案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年3月29日金曜日

月山と三山線(3) リニューアル

公開日2019.3.29

三山線を初めて訪問したのは1966年まだ残雪がある3月初めだった。
東北私鉄めぐりの全てを終え、秋田で奥羽本線の夜行列車 急行「第2津軽」で上野に向かったものの、郡山で朝を迎えると欲が出てきてまた奥羽本線を北へ引き返し高畠線が出ている糠ノ目で下車した。郡山からBOX席で一緒だった若い乗客と糠ノ目まで話をしたがどんな会話だったかが思い出せない。

先日、ブログにアップした高畠線を撮り終えるとC57の列車に乗って更に北上、山形で国鉄左沢線に乗換え羽前高松に到着したのは夕方であった。国鉄ローカル線の羽前高松から出ている三山線がどんな路線なのか、旅の最後のオマケに訪問したのだった。

この時は羽前高松近辺での撮影が体力の限界、この先に一体どんな街があるのかは次回の訪問とした。山形に引き返してまた夜行列車の急行「出羽」に乗って上野まで爆睡、旅は終わりとなった。帰還して何日か過ぎると東京では地下鉄東西線が中野まで開通した、そんな時代であった。
  
撮影:1966.3.6
奥羽本線の蒸機列車で北上する。

奥羽本線のC57客列車と並ぶ仙山線の素晴らしきED17。山形
ここで国鉄左沢線に乗換えて羽前高松へ向かう。

三山線名物の駅舎 羽前高松駅 
左沢線の羽前高松で降りると味わい深い小さな駅舎があった。ここから月山の入口 間沢まで、月山の山並みを背に果樹園の中をのんびり走るが、始めて訪問した3月初旬はまだ寒々しい冬の光景であった。

左沢線気動車から降りてきた乗換客。 羽前高松

左沢線羽前高松駅のホームの片隅に「三山電車のりば」の看板を掲げて電車が待っていた。けっこう乗換客がいて電車(モハ110形)に向かっていた。  羽前高松

やがてやって来た小さな電車モハ106。

残雪がある果樹園の脇を間沢へ向かって走り去って行った。 羽前高松


地下鉄東西線 中野- 高田馬場間が開通した日の中野駅。1966.3.16
4番線の行先方面が竹橋までで大手町は未開通で消してある。 
中野で見たEF11. 

6 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

田舎湘南モハ110は琴電に移籍した姿を撮影してます。
近くの関西にたくさん電車あるのに、なぜわざわざ山形なんて僻地から?と思ったものです。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
なんとなく間が抜けた2枚窓の顔をしたモハ110がご愛嬌ですね。
廃線後はるばる琴電へ行ったのですか。
モハ106の方はコンパクトでよく締まっていて模型の電車みたい。
こちらは蒲原へ行ったのですよね。
地理的には大変に僻地、しかし沿線の街にそんな感じがなかった三山線でした。

モハメイドペーパー さんのコメント...

 地元の中野の方に目がいってしまいます。東西線の5000系はまだ帯が細いし、総武線各停の先頭はクハ55ですね。

katsu さんのコメント...

モハメイドペーパーさん
中野駅のあの旧型国電は中央線ではなし一体何だろうかと思っていました。
昔は総武線各停があんなところに停車していたのですか。
私は全く撮らなかったけど、この頃は東京でも面白い車両がいろいろと撮れたんですね。
この頃は地方ばかり撮っていて今よく夢に出てくる我家すら1枚も撮っていない私でした。

モハメイドペーパー さんのコメント...

1966年4月28日に中野~荻窪間が複々線になり、総武線各停と地下鉄東西線も荻窪まで運転となります。写真はその約ひと月前なので総武各停はすべて中野止まり、中野に進入する5000系の写真を見ると、5番線から緩行上り線に通じる線路の途中に仮の車止めが置いてあるのが確認できます。

katsu さんのコメント...

モハメイドペーパーさん
ありがとうございます。
当時の中野そういうことでしたか。