案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年6月28日日曜日

日光軌道線 トロリーフレイト

先日、日光軌道線は一旦終了のつもりでしたが、その後青蛙さんから貴重な画像の追加提供があり、貨物輸送で活躍した車両の紹介(画像)をしてみます。鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり第3分冊」に日光軌道線のトロリーフレイトや貨物輸送の詳細が書かれています。



小林茂氏が書かれたこの記事によると、本格電機+国鉄貨車の直通車扱いに対し、貨物積換え中継の貨物輸送をやったL形電動貨車+付随貨車のことをトロリーフレイトと言っている。
日光軌道線の貨物は清滝の日光精銅所の貨物輸送であり、昭和19年の国鉄貨車直通乗入まではトロリーフレイトが主力であった。
L型単端式の電動貨車は大正8年製テト30形30~39と昭和18年増備のテト40形40~48があり、いずれもL形電動貨車+付随貨車の組合わせで、これがカーブ緩和工事前の軌道線急カーブを走っていたのでしょう。

戦後は国鉄日光駅構内にある古河の倉庫、貯炭場、油槽と工場間の小輸送に仕業し、日光駅ではループで、清滝では三角線で方向転換している。最近は自動車輸送に切り替えて、貨物輸送は直通扱貨物だけに限られ、積換中継のトロリーフレイトは残念ながら廃止され、テト40の1組を残して全車廃止となってしまった。
という記載があり、記事が書かれたのが昭和37年、この少し前昭和30年頃まではトロリーフレイトも走っていたと想像される。

小さなL形電動貨車+付随貨車(ボギー)1両が日光駅前ループ線や神橋の急カーブを走っている光景を想像すると実に楽しくなってくる。

 撮影:全て青蛙さん 1963.07.14 

トロリーフレイトの主力だったテト40形L形電動貨車.  清滝電車区
テト40 1両だけが事業用に残されていた.

古河電工精銅所には工場内搬送用に2両のL電がいたのでその2両でしょう。1963.07.14
よく見るとこの場所は国鉄日光駅。 役目を終えたこの2両はそれまでここで作業していたのか?
古河鉱業(1989年に古河機械金属に社名変更)、古河電気工業(1920年に古河鉱業を母体に設立)

貨車を電装化しただけの感じ.背後の築堤は東武本線


以下は本格電機

昭和30年まで活躍したED602.ロッド駆動のサイドビューが魅力的. 清滝電車区

片側に運転台無しはこの電機のゲテモノぶりのハイライト.
後進で日光駅に戻る時はこのステップに案内人が乗って下ってくる.

運転台側も異様な顔をしている.

廃線まで活躍したED611+国鉄貨車

清滝の駅と古河電工


参考:鉄道ピクトリアル増刊 「私鉄車両めぐり第3分冊」1962年 

2015年6月24日水曜日

北陸本線の電気式ディーゼル機関車 海坊主

昭和30年代後半の私鉄めぐりの旅では、さんざん利用した国鉄車両を私は殆ど撮らなかった。
蒸機から交代したDF50などは嫌われ者で特に撮らなかった。しかし今になってみると一時代の箱型電気式ディーゼル機関車はDF50でさえ魅力を感じてしまう。
ところで6両製造されたDD50はこの頃北陸本線で見ることができた。これはDF50よりずっと魅力的で、特にこの海坊主は昔の鉄道誌でも強く印象に残っている。今回も故田辺多知夫さん撮影の写真をアップしてみます。

撮影:田辺多知夫氏

DD50・3  1次型の海坊主  金沢  1963.07.12
DD50はこの海坊主の外観が強く印象に残る.
この数か月前1963年4月に金沢~福井間が交流電化された. 

DD50・6  2次型   金沢  1963.07.12
2次型では外観イメージの向上が図られ海坊主独特の重厚感はなくなった.

DD50・3 海坊主  倶利伽羅   1963.07.12


DF50 541 富山  1963.07.12
この翌年1964年8月に富山~金沢間が交流電化された.

DF50 510  石動   1963.07.12

2015年6月22日月曜日

日光軌道線 国鉄駅前のループ線

1964(昭和39)年に廃止された国鉄日光駅前のループ線。軌道線ならではの急カーブで駅前に敷き回されたループ線は軽便鉄道の線路のような楽しさがあり気になるところ。青蛙、田辺両氏が撮った写真とループ線図とをつけ合わせてみました。

東京オリンピックが開催された昭和39年、観光都市日光の表玄関に古びた路面電車がたむろしていたのではみっともないが廃止理由の一つだったようです。今だったら日光にふさわしい光景になるのですが。
東武日光駅前の軌道線「のりば」の方はどこから乗っていたのか時代とともに変化したようです。
そして超急カーブの軌道線に国鉄貨車が入ってくる貨物線をうまく配置させたものですね。

国鉄日光駅前のループ線. はおおよその撮影位置を示す

撮影  A 青蛙氏   T 田辺氏

 1963年7月 A
東武日光の駅の脇に軌道線ホームがあり貨物線につながる.右手軌道がループ線につながる.

 1967年12月 T
東武日光駅脇の軌道線のりば

③ 1963年7月  A
日光業務部建屋の先にある留置線(旧車庫).背後に歓迎日光のアーチが見える.

 1968年2月  A
東武日光駅の先を国鉄日光駅に延びる貨物線(左手)とループ線(右手)

➄ 1963年7月  A
国鉄日光駅前.写真の感じと違って軌道と駅舎の間にはかなりスペースがある.

  1964年7月  T
国鉄日光駅前.歓迎日光市のアーチがある道路を直進すると東武日光駅に出る.

 1964年7月  T
国鉄日光駅前を発車した電車は商店の片隅を縫って東武日光駅に向かう.

1967年12月  T
かっては日光駅前で軌道線に乗れば素晴らしき山岳路面電車の世界に引きずり込んでくれた。小学生時代に初の修学旅行でこの軌道線に乗った子供達にどんな思い出が残されたでしょうか。昭和30年頃に「いろは坂」が改修され私の時代の修学旅行は上までバス利用だったようでたいした思い出も残っていない。

2015年6月16日火曜日

日光軌道線 山岳電機 町中を行く

日光軌道線の貨物輸送は国鉄日光駅から国鉄貨車をそのまま清滝にある古河電工まで運び、日光駅での積み替えなしで輸送されていた。昭和22年に山岳電機ED600形(元国鉄アプトED40形)2両が導入されたが、元アプト式のため運転台が片方しかなく貨車の最後部に連結してプッシュ登坂し、帰りは機関車の背中側を先頭に坂を降りてくる。こんな異様な光景はさぞや見ごたえがあったことだろう。

昭和30年に新鋭の山岳電機ED611が導入され、登り下りとも機関車が先頭について牽引するまともな列車編成となり貨物輸送の効率化が図られた。

日光軌道線は馬返までの9.6Kmは平均32‰、最大60‰と勾配につぐ勾配で、東武日光駅を出るとすぐに神橋まで最大で58‰の急勾配を登る。電車も凄いが、新旧の山岳電機もよくこんな急勾配の併用軌道を登坂したものである。路面電車のきついカーブ(改修はしてあるが)や軌道(レール)のねじれなどで脱輪など起きなかったのだろうか。

  撮影:田辺多知夫氏 1967.12.21

町中を走るED611貨物列車、東武日光駅前を出るといきなり最大で58‰の急勾配を登る

警察署前で交換

写真をよく見るとこの大通りがいかに急坂であったかが分かる.
この区間の勾配は最大で58‰

参考:鉄道ピクトリアル増刊 「私鉄車両めぐり第3分冊」1962年 

2015年6月15日月曜日

日光軌道線 1枚の写真から2 

青蛙さんから興味深い1枚の写真の提供がありました。

東武日光駅に佇むED602(元国鉄アプトED40形)
   1968年2月  撮影:青蛙氏

手前の日光軌道線から1本の線路が東武日光線へ向かい、そこから国鉄日光線を越えて国鉄駅貨物駅へと繋がっていた。時は1968年2月、1枚の写真からいろいろなことが読み取れます。

軌道線日光駅の貨物線とループのイメージ図.鉄道ピクトリアル誌 1962年

2015年6月13日土曜日

日光軌道線 山岳電機


古河電工から下ってきた山岳電機ED611の列車が神橋脇の大谷川橋梁を渡る.
1967.12.21  撮影:田辺氏
ED600形(元国鉄アプトED40形)貨物列車が推進で渡る高橋弘氏の写真で有名な名所
1955年、2両のED600形は新造機ED611に交代となった.


山岳電機ED602(元国鉄ED40形) 清滝電車区 1963.07.14   撮影 青蛙氏

参考:鉄道ピクトリアル増刊 「私鉄車両めぐり第3分冊」1962年 

2015年6月10日水曜日

日光軌道線 1枚の写真から1

2013年7月にアップしました山岳路面電車5にあった1枚の写真↓(上)についてkakさんからコメントを戴きました。この廃線跡は下河原駅から公会堂駅へ向かっていた旧線の跡ではないかと。
確かに左手の川の土手、軌道線のカーブ、背後の山並み、遠くに見える木立や大きな三角屋根の建屋などが写真↓(下)下河原の風景と似ているところがいろいろあります。ここは下河原にあった旧線の跡かもしれません、そうだとすると2枚の写真と見比べ4年半であまりにも変わった風景に驚かされます。

工場が遠くに見える廃線跡のレール  1963.7.14   撮影:青蛙氏

廃線間近の下河原駅    1967.12.21  撮影:田辺氏
下河原駅全体

2015年6月7日日曜日

豊橋市内線 単車王国

昭和38年の豊橋市内線の写真を改めて見ると単車ばかりで、ボギー車は三重の神都線からやってきた600形の3両が唯一であった。主力は名古屋市電から大量に入線した500形単車であったが、それ以外にも200、400形の単車が活躍していた。
戦災復興の都市計画でできた堂々たる広さの道路を小さな路面電車が走り、クルマはまだ少なく道路がとても殺風景に見えたものだった。今や各地で路面電車が見直されているが、豊橋市は戦後すぐに路面電車を活かした街づくりがされていた。

全て1963.04.04  

駅前から直進し新川の交差点を左に曲がる主力500形の単車.元名古屋市電
唯一のボギー車であった600形.新川
2年前(S36年)に廃線となった三重交通神都線からやってきた.

 昭和51年に廃止された柳生橋支線(新川~柳生橋)を500形が広大な道路を行く.

豊橋駅前へ向かう500形.第三相互銀行のビルは今も第三銀行として残っている.

旭川市街軌道より4両購入した200形.

400形(402) 下一之色電車軌道→名古屋市電→豊橋鉄道

うす暗い早朝の豊橋駅前で赤岩口方面のりばの400形(402)

400形(403)豊橋駅前
200形(201)
500形 豊橋駅前から更に市民病院前まで線路があった.

元神都線の美しいボギー車600形

2015年6月1日月曜日

豊橋鉄道 渥美線の車両3

以前「渥美線の車両1、2」を紹介をしたことがありますが、引き続き「渥美線の車両3」で電機やその他の車両を紹介します。渥美線で初めてオリンパスペンSを使い始め、ここに登場する脇役達の殆どはオリンパスペンのハーフサイズフィルムで撮ったものです。

何の変哲もない渥美線だが昭和38年に訪問した時は魅力あふれる車両がまだ活躍していた。元ガソリンカーの制御客車化がごろごろしていて木造電車もまだ走っていた。そして電機もいろんなタイプがいて木造車体の電機までいた。愉快な車両達はこの後一気に淘汰されてしまったのでしょう。

全て1963.04.04  高師にて

朝の高師駅. 元神中鉄道ガソリンカーを改装したク1500形など凄いのが走っていた.
通勤時間帯に次々やってくる電車のバリエーションが豊富なこと.

高師車庫の全景.  今では周辺もすっかり変貌していることでしょう.



いかにもあり合わせの部品で作ったようなこんな電機がいた.デキ851

 名鉄自社工場製のデキ851はなんと木造車体の電機で木目が見える

渥美電鉄より引き継がれたデキ151  木南車両製の南海タイプ

デキ151のブリル27-E

デキ1001 西武所沢工場製

渥美電鉄創業当時の電動客車を貨車に改造した デワ33

デワ31  どこの地方私鉄でもこんな電動貨車をよく見掛けた.

元ガソリンカー ク2280形車内  当時の車内広告が興味深い

元三河鉄道のキハ150で制御車に改装された魅力溢れるク2280形

通勤時間帯に活躍していたク2280形(2281)
元ガソリンカーがすっかり電車に馴染んでいる.
木造車と組んだク2280形(2283)

名鉄谷汲線からやってきたモ120形(129)の車体

モ120形(120) この4年前までこんな車体にパンタを載せた2軸電車の姿があった.
走っている姿を想像するだけで楽しくなってくる.