案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年3月29日日曜日

熊本電鉄の脇役貨車ヤ

熊本電鉄の愉快な有蓋貨車ヤについて整理してみます。
ヤ1~4とヤ5があって、
ヤ1~4は3'→3'6''改軌時に用意された有蓋貨車。
それと客車ハ31、32が改軌時に用意された客車で、これは軌道線時代の有蓋貨車を客車に改造したもの。
上記の客車ハ31を車体側面の窓やデッキ部分を鋼板で塞いで有蓋貨車とした貴重な1両がヤ5。


撮影:1967.3.6
元から有蓋貨車であったヤ1~4。

ヤ4 上熊本

以下はヤ5で、上記客車を改造したもので有蓋貨車ヤ1~4とは外観が異なる。
鉄板貼った跡がよく分かる。 泗水

 上熊本のヤ5。

 菊池駅のヤ5。

モハ102に牽かれて菊池を発車していくヤ5。


参考:RMライブラリー第25巻 熊本電気鉄道 髙井薫平著 ネコパブリッシング 

2020年3月27日金曜日

熊本電鉄 泗水(しすい)の朝 続編

私の写真集で熊本電鉄の泗水(しすい)の朝を2枚組の写真でとり上げましたが、写真集では取上げなかった写真を追加して並べてみると面白いことが分かります。

撮影:1967.3.6
 菊池発の藤崎宮行上り電車が到着し下車した小学生親子が改札口に向かうと、小学生親子がいなくなったホームに犬が一匹。犬は到着する下り電車の方に顔を向けている。(写真集では使わなかった1枚)

そこへトレーラを牽いた菊池行下り電車がやって来た。

下り電車(左側)の乗客が数人降りると犬も一緒に改札口へ。
ホームにいた犬は下り電車で到着するご主人を待っていたのですね。
二人の男性のどちらかが犬のご主人でしょう。

15メートル級の大柄なモハ102。 昭和19年日立製 

電車に牽かれた奇妙なボギー貨車がとてもよく似合います。

交換列車が発車してまた元の静かな泗水(しすい)の朝に。

藤崎宮前のモハ102

2020年3月21日土曜日

鉄道模型趣味誌の連載記事 第10回

今月発売の鉄道模型趣味(TMS)4月号は土佐電気鉄道の御免町ジャンクションです。
早いもので今月号で連載10回になります。
たった2ページの写真記事ですが毎回詰めの段階でえらい時間が掛かります。
先日もキーポイントになる背後に写る山の名称で、たった名称一言の調査にどれだけ時間を掛けてしまったか。こんな拘りも自己満足に過ぎないのかもしれません。



1969年、御免町駅で軌道線⇒鉄道線への乗入れ風景です。

2020年3月10日火曜日

尾小屋鉄道乗車の思い出

今年2月はじめに小松のある高校同窓会に招かれて尾小屋鉄道の思い出を聞かせてもらいました。私より年上の方の体験であり私が知らない昭和30年前後の尾小屋鉄道です。小学校から高校時代まで尾小屋鉄道とどんな関わりがあったのか思い出を書いてもらいました。

以下は昭和30年頃の尾小屋鉄道を利用された方が書かれた思い出です。

〇小学生時代
私は東京で生まれ、疎開先の福島から、国民学校2年の時に、尾小屋に来ました(昭和23年、1948年)。尾小屋鉱山が活況の時でした。病院や映画館や風呂場があり、床屋、八百屋、魚屋、薬屋などの多くの商店がありました。人口は5,000人とのこと。父は洋服の仕立て業をしていました。家族は父、母、兄弟5人でした。小学校の5年間は学校は尾小屋にあったため尾小屋鉄道には乗りませんでした。そして尾小屋鉱山が閉山(昭和46年、1971年)する少し前の昭和40年(1965年)に我が家は金沢へ引越しました。

〇中学時代に尾小屋鉄道に乗車
中学校は観音下駅を下車し、丘の上にありました。1学級約100名・全学校生300名程の学校でした。観音下駅の後ろの山は採石場となっており、山は直角に削り取られ壮大な景色でした。また駅近くにパン屋さんがあり、よくコッペパンを買って食べた記憶があります。生徒は観音下周辺の村々から来ていました。尾小屋から観音下までの距離は約4kmで約20分弱の乗車でした。スピードは速くはなかったですが、よく揺れました。時々尾小屋鉄道と並行して走った記憶があります。車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つでした。昭和28年から30年(1955年)までの通学でした。

〇高校時代に尾小屋鉄道に乗車
小松の高校に3年間通学しました。昭和31年から33年(1958年)まで。尾小屋から小松までは16.8kmあり、乗車時間は約1時間弱でした。当時はバスなどは走っておらず、尾小屋鉄道が唯一の交通手段でした。尾小屋鉄道のおかげで小松に通うことができ、感謝しています。尚、冬には雪が降り・積もり、時刻通りいかず大幅に遅れたり、時には運休することもありました。そのため冬には小松に下宿する生徒もいました。私は3年間尾小屋鉄道で通学しました。車内は心地よく、まるで個室にいるような錯覚をしてしまい。座席に座り考え事をしたり、宿題をしたり、本を読んだり、居眠りをしました。小松は現在と違い商店街は活況を呈していました。1年に1回、弟・妹と一緒に小松に出て商店街を見、うどんを食べるのが楽しみでした。当時、三橋美智也の講演会が小松で開催され入場した記憶があります。三橋美智也の歌は懐かしいです。  

私(katsu)が 撮ったもっとも昔(昭和37年)の観音下駅。晩年の駅とイメージが違います。

尾小屋から観音下まで通学した中学時代。~昭和30年
尾小屋から小松まで通学した高校時代。~昭和33年
通学した当時の観音下駅はこんな感じだったのでしょう。

昭和39年の年末、長原から見た朝日を浴びた尾小屋の街並み。

中学時代の車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つであった。
高校時代に尾小屋から小松まで約1時間の通学で車内は大変心地よかった。
まるで個室のような錯覚をした車内。
等々・・一体どんな列車だったのでしょうか。
1950年代後半(昭和30~35年)は尾小屋鉄道の最も華やかな時代と言われている。

二両目の客車ホハフ7を除き昭和30年頃の列車はDC121(昭和28~)が牽くこんな列車だったのでしょう。写真は昭和37年に撮った尾小屋駅のDC121+ハフ3+ホハフ7+ホハフ3。

2020年3月8日日曜日

最後の池袋発 直通三峰口・長瀞行

3月14日に実施する西武鉄道ダイヤ改正で、土休日の朝夕に運転される秩父鉄道直通列車の運転区間が見直しとなり、今日が最後の池袋発 直通三峰口・長瀞行。

白いセミクロスシート車4000系が消える訳ではなく4000系が池袋~飯能間を走ることが無くなるだけのことですが、最後の池袋発 秩父鉄道直通で三峰口まで乗ってみました。

 三峰口で見れる4000系が消える訳ではなく、今日の16:25発が最後となる直通「池袋」行。次の休日から直通は三峰口~飯能間となる。2020.3.8

とうことで最後の急行「池袋」行先表示を分かるように撮ったものです。

ダイヤ改正後も飯能~三峰口間の直通はあるので三峰口のこんな光景はまだまだ見れるでしょう。

所沢で乗る快速急行「長瀞・三峰口」行もこれが最後となった。

新型ラビューへの置換えで3月14日ラストランとなるレッドアローのHM。所沢

人気のレッドアロークラシックも今週3/13日がラストラン。こちらはラストランのHMもなかった。西武秩父

池袋線の特急は全てラビューに置換えとなる。 所沢