内灘海水浴場、試射場指令室跡、粟ヶ崎海岸駅跡、内灘駅の位置はこんな関係に。
この廃止区間が海水浴客輸送だけではなく、どんな戦時色があったのか、なかったのかを知りたくなってきました。休止、再開、季節運転、廃止の歴史はそんな背景と関係があるのではないでしょうか。
Googleに粟ヶ崎海岸駅跡の表示があり、赤ラインで廃止区間(内灘~粟ヶ崎海岸駅)を推定。
2004年に撮った内灘海岸の表示では砲弾をトラックで運んだとある。
内灘の歴史を何も知らない私が、お粗末な京セラ初期デジカメで撮ったこれら2004年の写真。
内灘駅から道路を直進すると殺風景な海岸に出た。2004年
朝鮮動乱末期に浅野川線で運ばれた米軍試射場の砲弾は、貨物駅内灘でトラックに積み替えられ鉄板道路を走ったとすると、内灘~粟ヶ崎海岸までの線路は米軍の砲弾輸送に使われなかったことが考えられる。
元々この試射場は戦時中には陸軍に使われていて、その後、朝鮮動乱で米軍がここに目を付け日本(大阪)で製造した砲弾の試射場として使ったそうである。
米軍試射場跡の案内板によれば、昭和28~32年に海辺が広範囲に試射場に使われたことが分かる。このことから、この時代は海水浴客輸送は無かったことになる。
内灘~粟崎海岸間の歴史は下記のようになります(代打・山本さんの調査による)
昭和4年7月14日 新須崎~粟崎海岸間開業
昭和20年2月11日粟崎遊園前~粟崎海岸間廃止
昭和20年10月1日 北陸鉄道に合併
昭和25年7月1日 粟崎遊園前~粟崎海岸間開業認可
昭和49年6月29日 内灘~粟崎海岸間廃止許可
9 件のコメント:
いやぁ…自分では内灘から先の線路跡が特定できなかったわけです。
思っていたより、ずっと急カーブで左に曲がっていたんですね。
どうりで、自分が辿ろうとした時はやけに新しい家が建ち並んでいたわけです。
今度内灘を訪問する機会があったら確かめてみる事にします。
それにしても、内灘には大変な歴史があった辺りは良く知られていますが、「鉄板道路」と併せて謎めいた点が多いですね。
esehokuさん
この謎めいた内灘と浅野川線の内灘~粟ヶ崎海岸間は、
正に名取さんのトワイライトゾ~ン・マニュアルのテーマ。
とっくに取り上げられているのかも知れません。
ここで、内灘のこうした映像を拝見できるとは思ってもみませんでした。
katsu様が示して下さった粟ヶ崎海岸駅までのルートを見ると、現在終点近くには、「ヴィテン乗馬クラブ・クレイン金沢」があります。以前何度か娘が通ったので、海を臨みながらの乗馬とは恵まれた環境と思ったものです。
ただ最近は、すぐそばに高速道路を建設しているとかで、馬が神経質になっているとの話を聞きました。
Katsu様が仰る通り、この辺は殺風景で、住宅が並び、近くにイオンの大型スーパーや温泉施設だけなので、個人的には、これでいいのかと思います。というのも、ここ数年北朝鮮からの不審船の漂着が急増しているからです。ちょっと前の北海道や東北での事件どころではありません。それも金沢港、内灘海岸、輪島はもとより、能登半島の内浦にまで及びます。
長い海岸線を持つ石川県は、かつてソ連や半島を臨む要所であったように、今もそのことに変わりはありません。日本列島の地理的条件を鑑みると、鉄道の重要性を考えざるを得ません。
内灘闘争も所詮あの時代の事、「平和宣言」も結構だが、それで海岸線が無防備になったら元も子もありません。
鉄道に関しては、何の知識もありませんが、その力強さと魅力は女の私でも、何となく分かります。
時々靖国神社の遊就館に行って、入り口に構える機関車C5631号を眺めています。泰緬鉄道を走ったこの機関車は、もともと七尾線を走っていたもの(当然ご存知でしょうが)なので、何とも言えない郷愁を感じます。
ついつい関係ない話になってしまって失礼しました。
なるほど防衛上の理由だったんですか。
うちの田舎の皆生電車が廃止になったもの不要不急線でしたからねえ。
黒ユリさん
浅野川線の地元ならではの情報をありがとうございました。
私の知らなかった内灘闘争が過去にあったことを教えて戴き、
粟ヶ崎海岸駅へ延びていた線が益々謎めいて興味深くなってきました。
浅野川線が内灘の戦後の歴史にどう関わったのか、しっかり調べる必要ありを感じました。
どなたかまとめている歴史家がいるのでしょうけど。
内灘で見た小さな電車2両が、その昔、ポール電車に牽かれて、海水客を満載して
海へ向かっていく内灘光景、これに浅野線のロマンを感じます。
お蔭様で昨日はプレビュー数が初めて2000件/日を超え新記録となりました。
匿名さん
皆生電車とは、14年間の短命に終わった米子電車軌道ですね。
極度の営業不振に陥った米子電車軌道は、鋼材高騰をこれ幸いと廃止したとみるべきだろう。
と、白土先生の調査結果で述べています。
私の子供のころ(昭和30年代)金沢市民の海水浴といえば、粟崎海岸と金石海岸でした。
粟崎海岸へは浅野川線(通称浅電)、金石海岸へは金石線を利用しました。
当時浅電は夏場だけ内灘から海岸駅まで営業していました。
旧伊那電のダブルルーフのモハ851と852、3101、3102(851と852は木造車)が活躍していました。
北鉄生え抜きの電車と比べても大きく、ゆっさゆっさと巨体を揺らしながら内灘砂丘の砂に埋もれたような線路を走っていました。
どの電車も混んでおり、帰りの車内は汗や塩水でネチャネチャになった体をくっつけ合って帰ってきました。
昭和49年3月線路を見に行った時にはまだレールはありましたが雑木林状態になっており、長い間使われていない感じでした。
石鉄さん
貴重な浅野川線の海水浴行き体験談をありがとうこざいました。
戦後の昭和25年に粟崎遊園前~粟崎海岸の営業が復活し、その後の朝鮮動乱で複雑な経緯があった内灘と思いますが、昭和30年代と言えば粟ヶ崎海岸もやっとのんびりした時代を迎えた頃ではないでしょうか。
昭和30年代の粟ヶ崎海岸へ向かう線路にどんな電車が走っていたのか知りたかったのですが、あの旧伊那電でしたか。この2両は昭和39年に訪問した時にまだ現役でした。あんな大きな車体で海岸まで走っていたんですね。
またあの電車をとり上げてみようと思います。
戦後の内灘は内灘闘争で有名になりました。
米軍の試射場反対闘争です。
昭和30年代はじめ父が津幡駅の首席助役をしており津幡駅の鉄道官舎に住まいしていました。
夕方暗くなると内灘海岸での米軍の砲弾の曳光弾が毎日のように見えました。
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