月19日土曜日

最後の筑波鉄道 真壁

筑波北方の中心駅 真壁は灯ろうなど石材加工が盛んな町で、近くに伝正寺がある。
交換線の両側に貨物側線があり、桜の木立がある古い木造の真壁駅は、模型にしたくなるような好ましい駅であった。こんな駅を廃線まで残り少ない日々を気動車が坦々と行き来していた。
派手なお別れ飾り付けもなく、廃線直前に小さなヘッドマークを付けただけで地味な廃線直前であった。

真壁駅 1987.3.8

1987.3.8


桜の蕾が膨らみ、満開前の31日に最後の日を迎える。  1987.3.28
最終日は、最終列車が真壁に到着した時点で筑波鉄道はその役目を終える。


あと数日で見られなくなる駅の風景 1987.3.28

石材加工の町、真壁。町の至るところに石屋さんがある。 1987.3.22

2011年2月18日金曜日

最後の筑波鉄道 樺穂

筑波北方の中心地 真壁近辺には紫尾(しいお)、常陸桃山、樺穂(かばほ)、雨引 といった素敵な駅名が多いが、この山裾一帯は昔から人を惹きつけける土地のせいで旧所・名跡が多いのだろう。
ある日、夕暮の樺穂を訪れてみた。

筑波山を背景に夕暮れを行く。樺穂あたりから見る 筑波山が魅力的であった。
樺穂 1987.3.22

加波山の山並みを背景に行く。 樺穂 - 真壁


夕暮れの樺穂駅。  岩瀬方面を見る。

2011年2月17日木曜日

最後の筑波鉄道 岩瀬~雨引

土浦から北へ40km走ってたどり着く終着駅は国鉄水戸線岩瀬駅の端にあり、周りは一面畑で静かな駅で、冬の抜けるような青空の下、 気動車のツートンカラーが鮮やかであった。3月末の廃線まで残すところ3ヵ月を切った1987(S62)年1月の風景。

岩瀬  1987.1.18

岩瀬から加波山へと筑波北方の山並みが連なり、
そんな山並みを背にして雨引まで長閑な沿線風景を行く。



山の梺に雨引観音がある雨引駅

2011年2月16日水曜日

最後の筑波鉄道

ブログタイトルの1960年代ではなく、1987(S62)年の事になりますが最後の筑波鉄道を連載してみます。
1975年~は地方私鉄めぐりに出歩くのは止めてしまい、唯一通い詰めたのが廃線間近の筑波鉄道でした。常総筑波鉄道筑波線→関東鉄道筑波線から1979(S54)年に筑波鉄道となって、最後の年(1987年)の1月に筑波を撮り始めました。


雨引  1987.1.18
あ~入ってしまった! と悔しい思い。しかしよく見れば邪魔な撮影者は自分の姿であった。
初期のビデオカメラ(ソニーベータ)を肩に担ぎ、同行した息子に静止画を頼んだようだ。

美しいカラーリングの気動車、筑波連峰の峰々、ローカル色豊かな駅施設、
茨城の風土・自然など、筑波鉄道の素晴らしさは余りに身近か過ぎて気付かなかった。


あれから24年、こうして今だからこそ筑波の素晴らしさが判るのだろう。
そんな昔ではないのに、遠い昔の出来事に思える。

2011年2月15日火曜日

最後の筑波鉄道

ブログタイトルの1960年代ではなく、1987(S62)年の事になりますが最後の筑波鉄道を連載してみます。
1975年~は地方私鉄めぐりに出歩くのは止めてしまい、唯一通い詰めたのが廃線間近の筑波鉄道でした。常総筑波鉄道筑波線→関東鉄道筑波線から1979(S54)年に筑波鉄道となって、最後の年(1987年)の筑波を撮り始めました。


雨引観音  1987.1.18
あ~入ってしまった! と悔しい思い。しかしよく見れば邪魔な撮影者は自分の姿であった。
初期のビデオカメラ(ソニーベータ)を肩に担ぎ、同行者に静止画を頼んだようだ。

美しいカラーリングの気動車、筑波連峰の峰々、ローカル色豊かな駅施設、
茨城の風土・自然など、筑波鉄道の素晴らしさは身近か過ぎて気付かなかった。


あれから24年、こうして今だからこそ筑波の素晴らしさが判るのだろう。
そんな昔ではないのに、遠い昔の出来事に思える。

葛生のナロー 2

1971(S46)年の春は、このモノクロ写真でした。
昨日アップしたカラー写真は、この3年後1974(S49)年の撮影で年月日を訂正させて頂きました。

やっと車が持てる時代になり、車で鉄道を撮りに行くのはこれが初めて、日記には「確かに便利だが足で歩いて撮りまくったあの充実感がない・・」とだけ記載があった。
写真以外には記録もなく、モノクロ写真と3年後のカラー写真を比較してみると、この時はまだ小さな3トン鉱車が使われていて、3年後のあの巨大な鉱車ではなかった。小さな3トン鉱車がいかにも鉱山トロッコ風で好ましい感じがしたものだった。

森を行く原石列車。  1971.4.25

小さな道と踏切、小さな川と橋、木立の中の小さな列車、中々楽しい光景であった。


3'6''ゲージとナローが並走する区間。


上下列車の交換。

牽かれる3トン鉱車が22両。

鉱山まで作業員を運ぶ人車は、日中、唐沢鉱山の隅で休んでいた。