案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年1月24日月曜日

東武鉄道 熊谷線

1983(S58)年6月に廃線となった東武熊谷線(妻沼線)。高崎線熊谷から利根川の手前 妻沼まで走っていた。一体いつここを訪問したのか、乗車券を見ると昭和56年7月18日で廃線2年前であった。1960年代はとっくに過ぎ、もうこの頃は地方私鉄を撮りに行くことはなく、たまに車で近場を撮りに行く程度であった。

熊谷線は大変地味な東京近郊の路線で、話題になることも少なかったようだ。車両も沿線風景もファンにとっては実に単調な鉄道で、こうして画像を並べてもアクビが出てくるような刺激のない鉄道であった。
ここの東武キハ2000形3両は、鹿島鉄道の人気者キハ431と432(元加越能)と同型とのことだが、これと較べ東武キハが全く人気がない理由は、カラーリングと2灯式ヘッドライトにあったようだ。
ブタ鼻(ライト)の白ブタとは良く言ったもので、カラーリングでももう少し配慮されれば、もっと注目されたことだろう。

畑の中を行く2連のキハ。  実物はもっと黄色がかったクリーム色だった。 1981.7.18

畑が連続する沿線風景。

画像追加: 妻沼駅の木立
駅前には東武交通労働組合の熊谷線廃線反対の看板が。
駅前には商店が数件あるだけで中心街から離れていたようだった。

車庫の内部。
妻沼の機関区。利根川の土手がすぐそこに。
利根川に向かった線路がこここで途切れ、その先に
利根川を渡る計画だった築堤が残っていた。

8 件のコメント:

H.Kuma さんのコメント...

katsuさん、皆さん、こんにちは。

この時期のセイジクリーム一色塗りは確かに面白みがありませんね。
熊谷線も旧塗装の時代は、東武の標準色がまだ気動車っぽい感じがして好ましかったと思います。
ヘッドライトもまだシールド化されていませんし。
http://hkuma.com/rail/kumaga.html

などと偉そうに言ってますが、もちろん私は現役時代を知らないわけでして…

最後の写真、利根川の堤防へ向かう築堤が写っているのが大変貴重ですね。

katsu さんのコメント...

H.kumaさん、こんにちは。
Kumaさんの熊谷線探索レポート拝見しました。いつも要領よく纏められていて、これを読めば鉄道のことがすっ~と頭に入りますね。
熊谷線の塗分けで1個ライトの時代の写真を見ると、かなりイメージが違いますね。こんな時代があったことは知りませんでした。
廃線跡をたんねんに巡ったのですね。妻沼駅跡は昔のイメージをよく残していると思います。
妻沼駅の木立の画像を追加してみました。

H.Kuma さんのコメント...

木立の画像、追加ありがとうございます。
97年に私が見た駅跡に残っていたあの3本、やはり当時からあったものなのですね。

その後雑誌の取材で3年位前に熊谷線に行ったのですが、綺麗に整地されてあの木も無くなってしまっていました。

katsu さんのコメント...

H.kumaさん、
年とともに形跡が少しずつ消え、妻沼駅の何もかもが消滅してしまうのでしょうね。寂しいことです。

伊豆之国 さんのコメント...

古い記事ですが、私はつい先日にこの沿線を訪れてきましたのでコメントを書かせていただきます。
「暑さ日本一」こそ明け渡したものの、相変わらず猛暑が続く関東の灼熱地帯のど真ん中、熊谷線の終点があった妻沼にある、昨年国宝になった「妻沼聖天」にお参りしてきました。本殿に極彩色の豪華な装飾を施した彫刻があり、「埼玉の小日光」の異名があるそうです。熊谷駅前でその妻沼方面へのバス停に行ったところ、何と日中10~15分間隔でバスが出ていて、熊谷線がついに渡れなかった利根川を越えて太田に行くバスも1時間に1~2本あるとわかり、あの1両だけのディーゼルが1時間に1本あるかないかという「お荷物ローカル線」のイメージが頭にあって「果たして次のバスまでどれだけ待つのか」と思っていたので「こんなに需要があるとは」と大いにびっくり…。
ご存知かもしれませんが、熊谷線は、太田にあった「中島飛行機」(富士重工の前身)への軍事路線として、小泉線とを結ぶために突貫工事で敷かれたため、集落から離れた場所を通り、駅も秩父鉄道との分岐点・上熊谷と妻沼の間に1駅あったきりで、妻沼駅も町から大きく離れ、沿線住民からは使いにくい路線で、ほとんど見向きもされなかったのでしょう。結局利根川を渡れなかったのは、全通すると群馬県側からの客を熊谷から国鉄高崎線に取られてしまう、として東武が乗り気でなく、かえって「離れ小島」状態のまま電化さえ行わずに放置していたのではないのでしょうか。熊谷線が「妻沼聖天」への参拝路線として、秩父鉄道あたりの手によって集落を縫う形で建設されていたら、また違う形になっていたのでしょう。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
熊谷線が走っていたのどかな沿線も今や宅地開発による人口増大ですか。若者のクルマ離れなどもあり時代が変われば何があるか分かりませんね。利用者が多くなってきたことはけっこうなことで、将来バス輸送に行き詰まった時は鉄道が復活も有りうるかも知れません。バスの動脈路線にライトレールや近代化軽便が登場するとバスよりも輸送効率が良いのではと思ってしまいます。

esehoku さんのコメント...

熊谷線は、地元では通称「妻沼線」と呼ばれていて、キハ2000型は「カメ電車(※)」とか「特急カメ号」なんて呼ばれていました。(※→気動車なんですがね…💧)
カラーは、初期はクリーム色(窓周り)/青(腰周り)で、その後オレンジ(窓周り)/クリーム(腰周り)に、晩年は「卵豆腐」と言われたセイジクリームでした。
結構スピードを出していて、揺れが激しく、吊革が荷棚に豪快にぶつかりまくっていました(笑)。
東武唯一の非電化短距離路線でしたが、地元では結構愛されていて、営業最終日の人手はすごいものがありました。今も廃線跡の一部は「かめのみち」という遊歩道になっています。

Unknown さんのコメント...

素朴な疑問です。東武熊谷線は熊谷から上熊谷までは秩父鉄道と線路を共有してましたが、この間の運賃収受はどうしていたのでしょうか。①秩父鉄道+上熊谷からは東武の運賃、②秩父鉄道に乗ったら秩父鉄道の運賃。東武に乗ったら東武の運賃を払う。③初乗りの安い運賃に合わせていた。分かる方がいたら知らせて下さい。