案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年6月29日火曜日

三山線の終着駅 間沢

モハ107とモハ103→クハ化     1971.5.3
羽前高松から寒河江川に沿って30分程走ると終点間沢に到着する。間沢駅の先には山が迫り、ここから更に月山、湯殿山へと道は続く。月山に向かうには中途半端な終点だが、歓迎「月山夏スキー」の看板があった。 この頃は急激なマイカー普及の時代で、この3年後1974年11月に廃止された。鉄道撮影も車を使うようになり便利になったが、私の地方私鉄撮影も終焉を迎えていた。


モハ110形

モハ106

残雪輝く朝日連峰を背景に行く三山電車。 

果樹の花と月山

2010年6月21日月曜日

雄勝線 西馬音内電車区(続)

西馬音内電車区で見た古典客車の次は、魅力的な電車です。

梺へ向けて発車して行くデハ6  西馬音内  1964.8.6 ポップアップ

構内入替作業中のデハ3とデハ1

元都電の車体を使った デハ5


元日立電鉄の電車でトレーラ化された ホハフ5


西陽を浴びた西馬音内駅には、古典車がゴロゴロと。二軸客車の車内はお客で埋まっている。あと10日もすれば幻想的な西馬音内盆踊りが始まるが、この西馬音内電車区もまた幻想的な世界であった。

2010年6月18日金曜日

田園鉄道(続) 宮城中央交通若柳駅

東北本線石越駅から二つ目の若柳に車庫があった。1966.3.1

お目当ては凸型電機ED20形で、丁度2両が休んでいた。軽便鉄道時代の小さな車体はそのままに、足回りを762→1067mm軌間に拡大改造した姿が模型のようで愉快であった。
車体幅より台車の方が幅広い。

3年前の2007年3月末に廃線となった「くりはら田園鉄道」は保存活用に向けての整備が着々と進み、若柳駅の施設が復元されたのには目を見張ります。
先日6月13日には栗原市が主催して一般公開「くりでん乗車会」が開催されたそうで、この車庫があった若柳駅は地元の皆さんや鉄道ファンに永く愛され続けて行くことでしょう。



2010年6月17日木曜日

田園鉄道

宮城中央交通(栗原電鉄)、その後の「くりはら田園鉄道」
東北本線石越駅から細倉まで走っていた。
1955年に1067mmゲージに改軌された元ナローゲージ鉄道。
訪問した1966年、元ナローから改軌された凸型電機ED20形が大きなパンタを振り上げて活躍していた。
「くりはら田園鉄道」名の通り、まさに一面田園地帯を行く鉄道であった。
1966.3.1

2010年6月16日水曜日

栄枯盛衰 松尾鉱山(続)

昭和41年の訪問後、5年程で幕を閉じた松尾鉱山と鉄道の悲しい歴史から、もう少しアップしてみました。


東八幡平駅の構内から雄大な岩手山を見る。1966.03.02

東八幡平駅の構内風景。 

沿線に人家は少なく雄大な開拓地のようであった。 

まるで開拓地のような風景の中を、客車1両牽いた列車が勾配をゆっくりと登って行く。 

東八幡平駅の構内作業をしている凸形電機ED251。

2010年6月14日月曜日

栄枯盛衰 松尾鉱山


岩手山をバックに雄大な景色の中を行く客貨混合列車 

国鉄花輪線の大更駅から、硫黄採掘の松尾鉱山がある東八幡平駅まで、松尾鉱業鉄道が走っていた。乗換駅大更のホームには「国立公園八幡平登山口」の看板があり、鉱山町に住む従業員や家族の足だけでなく、八幡平を訪れる観光客の重要な足でもあった。しかし繁栄した松尾鉱山もこの3年後に廃坑となり雲上の楽園とうたわれた鉱山町も消滅し、鉄道は1972年に廃線となった。

(松尾鉱山のこと)
東洋一を誇る硫黄鉱山が栄え、昭和30年頃は標高1000mの地に鉱山町(雲上の都市)が栄え、その後急速に衰えて倒産、廃坑、廃墟となる悲惨な松尾鉱山の歴史。我々が訪問した昭和41年、この鉄道は活躍していたものの、悲しい廃墟へ向かっていた。



終着駅 東八幡平 。1966.3.2
松尾鉱山で栄えた“雲上の都市”はこの山の上に。 

2010年6月2日水曜日

有田鉄道 リニューアルに入替えた

紀伊本線の藤並駅から有田川上流の金屋口までを結んでいた有田鉄道。2002年に廃止された。
1964年に見た車両や施設は、その後大きく変貌する直前であったようだ。
話題にならない大変な地味鉄道であったが、地元有田川町では鉄道施設や車両の保存活動が活発で、今年、立派な「有田川町鉄道交流館」がオープンされた。

有田鉄道 藤並駅の光景。1964.7.9
まだキハ210(元国鉄42000の)が活躍していた。