案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2014年2月28日金曜日

東武鉄道 廃車古典蒸機-3 業平橋

昭和38年(1963年)11月23日、この日は日米テレビ衛星中継の第一報でケネディ大統領暗殺のニュースが飛び込んできた日であった。その翌日に渋谷駅に集合し業平橋へ行く予定がまたしても朝寝坊で遅れてしまい一人で業平橋の現場へ向かったのでした。
ほんとうにそこが業平橋だったのか? もしかして鐘ヶ淵ではなかったのか? あやふやであったが、ブログにコメント戴いたlodgershinmeishrine さんの航空写真のお蔭で業平橋駅北東に延びる留置線に間違いなしのようです。

50年前に廃車蒸機が並べられたあの現場がまさかスカイツリーが建つ業平橋である筈はないと私の思い込みがあったのかも知れません。蒸機の背後に写った洗濯物を干した2階建アパート、砂利置場、スレートぶき屋根の倉庫、塀の向こうの建物などは当時の航空写真と一致していました。こんな長閑な業平橋の風景が今では「とうきようスカイツリー」駅となってスカイツリーがそびえ建つ街に変貌してしまい隔世の感があります。

54号機の向こうに2階建アパートが見える. 業平橋 1963.11.24

線路わきの砂利置き場、その向こうに2階建アパートが並ぶ

手前にスレートぶき屋根の倉庫とその先に続く建物

塀の向こうの2階建建物

この風景の48年後が↓で、蒸機群の遠方に見えるビル辺りに今はスカイツリーが建つ.1963.11.24

48年前に古典蒸機が留置されていたのは業平橋の留置線であった.
留置線の向こうに東京スカイツリーを建設中の頃.2011.01.27

2012年2月29日スカイツリーが竣工し
「業平橋」駅は「とうきょうスカイツリー」駅となる

2014年2月27日木曜日

東武鉄道 廃車古典蒸機-2

ピーコック、ネルソン、シャープ・スチュアートなど9両が並べられた廃車古典蒸機中で一際目立って気になったのが32号機であった。ピーコック5500形の完成された美しさとは違って東武のピーコック29~34号はランニングボードとキャブが直線的で四角いベルペア式火室と相俟って無骨なスタイルをしているところに堪らない魅力を感じてしまいます。
図面資料集成「東武鉄道の蒸気機関車」の表紙を飾った図面はこのピーコックではないかと思います。

以下はサイト「明治のSL-3」にあった東武29~34号機の解説です。
1914年東武鉄道は増備機として英国ピーコック社から日本鉄道5600形の同形機を6両輸入しました、東武29~34号機です。ベルペヤ式火室を使用したためボイラの火室が大きくなり、寒冷地対策のため運転席が密閉式、砂箱がボイラの上にあるなど、外観が今までのピーコックと異なりスマートさに欠ける車両で東武鉄道では「新英形」と呼んでいたようです。
29、33号機は1960年(昭和35年)電化のため廃車解体されてしまいました。32号機は1962年(昭和37年)電化のため廃車解体されました。30,31,34号機は1966年(昭和41年)6月30日の東武鉄道無煙化の日まで働きました。

ピーコック東武32号機   1963.11.24
直線的なキャブ回りとランニングボードの曲線そして角ばった火室が特徴

一直線に延びたランニングボード

32号機のテンダー


ピーコック東武32号機

2014年2月26日水曜日

東武鉄道 廃車古典蒸機-1

東武36号機  1963.11.24

現役時代の東武のネルソン63、64号中千住駐泊場で見たのが1963年3月、その年の11月には主連棒(コネクティング・ロッド)を外されたネルソンやピーコックの計9両の廃車群を見に行ったことがあった。場所は業平橋のつもりでいたが、どうもここも違うようで業平橋~北千住間のどこかのようである。
C11を含め10両の廃車蒸機が集結していて9両まで号機を確認することができたが、この半年前は煙を吐いていた63号がこの中にいた。廃車となってコネクティング・ロッドが外された古典蒸機はネルソン、ピーコックの特徴的な美しい姿がその時はまだ残されていた。

54号機


56号機

2014年2月24日月曜日

小湊鉄道 春爛漫

2008年の小湊鉄道訪問の2回目は4月1日で桜が咲き始めた頃であった。
桜満開は後日にして菜の花満開の飯給と月崎を狙った。
快晴に恵まれたこの日の春爛漫の光景が印象的で、この後小湊鉄道を
何回か訪問したがいつも曇天でこんな好条件に恵まれたことはなかった。

菜の花に勢いがあった飯給の春.  2008.04.01

菜の花と桜の飯給の春

飯給駅入口の大きな山桜はまだ蕾であった

月崎の春 2008.04.01

月崎

2014年2月23日日曜日

小湊鉄道 初めての訪問

小ブログで取上げたのは今回が初めての小湊鉄道。
初めてここを訪れたのは2008年3月であった。
関東鉄道常総線とともに関東近場の非電化ローカル私鉄なのに1960年代は何故か足が向かなかった。
毎年、菜の花が咲くシーズンが近づいてくると房総の花の咲き具合が気になるものだ。
小湊の初回訪問では菜の花を確認し、この後に何回か訪問が続いた。

上総牛久-上総川間  2008.03.18

里見-高滝

 里山に僅かに咲き始めた菜の花. 里見-高滝

高滝の木々の蕾が開き始めた頃

上総鶴舞

2014年2月19日水曜日

国鉄会津線 C11と大内宿-3

鉄道・民家を愛する青蛙 さんは2007年に大内宿を訪問していましたので、青蛙さんが撮った最近の大内宿と、まだ観光地化される以前1972年の大内宿(前々回に紹介)の風景を対比してみました。

奇麗に整備された大内宿の街並を俯瞰してみると見事な美しさだが、ひとたび道路に降りると俗化した観光スポットの光景がある。街並の遺産を保存維持して行くためには観光事業を進めるしかないのでしょうけど昔あった魅力は失われてしまう。

カラー3枚 撮影 青蛙さん

子安観音堂付近から見た大内宿.  2007年5月
遠方から見た大内宿の光景は5月の新緑に囲まれ茅葺屋根の街並が今でも美しい.
これを見ていると行きたくなってくる風景だ.

上の写真の反対側から道路を進むと左に鳥居、右に火の見やぐらがある.

さらに道路を奥へ進んだ奥から5軒目の大和屋あたりの賑わい.

上の写真の昔の風景. 1972年6月
観光地化される以前のひっそり静かな生活があった大内宿.

 



民家風に改築された最近の湯野上温泉駅. 2011年11月

初めて訪問した会津線.改築前の湯野上駅全景. 1971年10月

会津線C11が行く湯野上近辺 1971年10月

2014年2月16日日曜日

国鉄会津線 C11と大内宿-2

2回目に大内宿を訪問したのは1969年7月の雨上がりの日であった。会津線 湯野上駅近くの温泉宿に泊まり朝一にC11を撮ってから大内宿へ向かったが、会津線のC11はこの年の秋に消えてしまった。

2年前の大内宿に較べ大きな変化はないようであったが、民家の明るい色のトタン屋根など住まいの改修が少し進んでいたようで民家の原形も次第に変化し始めていたのでしょう。
この頃 既に観光化へ向かっていたのか民宿のような宿があったような気がする。

その後40年、私は行った事も調べたことも無かったが、大内宿の今をGoogleストリートビューで散策してみると驚きの別世界であった。みやげ物店、ねぎそば店、御食事処、これがあの時の大内宿なのか! 民家の屋根に昔の面影が残るが昔とは全く風景が違っている。

2年が経った大内宿は一部民家で改修が進んできたような気がする. 1974.07.21

一番に奥にある石碑(湯殿山)がある大きな民家


石碑(湯殿山)がある曲がり角にある民家.
民家の佇まい


民家の裏手

 湯野上(現湯野上温泉)駅のC11  1974.07.21

雨上がりの朝の湯野上駅

湯野上温泉街を行く会津線

2014年2月14日金曜日

国鉄会津線 C11と大内宿-1

南会津の山中にあり、旧街道沿いに旧宿場の茅葺き民家が並ぶ大内宿。
SLブームが始まった1970年代の初頭、この頃 世に知られてきた秘境大内宿はまだ観光客相手の店などはなく、昔からの街並みと住民の生活習慣が残されていた。

すっかりマイカー時代となり何回も会津線C11を車で撮りに行くようになったが、湯野上でC11を撮った時はそこから奥へ入り大内宿に立寄ることがあった。マイカー時代とは云えマイカーで大内宿を訪れる観光客はまだまだ少ないようであった。
それが今では観光メッカとなってマイカーや団体バスで押し寄せる黒山の人出で、とっくに秘境ではなくなってしまったようだ。


阿賀川沿いに走る会津線C11  楢原 - 弥五島     1972.06.10

大内宿  整然と並ぶ茅葺屋根の民家 1972.06.10

のどかな人々の暮らし、生活感溢れる光景


帰りにはいつも立寄った会津田島の小さな機関区