案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年3月10日火曜日

尾小屋鉄道乗車の思い出

今年2月はじめに小松のある高校同窓会に招かれて尾小屋鉄道の思い出を聞かせてもらいました。私より年上の方の体験であり私が知らない昭和30年前後の尾小屋鉄道です。小学校から高校時代まで尾小屋鉄道とどんな関わりがあったのか思い出を書いてもらいました。

以下は昭和30年頃の尾小屋鉄道を利用された方が書かれた思い出です。

〇小学生時代
私は東京で生まれ、疎開先の福島から、国民学校2年の時に、尾小屋に来ました(昭和23年、1948年)。尾小屋鉱山が活況の時でした。病院や映画館や風呂場があり、床屋、八百屋、魚屋、薬屋などの多くの商店がありました。人口は5,000人とのこと。父は洋服の仕立て業をしていました。家族は父、母、兄弟5人でした。小学校の5年間は学校は尾小屋にあったため尾小屋鉄道には乗りませんでした。そして尾小屋鉱山が閉山(昭和46年、1971年)する少し前の昭和40年(1965年)に我が家は金沢へ引越しました。

〇中学時代に尾小屋鉄道に乗車
中学校は観音下駅を下車し、丘の上にありました。1学級約100名・全学校生300名程の学校でした。観音下駅の後ろの山は採石場となっており、山は直角に削り取られ壮大な景色でした。また駅近くにパン屋さんがあり、よくコッペパンを買って食べた記憶があります。生徒は観音下周辺の村々から来ていました。尾小屋から観音下までの距離は約4kmで約20分弱の乗車でした。スピードは速くはなかったですが、よく揺れました。時々尾小屋鉄道と並行して走った記憶があります。車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つでした。昭和28年から30年(1955年)までの通学でした。

〇高校時代に尾小屋鉄道に乗車
小松の高校に3年間通学しました。昭和31年から33年(1958年)まで。尾小屋から小松までは16.8kmあり、乗車時間は約1時間弱でした。当時はバスなどは走っておらず、尾小屋鉄道が唯一の交通手段でした。尾小屋鉄道のおかげで小松に通うことができ、感謝しています。尚、冬には雪が降り・積もり、時刻通りいかず大幅に遅れたり、時には運休することもありました。そのため冬には小松に下宿する生徒もいました。私は3年間尾小屋鉄道で通学しました。車内は心地よく、まるで個室にいるような錯覚をしてしまい。座席に座り考え事をしたり、宿題をしたり、本を読んだり、居眠りをしました。小松は現在と違い商店街は活況を呈していました。1年に1回、弟・妹と一緒に小松に出て商店街を見、うどんを食べるのが楽しみでした。当時、三橋美智也の講演会が小松で開催され入場した記憶があります。三橋美智也の歌は懐かしいです。  

私(katsu)が 撮ったもっとも昔(昭和37年)の観音下駅。晩年の駅とイメージが違います。

尾小屋から観音下まで通学した中学時代。~昭和30年
尾小屋から小松まで通学した高校時代。~昭和33年
通学した当時の観音下駅はこんな感じだったのでしょう。

昭和39年の年末、長原から見た朝日を浴びた尾小屋の街並み。

中学時代の車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つであった。
高校時代に尾小屋から小松まで約1時間の通学で車内は大変心地よかった。
まるで個室のような錯覚をした車内。
等々・・一体どんな列車だったのでしょうか。
1950年代後半(昭和30~35年)は尾小屋鉄道の最も華やかな時代と言われている。

二両目の客車ホハフ7を除き昭和30年頃の列車はDC121(昭和28~)が牽くこんな列車だったのでしょう。写真は昭和37年に撮った尾小屋駅のDC121+ハフ3+ホハフ7+ホハフ3。

7 件のコメント:

esehoku さんのコメント...

katsu様はなんと、金沢や小松・尾小屋にご縁がありましたか!
画像や文章から、当時の生活感が鮮明に伝わって来ます。
尾鉄は最晩年しか知らない私ですが、昭和30年代頃の、ゆっくりと、しかし精一杯にせっせと乗客や貨物を運んでいた時代が偲ばれます。
余談ですが、小松駅前にあったラーメン屋さんの「学生ラーメン」をご存知でしょうか?
昭和50年頃で確か1杯100円ナリだったと記憶しています。尾鉄乗車の前に腹ごしらえをした記憶があります。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
私は金沢や小松市、尾小屋は鉄道撮影で訪問した縁だけです。
小松の街のこともよく知りません。
この思い出を書いたのは私ではありません。

一昨年の私の写真展にいらした方のご縁で
今年、小松の高校OB会に招かれそこで尾小屋や北陸鉄道の思い出話が出てきたので
最も尾小屋鉄道を利用した方に思い出を書いてもらったというわけです。

にぶろく さんのコメント...

鉄道ファンの写真だけでなく
利用者の思い出も貴重な記録ですね。
先日ネットで購入した「三重県の森林鉄道」も
ファンではなく地元民の証言を中心にした記録集でした。

esehoku さんのコメント...

katsu様
大変失礼いたしました。
思わず勘違いをしていました。良く読まないといけませんね。申し訳ありませんでした。

katsu さんのコメント...

にぶろくさん
鉄道ファン向けではなく歴史の記録として発行された森林鉄道の記録写真は凄いですね。
最近は知らない森林鉄道が続々と紹介されますが、
鉄道ファンにとってこれまで情報が無かった世界ばかりだと思います。
生活感溢れる記録写真が魅力的です。
戦後の鉄道車両の情報は出尽くした感じで、
地元民の証言などがこれから増えてくると楽しいのですが。

匿名 さんのコメント...

懐かしいですねえ尾小屋鉄道。
昭和37年尾小屋鉱山が近く閉山するということで
当時中学の社会科クラブでは先生が鉱山の見学に行こうということになりました。
でも行った記憶がないので立ち消えになったのかもしれません。

社会人になってからは県内で数少ないスキー場、大倉岳スキー場へ行くのによく利用しました。
尾小屋駅からスキーを担いで雪道を4・50分歩きました。
車内はスースーすきま風が吹き込んで寒かったー。

ところで尾鉄という呼び方は当時地元ではしませんでしたね。
「おてつ」と言っても何のことかわからなかったと思います。

katsu さんのコメント...

匿名さん
思い出話をありがとうございました。
昭和37年は尾小屋鉱山本山が閉山した年ですね。
私が訪問したこの年の夏は車両にまだ日本鉱業のマークが描かれていました。
北陸鉱業の鉱山がその後も暫く続いてゴンドラで運んでいるのを見ました。

スキー場の話はコマツに勤務していた先輩などからよく聴いたことがあります。
また、先日の高校OB会でも話題になりました。
尾鉄とは鉄道ファンがつけた呼び方ではないでしょうか。
そうでしたか、地元では尾鉄とは呼んでなかったのですね。