案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年2月19日火曜日

頸城鉄道 夏の浦川原駅1968年

1962年から6年が過ぎた浦川浦駅は以前と変わらない夏の風景であった。
この年の9月末に飯室~浦川原間の部分廃線を迎え、こんな浦川原駅の風景も消える直前であった。

駅には以前のように貨車の姿が見えなかったが、小さな貨車は貨物長大編成へ出動していたのだった。
部分廃線を迎え貨物輸送も廃止されるというのに、小さな貨車で新黒井まで輸送する荷がまだあったということになる。この夏の貨物長大編成のことは以前「頸城鉄道4 頚城の貨物」で紹介したことがあります。



今もこの場所に残る浦川原駅の駅舎.

待合室の掲示板によると、浦川原から松代(マツダイ)、松之山温泉、十日町などへ向かうバス路線があって、直江津へもバス路線が繋がっていた.1968年ともなれば道路の整備もかなり進んできたと思われる.



ホームでは客車改造の気動車ホジが発車待ちしている浦川原駅. 1968.08.18
軽便としては立派なこんな駅の風景を1968年夏はまだ見る事ができた.

浦川原駅の構内.
こんな長閑な風景も、今ではこの線路跡地に立つ高架の上を「北越急行ほくほく線」が走る.

のどかで素晴らしい軽便風景があった浦川原の昼下がり

以前「頸城鉄道4 頚城の貨物」で紹介したことがある貨物長大編成. 百間町

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2013年2月17日日曜日

頸城鉄道 夏の浦川原駅1962年

頸城鉄道が新黒井から浦川原まで繋がっていた元気な時代の軽便鉄道。
部分廃線する前でまだ貨物輸送があった夏の浦川原駅を1962(昭37)年と1968(昭43)年に分けて取上げてみます。この頃は自動車時代到来で真っ先に消えた軽便貨物輸送の最後の活躍数年間だったのでしょう。

新黒井で国鉄と接続していた時代は米どころ新潟の軽便貨物輸送も活発でホジの乗客も多かった。しかし1968(昭43)年秋の新黒井~百間町間と飯室~浦川原間の部分廃線により、貨物輸送が廃止となり陸の孤島となった頸城鉄道は一気に終焉ムードとなってしまった。


夏の浦川原駅の全景 1962.08.03

線路の脇には床屋や中華ソバ食堂があった.

ホームでは混合列車が発車を待っている.薪を満載した無蓋車が愉快だ.
この日はホジ3が牽く列車と、DC92が牽く列車が活躍していた.

貨物引込線のホーム上ではトラックからちっぽけな貨車へ米俵が積込まれ、新黒井まで輸送して国鉄貨車へ積換えしていた。急速な自動車の普及により、非効率な軽便貨物輸送はあっという間にトラック輸送へ切替わって行った時代で、頸城鉄道も部分廃線により貨物輸送がなくなり、その後1971年5月に全線廃線となった。

駅の一番奥にはホハ4(元2・3等合造車ホロハ2)が休む.
背後に写った民家や床屋が興味深い.

2013年2月16日土曜日

流山電気鉄道の車両

昭和38年頃の流山電気鉄道の風景を2011年2月に紹介しましたが、今回は車両編をアップします。
この頃の車両は元南武鉄道のモハ100形(101,102,103,105)が主力の時代であった。

流山駅のモハ101   1963.03.31

お椀型ベンチレータのモハ103   馬橋 1962年3月
美しいボールドウィン台車

モハ105  流山 1962年3月

モハ102  馬橋  1963.03.31


モハ102  流山 1962年3月

西武クハ1215(元武蔵野鉄道サハ)を1963年に譲受したクハ52。 流山 1963.03.31

モハ100形と組んだクハ51(元豊川鉄道クハ60形) 流山 1962年3月

車庫の奥にあった元ガソリンカーのサハ31 1963.03.31

元ガソリンカーのサハ32 1963.03.31

貨車を従えた混合列車.この頃は流山から「万上みりん」工場への引込線があった.1963.03.31

2013年2月13日水曜日

松本電鉄浅間線、早朝の温泉行き電車

夜行列車で夜明けの都市に到着すると、うす暗い駅前通りに路面電車が停まっている。
こんな早朝の駅前光景を1960年代には各地で見掛けた。

朝5時前に到着した松本駅は夜行でやってきた登山客で賑わい、登山客が向かう上高地方面とは反対の東側に開けた松本市街を浅間温泉行の電車が走っていた。
温泉行電車の撮影は、こんな登山客を除けば早朝でひと気のない松本駅前からスタートした。

陽が出てからの浅間線の紹介は「松本電気鉄道 浅間線」 にあります。

始発前の浅間線松本駅  1963.7.20
まだ薄暗い国鉄松本駅の片隅に、うす汚れた2両の木造電車が休んでいた.
ひと気のない駅と電車はまるで廃線後のようであった.

早朝のひと気のない松本駅前で登山客を満載したバスだけは賑わっていた.
やがて朝の1番電車が発車しガタゴトと松本駅前に出てきた.

早朝で車や人は少なく、静まりかえった松本の大通りを行く電車.

電車の脇を松本駅へ向かうボンネットバスが連なっている.

学校前の急カーブを曲がり未舗装の併用軌道を行く.

併用軌道から専用軌道区間へ入ると、家並みの間をくねくね曲がって走る.学校前-清水

2013年2月11日月曜日

北勢線 西桑名駅風景

三重電気鉄道(旧三重交通) 北勢線は近鉄に合併し、その後、三岐鉄道の北勢線となって近代化軽便として今も走っている事は良く知られている。訪問した1965(昭40)年は近鉄と合併した年で、近鉄化直後で北勢線西桑名駅は車両やカラーリングに三重交通時代の面影を残していた。
近鉄化直後の北勢線は車体色が三重交通色(緑と肌色のツートンカラー)から近鉄色(ブドウ色一色)へ変更されている過渡期であった。
現在の北勢線の風景はKumaさんの「北勢地方のナロー達」に紹介されています。


美しいツートンカラーに塗られた3車体連接車 モ200形202 西桑名 1965.08.05
この後マルーン一色となり電装解除となる.

真夏の西桑名駅 モ224

同じ電車でも2種類のカラーリングが登場した. モ227

阿下喜駅に隣接した鉄道博物館に近鉄色で保存されているモ226.

西桑名駅ホームの脇にある車庫に休む車両達. 
この頃はまだ三重交通時代のツートンカラーが多かった.


モ226

サ135

3車体連接車 モ200形に準じた仕様のサ140形146

サ150形156

ワフの車体も「近畿日本鉄道」に書き換えられている.

2013年2月8日金曜日

小型電車がいる車庫風景

先月、居酒屋鉄談議でChitetsuさんに初めてお会いし例の小型電車の模型を拝見させてもらいました。
単なる自由型ではなく実物観察に基づいた心象鉄道での自由型と、その仕上がりの素晴らしさにただ々驚くばかり。この直後、この小型電車がいる車庫風景がChitetsuさんブログにアップされました。

1月26日のブログ 電車庫モジュールの製作(34)を見て素晴らしい車庫風景にまた唸る。この連載34回の記事には各地の車庫現場が無数に紹介され、いかに実物観察に基づいた車庫風景であるかがよく分かります。

電車庫のアクセサリーとして製作された驚きの小型電車.2013年1月


楽しさ一杯の電車庫風景、私も何点か実物風景を並べてみました.
朝日を浴びた電車庫と小型電車. 日の丸自動車・法勝寺電鉄 米子 1962.07.31
ジヤッキアッアして馬に載せられた車体から片方の小さな台車が外されている。

都電の電車庫. 目黒車庫 1967.12.03
小型車1000、1100形が配置された車庫

島の電車庫. 淡路交通宇山車庫   1965.08.02
 モハ1005が仮台車に載せられて、外された台車DT10がバラバラに分解されている.

所狭しと並べられたモハ1005の台車DT10のパーツ.

電車庫風景. 南海貴志川線 伊太祈曽車庫.1965.08.04
庫内では点検作業中で奥に改装中らしい2両がいる。

車庫裏の風景. 遠州鉄道二俣線 西ヶ崎車庫  1964.3.25
車庫裏には小さな塗装小屋? とその奥に使われなくなった小型電車や台車がぞろぞろと.