案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2017年12月26日火曜日

長崎慕情

1967(昭和42)年に訪問した長崎の街並みは天気も良くとても明るい感じで、誰もが訪れる観光名所の入り口となる石橋は、運河に沿った電車通りの建物がとても魅力的であった。観光名所でもない何でもない街並みの魅力は今だからこそ感じることで当時は何も感じなかった。

私の2年後に訪問した田辺さんが撮った長崎駅に近い五島町の街並みは私が感じた長崎とは違っていた。え~こんな街並みがあったのか。一歩踏み込めば長崎の街には戦後のイメージを残す生活感溢れる街並みがいくらでも残っていたのだろう。


  グラバー邸あたりから見た長崎の港。 1967.03.02. 


石橋 1967.03.02. 
 
石橋の背後に迫る住宅。1967.03.02.

魅力的な運河と建物があった石橋風景。  


私が見た2年後、1969年の長崎にまだこんな街並みが残っていた。 撮影:田辺多知夫氏
五島町 1969年2月

2017年12月22日金曜日

新宿南側の今昔

新宿南口のサザンテラスと呼ばれる一帯は、小田急の線路上の空間を利用して目覚ましい発展を遂げている。現在のビル群がまだできていなかった54年前と比較してみました。

南新宿駅側から新宿駅方面を見る。2017年5月
正面に高島屋のビルが建ち、左隣に昨年開業したJR新宿ミライナタワーが建つ。
このカーブしたところに昔の南新宿駅があった。

小田急新宿駅の立体化が完成した頃で、周辺にはまだ高いビルが建っていない。学生の頃、小田急で新宿駅に到着する直前によく見た懐かしい風景。1963年3月
貨物線ホームがあった。

斜めに渡る都道414線の脇に南新宿駅があった。右手に小田急旧本社が見える。

写真1枚目の位置から南新宿駅方面を見る。 2017年5月

2017年12月20日水曜日

新宿大ガードの今昔

西武新宿駅に近い新宿大ガード下を通ると思い出すのが・・・・・
で始まる西武軌道線跡はこれで二回目。
前回の2012年1月20日「新宿大ガード」から6年が経つ。
あの頃、街撮りはデジカメであったのが今やスマホに代わった。
この先5~6年が過ぎるとまた何かが大きく変化していることだろう。

そして、西武軌道線の跡があった大ガード風景(1962年)は益々遠い昔のことになった。改めて今の新宿大ガード風景と55年昔を比較してみました。

今の新宿大ガード 2017年12月

55年前、西武軌道線の跡が大ガートをくぐり新宿駅東口に向っていた。 1962年秋

大ガード下にあった西武軌道線の跡。
途切れた軌道の向こうに都電杉並線「新宿駅前」が見える。

現在の大ガード。 2012年

2017年12月12日火曜日

江ノ電のタンコロ

映画「鎌倉ものがたり」に登場するタンコロの写真(再掲)を集めてみました。
1963年当時はポールを付けた105、107、108、110の4両が在籍していました。

撮影:1963.4.28
極楽寺検車区の風景。 

 105号

108号(現存)

 107と110号 江ノ島

107号

ポールと屋根廻り


電気車形式図集 私鉄電車編(第2集)

以下はタンコロに風貌が似た301号編成
江ノ島駅風景。 連接車301号編成(元都電)と連接車501号編成

連接車301号編成 鵠沼付近?

2017年12月10日日曜日

井の頭線 永福町

先輩のアルバムから。

高校生時代に通学で利用していた井の頭線だが、カメラを持ってなく撮ることは無かった。その後、カメラを手にしてもまず井の頭線に目を向けることが無かった。きっと前照灯が2灯化されて嫌気をさしたのだろう。先輩のアルバムに写った井の頭線はまだ綺麗なヘッドライトであった。

懐かしい井の頭線の永福町車庫。確かカマボコ屋根の車庫であった。1961年春

今の永福町を通るたびに昔の車庫が思い出される。永福町 2017.10.27

井の頭線が二灯化される以前の時代。渋谷行き1802+1712+1302+1902 明大前~東松原
1963.1.7

渋谷行き1763+1055+1005 西永福町-永福町 1962.8.17

キャベツ畑の明大前-永福町を行く吉祥寺行き1000系 1963.9.27   

渋谷行き1805+1202+1702 永福町-西永福 1962.8.17

2017年11月17日金曜日

下電の観光コース

バスが走る道路、下津井電鉄の路線、鷲羽山の関係はこんなになります。瀬戸大橋は開通前でまだ記載されていません。


創立75周年記念乗車券にあった周遊コースがこれでした。
どちらも船から瀬戸大橋見物を組み込んだもので、Aコースには下津井電鉄の下津井~鷲羽山までの乗車が組み込まれ、Bコースには電車の乗車がなく地上は全てバス移動でした。


瀬戸大橋開通後もこんなコースが存在したとするとメリーベル号の活躍はほんの一部ということに。そして岡山、倉敷からはJR開通により便利なJRで児島へやって来て、JR児島駅から離れた下電の児島バスセンターには寄らずJR児島駅からバスで鷲羽山めぐりや、大橋クルーズを楽しんで岡山へ帰るか、大橋を渡って四国へ渡るかで、下津井電鉄が投資した観光路線などには目もくれなかったことが想像されます。
大橋開通後、観光路線の起点である児島バスセンターに倉敷、岡山からの客を呼び込めなかったのが、下電バスもろとも観光路線が衰退してしまった大きな要因だったのでしょう。

鷲羽山からの瀬戸大橋展望。 1988.4.9

瀬戸大橋開通の日 1988.4.10
本四備讃線開通であっという間の坂出。

 
瀬戸大橋開通の日の坂出駅。

2017年11月15日水曜日

下津井電鉄 創立75周年記念乗車券

探し物をしていたらこんなものが出てきました。1988年4月の瀬戸大橋開通前日に購入したようです。この記念乗車券は1986年頃に発売されたようで、記念乗車券の写真は白塗りモハ103型でまだメリーベル号は登場前だったのでしょう。この乗車券の袋に「鷲羽山と瀬戸内海クルーズ号」という2つの観光コースが表示されていました。鷲羽山と瀬戸大橋(架橋工事中)見物を組み合わせた観光コースで、この後、観光路線化が完成後もこんなコースがあったと想像されます。次回、この観光コースを紹介してみます。

創立70周年とセットになった創立75周年記念乗車券


2017年11月13日月曜日

下津井電鉄 観光路線化

1988年4月瀬戸大橋開通後も、下津井電鉄はどうやってこの観光路線に客を引き寄せようとしていたのであろうか?  考えられそうな推測をしてみました。

1987年頃、下電バスのドル箱観光コース(倉敷見物~鷲羽山めぐり)に、メリーベル号乗車、メルヘンチックな児島駅での買い物、下津井駅の車両展示施設見学などを新規に組み込んだのであろう。
瀬戸大橋の開通に伴う丸亀航路の消滅、JR茶屋町~児島開通による岡山~児島間の時間短縮があっても、大橋開通効果により下電バス+観光鉄道のコース(倉敷見物~鷲羽山めぐり)に飛躍的な集客が見込めると読んだのであろうか。

観光路線用に新造したメリーベル号に展望車をつけて観光客にこの絶景を楽しんでもらう。但し瀬戸大橋は見えない。1988.4.9

昔は下津井までバス道路が整備されていなかった絶景の海岸線。
車窓に瀬戸大橋が見えるのはここだけ。下津井電鉄と並走する道路は大橋開通以前に既に整備されていて、児島または下津井からはわざわざ電車に乗らなくても、ここ鷲羽山へバスで行けるようになっていた。鷲羽山  1988.4.9

下津井駅からメリーベル号で鷲羽山めぐりにやって来た団体客。これに乗車することが観光のセールスポイントの一つ。明日は瀬戸大橋が開通する。 鷲羽山 1988.4.9

児島へ向って発車したメリーベル号。

下津井駅は下津井港から丸亀航路で四国へ渡るルートであった。丸亀航路が消滅してからは、ここからバスか電車に乗って児島に引き返す。1988.4.9

下津井駅の観光化。下津井駅に立ち寄る鷲羽山めぐり客に、小型SL運転や車両展示を楽しんでもらうと考えた観光施設。

始発駅児島駅の移設新設と観光化。下電バスの拠点を児島駅とし、倉敷からの下電バス客はここで買物をしてメリーベル号に乗って鷲羽山めぐりに向かうと企てた。

瀬戸大橋は開通し、丸亀航路は既に消えている観光案内図。大橋開通効果で一大観光スポットを目指し、その中にShimotsui✳Cost✳Line(観光路線)を位置づけた。大橋開通こそが客を呼び込めると。 1988.4.9