案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年6月6日木曜日

玉電三軒茶屋の今昔

先日、三軒茶屋で撮った風景と玉電が走っていた頃の三軒茶屋を比較してみました。

1961(S36)年頃 246玉川通り拡張工事が開始
1964(S39)年10月 東京オリンピック開催
1969(S44)年 玉電の廃止
1971(S46)年 246号の上に首都高3号渋谷線が開通
1977(S52)年 新玉川線(現田園都市線)が開通

写真下は有名な三軒茶屋の分岐点で電車は下高井戸方面と二子玉川園方面に分かれるところ。街の風景はすっかり変わってしまい、来るたびに分からなかった玉電三軒茶屋の駅の位置を今回はなんとか確認できたようだ。それにしても道路が入り組んでいて街のゴチャゴチャした下町感は今も昔も変わらないようだ。

オリンピックまであと1年半、246玉川通りはまだ未拡張で狭い。 1963年4月

 246号玉川通りの拡張もオリンピックも終わった玉電最後の頃。 1969年4月
下高井戸行きは246号玉川通りから世田谷道路に入る。

 246玉川通りの上を行く首都高3号は東京オリンピック開催後の1971年に完成して現在に至る。 2019年6月

世田谷通りの併用軌道からカーブしてすぐ専用軌道に入る。その入口に三軒茶屋の駅があった。かなりの角度で世田谷通りから離れる。上り渋谷行ホームの背後に「すずらん通り」が見える。  1969年4月

 今の三軒茶屋で昔の駅の位置を探る目印は今も残る昔ながらの「すずらん通り」くらいのようだ。その入り口に交番があり、このあたりが渋谷行きホームと思われる。

この交番と脇のスペースにあった軌道は直進してからSカーブして今の駅付近に向っていたのでしょう。まさにここが玉電三軒茶屋の駅があったところと思われる

二子玉川園方面に向かって撮った現在。

渋谷方面に向かって撮った二子玉川園行の三軒茶屋電停。 1969年4月

現在の世田谷線三軒茶屋のりば  2019年6月

14 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

同じ会社なのに
田園都市線乗り換えも不便なら運賃の割引すらない、三軒茶屋は日本の鉄道会社のダメなとこ満載です、香港のライトレールを見習ってほしいです。

chitetsu さんのコメント...

今、ここを通る大半の人が世田谷線が246を走っていたことなど知らないのでしょうね。
ここでも変貌ぶりは驚くばかりですね。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
今や海外では路面電車は時代の寵児、Cedarさんの海外路面レポートを見ても驚きます。台湾の路面電車からめた新興住宅地開発などは凄いですね。
こんな意識がなかった時代の三軒茶屋再開発では世田谷線の駅を片隅に追いやり、田園都市線との乗換えが不便になってしまった。今だったら世田谷線の駅を三軒茶屋街づくりの中心に組み込んで余計な広場など作らなかったかも知れません。
世田谷線は残しておいてよかったは誰もが言っています。実に時代にあった地元にとってありがたい路線だと思います。にもかかわらず日本は地下鉄ありきで路面電車に対するお役所の意識が変わるのは大変だと思います。

katsu さんのコメント...

chitetsuさん
まさか246の道路上にに玉電(世田谷線)が走っていたなんて今の人は知らないでしょうね。
高架上に首都高、下に拡張された246道路とこれだけ道路があるなら、
今の246の中央部に路面電車を走らせたらなんて思うときがあります。
三軒茶屋の変貌ぶりは驚くばかりですね。
今も残る飲み屋街「すずらん通り」は整備された主要道路と対照的ですね。
外から来た者にとっては三軒茶屋は主要道路のみを近代化した街に思えます。

esehoku さんのコメント...

三軒茶屋の電停、子供の服装などに時代を感じますね。

路面電車は、全国的にもっと見直すべきだと私も思います。
一度外してしまった物を再敷設する難しさはあるのでしょうけど。
もしかしたら数少ない成功例なのかもしれませんが、富山ライトレールはあれだけ上手く出来たわけですし。
金沢なども、市電をLRTで復活させる案などを耳にしますが、どうも遅々として進まないようです。
都市こそ総合的な交通体系の見直しが必要ですし、それができると思うのですが。
世田谷線は、こういう形で続いているだけまだ良いとも思えます。

伊豆之国 さんのコメント...

三軒茶屋駅には、毎年見に行っている「世田谷ボロ市」に行くときに乗換えで使うのですが、乗り換え通路の途中から階段を上って地上に出ることがあり、地上に出ると、世田谷通りの反対側の「仲見世」のたたずまいは、中のテナントは入れ替わっても昔の雰囲気を残しているのに対し、駅が引っ込んで高層ビルになった側を見ると、その「落差」に改めて驚愕します。3番目の写真にあるチヨダ靴店と、その左側にある「文華デパート」、それと右側の茶沢通り商店街の入り口にある瀬戸物屋さん(「三軒茶屋」の由来となったお茶屋さんのうちの一軒の後身)は今も変わらず、その先にある「緑屋」は建て替えられて「西武ams」に代わりましたが今も健在のようです。4番目の写真の下高井戸行きホームの左手には「不二家」があって、子供の頃、よくこの店の2階にある喫茶店で「フルーツポンチ」などを楽しそうに頬張っていたことを今も思い出します。
一方、銀行は移り変わりが激しいですね。交差点の角にあった協和銀行は、「あさひ」となったあと、さらに大和銀行と合併して「りそな銀行」となって、大和の支店に統合されて店じまいし、建物は今も残っているものの、なんとカラオケ店に変身してしまいました。3番目の写真にある、"TIPNESS"やサンドラッグが入っている建物は、昔は第一勧銀の支店があったと記憶しており、富士銀行と合併して今の「みずほ銀行」となって、すぐ近くの渋谷よりにある富士銀行の支店に統合されて店じまいした、その跡と見られます。2番目の写真に見える「太陽銀行」は、太陽神戸銀行→さくら銀行となったときまではまだあったようですが、住友銀行と合併して「三井住友」となってから住友の支店に統合され、やはり店じまいしたようです。
8番目の写真に見える、「週刊朝日」の看板があるビルは、「甲文堂」と言う本屋さんで、駒澤に住んでいた頃、わざわざ渋谷まで行かなくても買えるようなちょっとした書物を買うときによく行ったのですが、いつの間にかなくなってしまったようです。それにしても、「玉電」があって、首都高がなかった頃は、その本屋さんが目立つくらいに高層ビルがなく、「空が広かった」と言うことには今更ながらの感慨を覚えたのでした。

…長々と思い出話を書かせていただきました。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
日本ではトラムの復活や新設は難航して時間かかりそうですね。
今のかたちに作り上げてしまった都市で復活や新設は容易でないと思われます。
とは言え高齢化問題やコンパクトシティ化で徐々に地方都市に広まって行くのではないでしょうか。

katsu さんのコメント...

伊豆乃国さん
詳細な解説ありがとうございました。
私は三軒茶屋にはあまり縁がないので仲見世商店街には今回も行きませんでした。
昔ながらの雰囲気があの三角地帯に残っていましたか。
これは意外です、次回は覗いてみようと思います。

昔の三軒茶屋の今を一言でいうと、首都高で失った空、
世田谷通り挟んだ北側と南側の驚くべき街並み対比。
といったところでしょうか。

yoshi さんのコメント...

初めてコメントさせていただきます。三軒茶屋で生まれ育った者です。
残念ながら玉電廃止時、私は幼児だったので記憶はありませんが、、
街並みの変遷については、先の伊豆之国様のコメントのとおりです。
甲文堂は平成になってからも長らく営業していましたが、数年前に
閉店し、建物はそのままでこちらも何故かカラオケボックスになりました。
その写真の右端の縦長の看板は「パチンコ白鳥」で、この店も昨年
閉店し、跡地はマンションに建替中です。電停に接した横断歩道は
今もそのままの位置にあります。
下高井戸方面のホーム位置の跡は、風間様の推定で合っています。
仲見世・三角地帯の付近は戦時中の空襲で全焼してしまい、跡地に
バラックが乱立した区割りのまま再開発も逃れ、現在まで雑然とした
街並みがそのままになっていると当方の父親(空襲経験あり)から
聞いています。

katsu さんのコメント...

yoshiさん
コメントありがとうございます。
三軒茶屋で生まれ育ったということは全てをよくご存知ですね。
玉電の駅の位置の推定は合っていたようで安心しました。
仲見世・三角地帯は今も昔を残しているのですか。
私はその存在すら知らずに「すずらん通り」が唯一昔の三軒茶屋を残していると思っていました。
次に行った時は三角地帯に入り込んでみようと思っています。
伊豆之国さんも言われている通り、再開発ですっかり変わってしまった三軒茶屋というイメージは一部だけで、それとはかけ離れた昔ながらの一角が残されている街ということですね。

Cedar さんのコメント...

katsu様
では次回は三軒茶屋で一献!

katsu さんのコメント...

Cedarさん
では三角地帯の探索も宜しく。

匿名 さんのコメント...

懐かしいお写真による、三軒茶屋分岐点付近の新旧対比に、思いがけず反響は大きかったようです。ここで思い出されますのが、玉川線の車両のある特長です。それは前照灯(ヘッドライト)脇に設置されていた、標識灯(マーカーライト)の存在です。それは紫色というか濃い青色の円錐形で、80形などではスマートな砲弾型で、とりわけ印象が深かったようです。これは三軒茶屋分岐点にあった「有人信号操作塔」で、操作員が配電盤によりポイント操作を行っていたからです。この有人塔とは、地上3mほどの高さに設置されていたコンクリート製のボックスで、玉川線に限らず各地の軌道線(路面電車)の分岐点で見られました。有人塔は、その後はトロリーコンタクターの普及などにより、各地とも無人の自動ポイント操作に変更されて行きました。
玉川線では日中は前面の方向板(方向幕)の地色で区別し、二子玉川方面は白地、下高井戸方面は赤地でした。しかし夜間は今のように街頭が明るくなく、方向板の地色による行先判別が困難だったため、標識灯で区別していました。すなわち信号塔から見て右点灯は二子玉川方面、左点灯は下高井戸方面でした。なぜこれに紫色を使用していたかは、軌道線車両が準拠する道路交通法では、前照灯(白色)と尾灯(赤色)の設置が義務付けられており、標識灯はこれら以外の色灯を使用する必要があったからです。ちなみにこれらの行先方向区別は、途中折返し運用(例:用賀止まりや上町止まり)にも適用されていました。
今や世田谷線は、玉川線時代の面影を見ることができませんが、大都市に残された貴重な軌道線です。たしかに地方鉄道と軌道の違いにより、運賃の通算はできません。しかし1日乗車券などは両者に共通使用できますので、世田谷線訪問の際は、世田谷線散策きっぷだけではなくそちらのご利用も検討願います。このたびも貴重なお写真の数々を、新旧の光景のみごとな対比を、誠にありがとうございました。

katsu さんのコメント...

匿名さん
玉電の大変興味深いお話をありがとうございます。
鉄道で運用やエピソードなどの話題は読んで楽しいものです。
文面の用語からすると鉄道ファンによくある他人情報(ネットや書物)ではなく、
きっと、この有人信号操作塔に関し東急玉川線に何らかの関わりがあった方と推測します。
以前、広島市内線の記事ではこの操作をやっていた方からコメント戴いたなんて事もありました。
本人が何らか関わりがあったり、体験したり、現地調査したりの情報が今の時代求められていると思います。
また近いうち三軒茶屋に用があるので、往復にはまた玉電を利用しようと思っています。