案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年6月14日金曜日

足摺から高知はりまや橋へ

当時は今と違って足摺岬へ向かう鉄道は国鉄宇和島or土佐佐賀までで、そこから先は高知県交通各線のバスが走っていた。
高知に出るのに足摺岬から土佐佐賀までバスを利用したが4時間ほどかかった。当時、中村線は中村(今の四万十市にある駅)までは開通してなく土佐佐賀までだったが、今では中村を通り宿毛まで開通している。
それしても今の路線名は「土佐くろしお鉄道」とか「四万十くろしおライン」とかで何とも分かりにくい。中村線なら一言で分かるのに。そして四万十市は旧中村市だったとは知らなかった、さらに別のところに四万十町というのもある。

1968年の路線

はりまや橋交差点の賑わい。1968.5.5
はりまや橋交差点は過去何回かアップしてきました。この交差点はどこを撮っても似たような風景になってしまい魅力的ではないですが、今回の画像は初めてアップするものです。

この日も5月晴れでスカットした天候がいかにも南国土佐の感じがしたものだった。
ペギー葉山が唄う「南国土佐を後にして」が大ヒットしたのは1960年頃であった。

桟橋線の四輪単車

コメントにあったデハ101をもう一枚。 高知駅前

高知城と300形4輪単車

13 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

旧塗装のとでん、いいですね。
2カット目は、旧琴平参宮からの移籍車で、台車に目が行きます。
バックの建物は昨年行った時と同じです!

katsu さんのコメント...

Cedarさん
写真のデハ101の元は琴平参宮電鉄のあの角ばった路面電車デハ60形でしたか。
つまらない電車と思っていましたが元琴平参宮でがぜん関心が湧いてきました。
琴平参宮から3両が土佐電に行ったとは知りませんでした。
真っ平な正面の平妻に琴平参宮の面影を残していますね。
この交差点はあまりにも建物が変わっていなくて今昔で見ると面白味はありません。

にぶろく さんのコメント...

この時代の高知であれば
魚梁瀬森林鉄道に行ってみたいです。

katsu さんのコメント...

にぶろくさん
今のネット時代なら高知といえば魚梁瀬森林鉄道が浮かびますね。
当時、私の魚梁瀬の知識はシェイが走った規模が大きい森林鉄道が四国にあった程度でした。
そして魚梁瀬森林鉄道の存続(1964年頃廃止)すら知りませんでした。
この時代に魚梁瀬へ行ったとしても廃線後で湖底に沈んでいたかもしれません。

にぶろく さんのコメント...

おっしゃる通りですね。
ネットのない時代に時刻表に載っていない
特殊軌道の存在を知るのは大変だったのを
思い出しました。
でも、それがナローの醍醐味でもあるのですが。
68年でも遅かったですか。。。

katsu さんのコメント...

にぶろくさん、
森林鉄道でこんなこともありました。
1966年に鉄道友の会で大井川鉄道川根両国の車両基地を訪問した時に、
その脇に千頭森林鉄道が走って来たのに誰も気付かず追いかける人もいませんでした。
それくらい森林鉄道の情報がなかった、関心も薄かった時代だったと思います。
木曽森林鉄道が多くの人に注目されたのも1970年代に入ってからだったと思います。

にぶろく さんのコメント...

千頭森林鉄道の記事は
このブログの大人気コンテンツですよね。

何と贅沢で羨ましい時代なんでしょう。。。
情報が無かったのは仕方がないとして
千頭~川根両国の3線軌道をスルーするなんて
もったいない限り。
私なら千頭森林鉄道>大井川鉄道なのですが、
友の会の面々が私鉄ファンだったとすれば
森林鉄道に食指が動かなかったのは
理解できます。
でも井川線の車両も森林鉄道と大差ない気がします(笑)

ねこあたま さんのコメント...

まだ安芸発の急行や準急があった時代でしょうか?

中村まで開通した時代でも土佐清水は遠かったですね。
高知から宇和島方面に抜けるとき、鉄道の人は予土線経由が普通でしょうが
宿毛経由で海岸沿いのバスもなかなか趣もあります。

大昔伊豆半島の西側に西武が線路を引っ張ろうと計画したことが
あったそうですが、南予も同じ雰囲気なので伊豆半島西側同様
宇和島-宿毛間が出来なかったのも仕方がありませんね。

宿毛からのフェリーもなくなったのでますますどん詰まり感が高くなりました、

伊豆之国 さんのコメント...

「土電」に乗ったのは、もう30年近くも前。はりまや橋界隈で行き交う電車を撮ったことははっきり記憶しており、北欧から来た電車も運行されていたのを見ているのですが、今は既に運用から退いているのでしょうか。山陽電軌(下関)から来た車両も見ているのですが、こちらも今はどうなったのでしょうか。
それはともかく、最近の写真を見ると、車両はその頃からそれほど入れ替わっていないように思えるのは、やはり地方私鉄に共通する厳しい経営環境から来ているのでしょうか。高知県も人口減少が激しく、高知市も既に減少傾向に入っているようです。
四万十市は、昨年熊谷に抜き返されるまで「日本一暑い町」だったことがありましたが、なぜ「暑い」のか、その理由が「内陸部の盆地で、風が弱く熱気がこもりやすい地形」だと言うのを、ネット記事で見たことがありました。

katsu さんのコメント...

ねこあたまさん
この時代の市内線には安芸線乗入の安芸行急行が走っていました。
2連でそれはダイナミックな路面電車でした。
現在の鉄道路線図みても確かに土佐清水は遠い地の感じがします。
昔と違うのは宇和島-宿毛間もそうですが道路がよくなって
今では快適なバス移動ができるのではないでしょうか。

katsu さんのコメント...

伊豆乃国さん
土佐電は昔の車両を大事に使っているようですね。
路面電車は高速走行する訳ではないのでメンテナンス次第で永く稼働できるのでしょう。
電車も時代に合わせてかなり手が加えられていると思います。
山陽電軌から2形式が土佐電へ行っているのでしたか。
移籍はこの写真のあとの時代で今どうなっているかは分かりません。
移籍した2形式は山陽電軌で撮りましたが最も近代的でした。
川や市につけた「四万十」の名称変更はそんなに昔のことではなかったのですね。

モハメイドペーパー さんのコメント...

 昭和43年でまだ単車が生きていたんですね。元山陽電軌は700形と800形で、今も健在です。安芸線直通の急行は3連もあったそうです。私も2連のには乗りましたが、鉄道線でも速度は50km/hくらいで、広電宮島線ほどのスピード感はなかったです。

katsu さんのコメント...

モハメイドペーパーさん
ありがとうございます。
元山陽電軌の700と800形は今も健在でしたか。
私が安芸行の急行2連を見たのは軌道区間だけでした。
本日のfacebookでchitetsuさんの土佐電レポートを見て
無性に行きたくなりました。
後免近くは今も魅力的ですね。