案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2014年12月30日火曜日

鹿島鉄道 廃線跡

今年12月に撮影された鹿島鉄道廃線跡の写真(トミオカさん撮影)を眺めていると、07年春までこの風景を走っていた鹿島鉄道が思い出されます。昔の面影残す廃線跡に現役時代の風景を対比してみました。
廃線跡撮影:トミオカさん
玉造町の先の踏切跡 2014年12月

踏切の先に玉造町の交換駅があった 2007年春

大きな木立に囲まれた静かな玉造町駅 2007年春

玉造町から榎本へ向かう土手の廃線跡 2014年12月
2007年に玉造町駅からこの並走路に出るまで迷い迷って遠回りし情けない思いをしたが、玉造町から鉾田までは車利用でないと沿線歩きはまず困難の区間であった。

借宿前駅の跡
借宿前駅 2007年春

鉾田駅の廃線跡
現役時代の鉾田駅 2007年春

鉾田駅ホームの跡


現役時代の鉾田駅

2014年12月27日土曜日

鹿島鉄道 週刊誌広告付き気動車キハ714

鹿島鉄道が消えてまもなく8年になる。昨年10月に鹿島鉄道「気になったキハ714」で取り上げた元夕張鉄道の気動車、大きな週刊誌広告付であまり注目されなかった車両だが改めて見るとほんとうに美しい。画像を追加して美しいキハ714を大きめの画像でアップしてみます。2007年に撮ったカメラ撮像素子はすべてコンデジサイズです。

石岡駅の今 2014年12月  撮影:トミオカさん 使用許可済 
facebookのこの1枚から在りし日の鹿島鉄道が思い起される。鹿島鉄道石岡駅の跡地はこれから工事が始まりだだっ広い駅前ロータリーになるのでしょう。

石岡 2007.03.08
バス窓で屋根が銀色に塗られたキハ714  側面の週刊誌広告で随分損をしていた.

石岡 2007.03.08
常磐線のホームの向こうに「鹿島鉄道のりば」があり、構内にはいつも週刊誌広告のキハ714が停車していた.味わい深いホームの屋根がうねっている.
石岡構内でいつもここに休んでいたキハ714. 2007.03.08
側面の週刊誌広告『週刊の怪物Gallop』とは産経新聞社の競馬週刊誌のことであった.

梅が咲き始める頃 八木薪を行くキハ714. 浜 - 八木薪 2007.03.28

霞ヶ浦湖畔を行くキハ714.廃線間際はよく出動していた.     2007.03.28


のどかな沿線、霞ヶ浦湖畔のいばらき風情
鹿島鉄道の魅力は車両と沿線のいばらき風情にあった.
廃線間近の春のいばらき風情が忘れられない.


キハ600+キハ714  2007.03.31 榎本 - 玉造町

キハ714 最終日の走り. 榎本 - 玉造町  2007.03.31

お別れの日、榎本駅のキハ714

湘南型二枚窓の美しい顔  鉾田

最終日の夜20:30には石岡にいたキハ714.    2007.03.31
深夜に常陸小川へ移動し二度と石岡に戻ることはなかった.

2014年12月14日日曜日

貴志川線 伊太祈曽

この1ヶ月間でよく読まれている小ブログのアクセス・ランキングで、2011年8月にアップした過去記事「貴志川線 伊太祈曽の車庫」が直近記事を抜いてトップでした。
伊太祈曽という奇妙な駅名、そして愉快なガソリンカー崩れの電車など、気になる伊太祈曽駅に惹かれて更に未公開画像を集めてみました。

真夏の陽がガンガン照る交換駅伊太祈曽にやってくる電車はどれもこれも何と奇抜なことか。電車を撮るだけでも楽しい鉄道で飽きることがなかった。どう見ても電車なのに過去をたどれば元ガソリンカーばかり、まともな電車は元阪急くらいか。

真夏の伊太祈曽 モハ202  1965.08.04

元江若のモハ206は押しつぶされたような?電車で、元ガソとはとても思えない.

気品ある元阪急のクハ804

元片上のクハ803  こんなタマゴ型デッキ付が電車であるのが愉快.

モハ201+クハ803 こんな電車の風景はすべてが絵になる.


   ↓ラベルの貴志川線をクリック戴くと貴志川線全記事がつながります。

2014年12月12日金曜日

40年前の高岡の1号機

先日アップした加越能鉄道高岡駅前、この日の目的は仕事でフォークリフトのユーザ納入立合いでした。

全く鉄道とは縁のない話で恐縮ですが、昔から産業車両 (Industrial Vehicle) と言えばフォークリフトで国内の産業車両協会の生産台数統計のほとんどはフォークリフトです。

アルミ建材を運ぶこの特殊フォークリフトは、入社し初めて全体設計から開発した私にとって記念すべき量産第一号機でした。48V電池を電源としサイリスタチョッパコントローラで直流モータを制御する電装品はまるで模型の電車のようでした。その後、フォークリフトもあっという間にDCトランジスタチョッパからACコントローラ/ACモータへと発展し隔世の感があります。
私のフォークリフト開発は電動車一筋で、エンジン式は全く手がけなかったのは鉄道模型の電動式駆動の面白さを引きずっていたのかも知れません。設計→試作→量産までの苦労と初めてユーザ納入した時の喜びは格別で今でも忘れられません。
訂正: 抵抗式コントローラがあったのはこの直前まででした。

40年前の高岡の1号機 1975.08.05

2014年11月27日木曜日

世田谷区喜多見 闇夜の電波塔

今も世田谷弦巻に住む友人と昔の世田谷の夜は真っ暗だったとの話から思い出したことがある。喜多見の世田谷通りから成城の山(国分寺崖線)にかけて夜になると真っ暗闇であった。道路を走るクルマの灯りも滅多になく街頭もない、点在する家々はまだ蛍光灯ではなく白熱燈だった、テレビもまだ無い昭和25年頃だったと思われる。

喜多見は世田谷の外れで人家も少なかった。喜多見から成城の山(国分寺崖線)にかけて闇夜の中に一際目についたのが山の上のNHK砧放送技術研究所の電波塔の灯りであった。夜道を歩いていると電波塔の先が赤く点滅するのがよい目印になった。近くの工場の浴場を銭湯代わりに使わせてもらっていた時代で、風呂上がりの帰り道、闇夜の中に眺めた電波塔の赤い灯が今も鮮明に記憶に残っている。
この電波塔で1951(昭和26)年からテレビの試験放送が開始されたそうである。

昭和28年の喜多見駅前.踏切を渡って直進すると世田谷通りに出る.世田谷の外れで狛江町と隣接している。

昭和28年の喜多見駅. 狛江市吉原様所蔵

上の写真の10年後も変わってなく、うっそうとした喜多見の木立と成城の山.成城 - 喜多見 1962(昭和37)年12月

2014年11月23日日曜日

世田谷区弦巻 昭和30年代

バス停「弦巻3丁目」桜新町から弦巻営業所へ向かうバス. ボンネットバス、非舗装路、コンクリート製ゴミ箱、まばらな住宅が時代を象徴する。

世田谷区弦巻。
昭和37から昭和41年にかけて鉄仲間と地方私鉄訪問の旅プランを練るのに集まったたまり場、それがこの写真のバス停を降りたところのお宅であった。この写真が撮影されたのはおそらく昭和30年代前半と思われる。

この交差点から少し離れたところに当時から住む友人(非鉄)が懐かしいバス停「弦巻3丁目」の写真を持っているというので当時の生活風景の写真含めて提供いただいた。

世田谷もまだのどかでバス通りから少し入ると畑が広がり空が広い。
こんな東京の風景も地方の風景も同じようで日本中どこも長閑な時代であった。

さんさんと陽を浴びて洗濯物を干す先に畑が広がる

風呂場の煙突の先にバス道路沿いに建つ平屋の住宅.遠くに駒沢給水塔が見える.風呂付の1軒家はまだ贅沢な時代だったのでしょう

正月に羽根つきで遊ぶ.周辺には竹やぶや畑が拡がる


弦巻3丁目の看板にあった「眞中パン」の話題。
世田谷で子供の頃を過ごした人にとって「眞中パン」は紅梅キャラメルと同じような子供時代の懐かしい存在ではないでしょうか。
聞いた話によると、小さなパン屋だった眞中パンが用賀に大きなパン工場(パン屋さん組合?)を建て、事業拡大したが10年持たずに消えたそうで、存在したのは紅梅キャラメルと同様に僅かな期間だったようです。

用賀に建てた大きなパン工場とは馬事公苑と大山街道の間にあった旧陸軍衛生材料廠跡地(後の厚生省東京衛生試験所)の脇にあったそうです。

2014年11月19日水曜日

加越能鉄道 高岡駅前

先日のChitetsuさん(吊り掛け電車をもとめて)の加越能モノクロ写真に刺激されて、私もネガを探してみました。昭和50年、もう鉄撮りは止めていた頃で高岡のアルミ建材メーカへ何回か出張した時に何故かカメラを向けたものです。昭和50年頃から鉄道を撮らない時代が約30年も続き惜しいことをしました。

高岡の駅前通り 1975.08.05
七夕シーズンでにぎやかな七夕飾りと路面電車のカラーリングに全く関心が向かなかったが、40年という時間の経過があの頃の風景を貴重に感じさせてくれる。

国鉄高岡駅前の加越能鉄道電車のりば


傾いた写真を修正しようと思っていたら電車が右に傾いているせいであった.

2014年11月13日木曜日

西武 所沢駅

西武国分寺線(国分寺~東村山)では東村山から新宿線に入り国分寺~本川越間の直通運転が1時間に1往復走っている(いた?)。この直通運転のN101系を追いかけた頃に撮った所沢駅を見ると今ではすっかり新装なった所沢駅の昔が懐かしい。

写真の左手に改札口があり、その奥の古い跨線橋まで昼でも暗いホームであった。N101系が停車していると地方私鉄を感じさせる風景で、暗い灯りの下の店舗はまるで地方駅の名産店のようであった。

国分寺線の本川越発国分寺行き 所沢駅新宿線2番ホーム  2009.06.22


2013年6月に完成した所沢駅改良工事で橋上駅舎となった現在の所沢駅 2014年8月
左手にあった地上の改札口が無くなり全てが一新した。何ともないあたり前の駅風景がこうして一つひとつ消えていく。

2014年11月9日日曜日

お知らせ Bloggerのトラブル

昨日は丸一日Googleの日本ブログがすべて開けない状態だったようでご迷惑おかけしました。

GoogleのBloggerサービスで障害が発生し、日本からブログページを閲覧できない状況になっていたようです。本日朝一にはほぼ回復したようで、やれやれホッとしました。
ご迷惑をおかけしました。

2014年11月2日日曜日

オリンパスペンSで撮ったお気に入り 1

私がオリンパスペンSを使い始めたのは昭和38年春で、昭和42年春には撮ったネガが終わっていて、ペンが使われたのはたった4年間だけであった。この4年間は東京オリンピック開催(昭和39年)を挟んで昭和30年代の雰囲気をまだ色濃く残していた時代であった。すでにアップ済みですが私のお気に入りを何枚かアップしてみます。

東急多摩川線 玉電瀬田  1965.7.27
この時代のこの駅前を舞台にした小説「夜間急行」が昨年末に出版された.

江ノ電 腰越 1963.4.28
子供時代が思い出される遊びの時間.この男の子の刈あげ頭が子供らしい.

奥山線 祝田  1964.3.23
埃まみれ未舗装路を遠鉄バスが並行して走っていた.


奥山線 奥山駅の見送り  1963.4.4
桜満開の奥山駅はこの数日後の桜散る頃に廃線で消滅した.

2014年10月29日水曜日

宮本常一と写真

ブログでしばらく「オリンパスペンSで撮った・・」を続けたのは、ネコパブ「国鉄時代」で毎号グラビアを飾っている国鉄SL情景の堀越庸夫さんから紹介された一冊の本「宮本常一と写真」石川直樹著がきっかけでした。

民族学者であり写真家でもあった宮本常一(1907~1981年)は昭和20~40年代の日本を10万枚くらい撮ったそうで、最も長く愛用したカメラがオリンパスペンSで、この本にはオリンパスペン発売後の昭和30年代後半の日本の情景が多数収められています。
「芸術写真は撮るな、読める写真を撮れ」が口癖で芸術的、主観的な写真を否定し組写真などはなく1情景1カット。上手い写真を撮ってやろうと意識しない。民俗学的写真を目指した宮本常一の作品は土門拳のような作品とは異なり、優しく温かみがあり、ほのぼのとした懐かしさを感じる日本の本当のスナップ写真なのでしょう。

なぜオリンパスペンSが宮本常一が狙う写真に最適であったかの記述には大変興味深いものがあります。
昭和30年代の鉄道を彼のような狙いで撮っていたら、時代や生活が読める鉄道風景に目が釘づけになる事でしょう。コンクール受けするような自己主張のある上手い写真を撮りたいのは誰しも考えること。これはこれとして宮本常一のような撮り方で鉄道を撮ってみると別の世界があるのではないでしょうか。

昭和30年代後半、私もオリンパスペンSを使いましたが写っていた大半は車両ばかり。今思えば35mm判カメラには写っていなかった車両の周りの光景にこそ価値があり、そんな記録にオリンパスペンSは最適だったのでしょう。民俗学者が撮った読める写真、そのインパクトは鉄道写真でもあてはまるでしょう。 (敬称略)

平凡社 2014年8月発行

宮本常一と愛用のオリンパスペン

昭和39年の奥羽本線大曲駅の行商の人たちと赤帽さん.
このような駅風景の写真からは数多くの事が読み取れる.