案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年4月29日日曜日

昭和51年の新小松駅1

1976(昭和51)年の小松線は既に金石線のモハ3000形5両がそっくり入線していて小松駅には5両が留置されていた。小松線はこの後1986年の廃線まで10年間存続した。

隣の尾小屋鉄道は廃線1年前で構内の線路もだいぶ外されて寂しくなっていた。
初めて見た1962年から14年も経っていてよく生き延びたものである。
散々楽しませてもらった尾小屋鉄道を見るのもこれが最後となってしまった。
 


最後を迎えた尾小屋鉄道 新小松駅 1976.04.09

新小松駅の先に延びていた留置線がなくなり駐車場になっていた.

新小松駅前の賑わい. 1976.04.09
鉄道施設はバスに転用されて行き、新小松駅は尾鉄観光バスの拠点だったのでしょう.
この翌年3月に尾小屋鉄道は廃線となり小松バスとなった.


尾小屋鉄道の車庫はかなりのスペースが尾鉄観光バス用になってしまった.クリックで拡大
バスを横目にひっそりと出発して行くキハ3. 手前の立派な線路は北陸本線.

2012年4月28日土曜日

北陸鉄道 小松線2

その後小松線を訪問したのは仕事で小松へ出張したついでに立寄った1967年と1976年の2回だけで、
尾小屋鉄道のついでに小松線を訪問したのは初回の1962年だけでした。
やはり尾小屋鉄道訪問時は小松線まで手が回らなかったということに。

初回訪問から5年経った1967年はまだ2両の小型車モハ1000形が健在で、北陸鉄道金石線からきたモハ1201も見られた。ともに全長11.8mの小型車で日鉄自動車製と木南車両製で似たような電車をよく揃えたものである。前回(1962年)に見た雑多な車両達は一掃されてしまったようだ。


小型車モハ1001(車庫)と1002(駅).小松   1967.09.29

2012年4月27日金曜日

北陸鉄道 小松線1

北陸鉄道の紹介で最後となった小松線です。

尾小屋鉄道と小松線を初めて訪問したのは1962(昭37)年であった。
この時に見た単車やトレーラの凄い車両達はこの後1963~1965年にかけて廃車されてしまった。
昭和37年頃の時代は、どこの小私鉄でも戦後を生き延びた凄い車両達が最後を迎えていた時代であったような気がする。
この小松線も、この後に北陸鉄道金石線のモハ3000形5両に置き換えられると平凡な路線になってしまった。

小松線の小松駅. 駅には「ハニベ厳窟院大佛 北陸鉄道」と書かれた看板が.1962.08.01

庫内に休む主役モハ1002は日鉄自動車製の全長11.8mの可愛いい電車.


サハ511(元金石電気鉄道の客車)


モハ501(白山電気鉄道生え抜き) 503はボギー貨車に改造されて加南線にいた.
ブドウ色の単色 小松製作所プレス工場の脇にあった小松駅


サハ511(元金石電気鉄道の客車)

モハ502(白山電気鉄道生え抜き) このツートンが西鉄似カラーか?

これは凄い! 電車崩れの客車サハ571(元温泉電軌デハ15)

小松駅全景


直ぐ近くにある尾小屋鉄道の機関庫ではDC121が出動するところで
落着いた濃淡緑に塗られた旧塗装が印象的であった.

2012年4月25日水曜日

歌川模型店

吉祥寺散策について別のお出かけブログ(日記)によく取上げたことがありました。
過去のブログを改めて読み返してみると消えゆく昭和の街並のことが思い出されます。

吉祥寺ハモニカ横町で歌川模型店があったのは遠い昔のこと? 一体いつ頃まであったのか?
写真を撮ったのは2005年3月が最後でこの年に店は郊外へ引っ越してその後そこも閉店したようです。
かってこの通りには民芸酒蔵「峠」もあり、この様な店が最近まで存在していたことが信じられない。
いかにもハモニカ横町らしい通りであった。

今の風景.歌川模型店があったところにはラーメン店(塩トマトラーメン旗)が.
今もある「みんみん」餃子店から位置が分かる.2012.04.24


ここに昔ながらの歌川模型店があった.  2005.03.03
となりの店(果実の看板)は今も残る.
ショーウンドウには子供の頃に憧れた3線式0番模型などが並んでいた.



今の風景.民芸酒蔵があったところは新業態の今風の店に.2012.04.24
ここに民芸酒蔵「峠」があった. 2005.03.03


2012年4月22日日曜日

西大寺鉄道7 ボギー気動車キハ7

また一気に50年も昔の西大寺鉄道にもどします。
今年の夏には西大寺鉄道は廃線50周年になります。


西大寺市へ延びる地方私鉄唯一の914mmゲージの軌道.  1962.7.29


この日の丸型気動車キハ7は有蓋貨車を牽いて往復していた.
極小アーチバー台車を履いた貨車に一体何を積んでいたのだろうか.
まもなく廃線というのに.


角型キハ6と丸型キハ7のバケットが並んだ財田駅の交換

キハ7の大アップ   財田

 

キハ7の車内ではバスと同じ制服を着た運転手さんが新聞を読んで発車を待っていた.
ひと気のない後楽園駅のノンビリとしたひと時.


西大寺市駅があったところに保存されているキハ7.  1998.2.16

2012年4月20日金曜日

いすみ鉄道 3年前の桜満開

いすみ鉄道の桜、今年も桜が開く前に現地に開花確認に行ったのに
いざ桜本番の週に用事が入ってしまい、とうとう満開時に行けませんでした。
満開の画像は3年前の桜です。
今年の桜満開時の春爛漫は果たしてどうだったのでしょうか。

総元-西畑  2009.4.10   画像クリックで拡大

総元-西畑  2009.4.10 

    いすみ鉄道の春 午前の部  総元-西畑  2009.4.10 

2012年4月12日木曜日

お知らせ

明日13日より1週間ほど不在になりますのでブログ更新をお休みさせて戴きます。 katsu

西大寺鉄道  砂川鉄橋を行くキハ7  広谷-西大寺市  1962.7.29

2012年4月7日土曜日

石神井川の桜

今年もやってきた石神井川の桜満開と青空、昨年と同じ4月7日に満開となった。
石神井川沿いに桜見物の人々で賑わう一年で最も華やかな一日。



満開の桜 西武鉄道新宿線 東伏見 - 武蔵関 2012.04.07


石神井川沿いに桜見物する人々.  東伏見 - 武蔵関

2012年4月6日金曜日

いすみ鉄道 桜の蕾が膨らみ始める頃

3年ぶりに春のいすみ鉄道を訪れてみた。
田圃の水が温み桜の蕾が膨らみ始める頃、
今年も西畑では鶯の鳴き声が聞こえ蛙の合唱が賑やかになってきた。
まもなく桜満開を迎えるが、今年の菜の花はピークが過ぎたせいか黄色に全く精彩がない。
数年前は桜満開の時期でも菜の花が黄色の絨毯のように咲き乱れていたのに。
画像クリックで拡大

桜の蕾が膨らみ始めた.  総元-西畑  2012.4.5


蛙の声が賑やかで桜の満開も近い.  総元-西畑


新型車は濃いUVカットガラスでサングラス状態. 国吉-新田野
車内から楽しむ春の景色は色付になってしまい、外からは乗客の表情が見えなくなってしまった。


水温む春の田圃. 上総東-新田野

2012年4月5日木曜日

2012年4月3日火曜日

筑波山の遠足

1959年5月に上野から常磐線の列車に乗り筑波山へ遠足に行ったことがあった。土浦でロッド式機関車に交換され国鉄客車はそのまま筑波線へ乗入れて左へカーブして行ったのを今でも覚えている。
途中交換駅にいたクリームとブルーのツートンに塗られたキハ311(元国鉄40000)や窓が小さくブサイクなキハ305など、地方私鉄の実物に初めて出会ったのがこの筑波線であった。地方私鉄好きはこれが決定的となり、カメラを買ってもらって初めて撮りに行ったのも筑波線であった。

 
遠足の3年後に初めてのカメラで撮ったキハ311と305 真鍋 1962年3月
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筑波駅 1978.11.5
それからずっと後、1978年に筑波駅で国鉄旧型客車を牽いた乗入れ列車がまだ走っていたが、
あの遠足で乗った国鉄直通列車とはこれだったのでしょう。

筑波 - 北条
この時の牽引機は筑波線のセンターキャブDD501(1954年製)ではなく、
キャブが片寄った常総線のDD502(1956年製)であった。

筑波駅で出発を待つ国鉄直通列車.
筑波山を背後に走る直通列車. 筑波 - 常陸北条 1978.11.5
この9年後1987年に筑波鉄道は消えてしまった。

鉄道なき時代が続いた後、つくばエクスプレスの開通と軽登山ブームで筑波山観光は大きく変わる。
筑波観光鉄道「筑波山ケーブルカー」「ロープウェイ」は週末になると長蛇の列が出来るドル箱路線に。
営業係数のランキングで東海道新幹線等と並んで筑波観光鉄道が4位にランクインには驚いた。

2012年4月1日日曜日

いすみ鉄道の春

昨夜で長野電鉄屋代線と十和田観光電鉄が長い歴史を閉じる。
その翌朝には何もかもが停止し春の花が開き始める。
毎度こんな3月31日廃線は翌月の春の訪れが悲しく印象的です。

気分を変えて春真っ盛りの「いすみ鉄道」、今年の花の咲き具合が気になるところ。


                     いすみ鉄道の春 午後の部   2009.4.10   画像クリックで拡大