案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年6月28日金曜日

電鉄上田駅の魅力

上田丸子電鉄真田傍陽線が発着していた電鉄上田駅。
そこには車両といい駅といい素晴らしい風景があった。
夏休みにこんな信州の小鉄道の魅力を訪ねることは
今はもうない。


撮影:1970.8.15
ホームに入ってきたのは真田行きの電車モハニ4250形。乗客が乗り込んで発車を待っている
荷物合造車モハニ4250形は開業時からの古参電車で4両も揃っていた。 
左に停車しているのはモハ4256(元鶴見臨港)。   電鉄上田 

左側のスタンドに白い筒がみえ整備用の設備らしいがジャッキにもクレーンにも見えず何かと思っていたところ、Uさんから興味深い写真↓をお借りしました。1970.8.15

台車を外して何かやっています。あれは旋回式クレーンだったのですね。やはりここは単なる車庫ではなくて整備工場であった。撮影:Uさん 1971.9.28


写真集で取上げた夏休みの家族を撮ったのはこの場所だった。



駅の左に隣接している建物は一体何なのか? 車庫線にはピットが見えるのでここで点検などができたのでしょう。いつもパンタが上がっているのは何故とよく聞かれます。1963年7月

2019年6月22日土曜日

旧型気動車 菱枠形台車3題

旧型気動車(実物)の菱枠形台車を古い写真から3タイプ並べてみました。
台車それぞれで寸法は異なるのでしょう、統一は車輪径ぐらいか?

今やNゲージの世界ではこんな旧型台車は番外で私の知らない動力車用ばかり、
そんな中で唯一グリーンマックスに小型の旧形台車が数タイプあり、その中の一つ旧型気動車用No.5019が写真の旧型気動車菱枠形台車にほぼ相当?するようです。

これをNゲージの旧型気動車ではなくて、1/80のナローに使うと軸距と車輪径さえ軽便標準アーチバーに近似であれば満足できるでしょう。何よりNゲージの優れた動的メリットが得られます。
台車にグリーンマックスNo.5019を使った1/80ナロー。

もう一つは猫屋線の客貨車からアーチバー台車をはがして使う手もあり。
車輪はディスプレー用で、アサガオカプラーはIori工房製です。

これが常総筑波鉄道キハ311の動力側台車。 1962年
 キハ311  元国鉄40000 短い気動車。


これが鹿島参宮鉄道竜ヶ崎線のキハ40402の非動力側台車。
キハ40402 1962年


これが倉敷交通局キハ305の動力側台車。
キハ305 水島


tomiiさんからコメント欄に紹介があった豊橋鉄道の高師で撮影された菱枠形台車。
整備工場内の仮台車らしい。

2019年6月21日金曜日

お知らせ

昨日、コメント欄に書込みしましたが鉄道模型趣味(TMS)7月号が発売されました。
この7月号から私の「地方私鉄 失われた情景」シリーズがスタートし、
第1回目は山陽電軌 幡生駅です。
ささやかな2ページ記事ですが内容を練るのに結構時間を掛けています。
しばらく続きますので宜しくお願い致します。

今月号からいよいよ名取編集長色が表れてきました。

2019年6月17日月曜日

土佐電へ行った山陽電軌の電車

コメントにあった土佐電へ行った元山陽電軌の701系をアップしてみます。801系は写真がないので同仕様の811系です。今も現役とか。

唐戸の風景と701 1967.2.27

下関駅前の812

鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第9分冊によれば、昭和33年に701~704、昭和34に801~805がナニワ工機製の同一設計で登場し、その後昭和37年に811、812がこれもナニワ工機製で登場し車体仕様は801系と同様とある。701系、801系、811系とも外観形状寸法は同一である。700形、800形という分け方はしてなく製造時期から系で分けている。 

2019年6月14日金曜日

足摺から高知はりまや橋へ

当時は今と違って足摺岬へ向かう鉄道は国鉄宇和島or土佐佐賀までで、そこから先は高知県交通各線のバスが走っていた。
高知に出るのに足摺岬から土佐佐賀までバスを利用したが4時間ほどかかった。当時、中村線は中村(今の四万十市にある駅)までは開通してなく土佐佐賀までだったが、今では中村を通り宿毛まで開通している。
それしても今の路線名は「土佐くろしお鉄道」とか「四万十くろしおライン」とかで何とも分かりにくい。中村線なら一言で分かるのに。そして四万十市は旧中村市だったとは知らなかった、さらに別のところに四万十町というのもある。

1968年の路線

はりまや橋交差点の賑わい。1968.5.5
はりまや橋交差点は過去何回かアップしてきました。この交差点はどこを撮っても似たような風景になってしまい魅力的ではないですが、今回の画像は初めてアップするものです。

この日も5月晴れでスカットした天候がいかにも南国土佐の感じがしたものだった。
ペギー葉山が唄う「南国土佐を後にして」が大ヒットしたのは1960年頃であった。

桟橋線の四輪単車

コメントにあったデハ101をもう一枚。 高知駅前

高知城と300形4輪単車

2019年6月13日木曜日

足摺岬への道2

足摺岬に到着。こういう絶景は今でも変わっていない事でしょう。



足摺岬の突端にあった看板と旅の相棒。そして背後の観光客。

前日、土佐清水に入る前に散々撮った名所がこの竜串であった。

2019年6月10日月曜日

足摺岬への道1

昭和43年5月の連休に足摺岬を訪問した。
土佐清水の漁港にあった旅館八千代に一泊し、翌朝から徒歩で足摺岬に向かったときに撮ったネガを50年後にスキャンして見ると、今も変わらぬ絶景名所のネガは役立たずだが、宮本常一的の日常風景は楽しい。

撮影日:1968.5.4

五月晴れ


足摺岬教会
googleで今の教会の位置を調べると。

棚田

足摺岬への道を歩く 

間もなく足摺岬に


2019年6月6日木曜日

玉電三軒茶屋の今昔

先日、三軒茶屋で撮った風景と玉電が走っていた頃の三軒茶屋を比較してみました。

1961(S36)年頃 246玉川通り拡張工事が開始
1964(S39)年10月 東京オリンピック開催
1969(S44)年 玉電の廃止
1971(S46)年 246号の上に首都高3号渋谷線が開通
1977(S52)年 新玉川線(現田園都市線)が開通

写真下は有名な三軒茶屋の分岐点で電車は下高井戸方面と二子玉川園方面に分かれるところ。街の風景はすっかり変わってしまい、来るたびに分からなかった玉電三軒茶屋の駅の位置を今回はなんとか確認できたようだ。それにしても道路が入り組んでいて街のゴチャゴチャした下町感は今も昔も変わらないようだ。

オリンピックまであと1年半、246玉川通りはまだ未拡張で狭い。 1963年4月

 246号玉川通りの拡張もオリンピックも終わった玉電最後の頃。 1969年4月
下高井戸行きは246号玉川通りから世田谷道路に入る。

 246玉川通りの上を行く首都高3号は東京オリンピック開催後の1971年に完成して現在に至る。 2019年6月

世田谷通りの併用軌道からカーブしてすぐ専用軌道に入る。その入口に三軒茶屋の駅があった。かなりの角度で世田谷通りから離れる。上り渋谷行ホームの背後に「すずらん通り」が見える。  1969年4月

 今の三軒茶屋で昔の駅の位置を探る目印は今も残る昔ながらの「すずらん通り」くらいのようだ。その入り口に交番があり、このあたりが渋谷行きホームと思われる。

この交番と脇のスペースにあった軌道は直進してからSカーブして今の駅付近に向っていたのでしょう。まさにここが玉電三軒茶屋の駅があったところと思われる

二子玉川園方面に向かって撮った現在。

渋谷方面に向かって撮った二子玉川園行の三軒茶屋電停。 1969年4月
上の三軒茶屋電停がこの辺りでしょう。2019年8月

現在の世田谷線三軒茶屋のりば  2019年6月