案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2016年10月29日土曜日

私達が見た尾小屋は鉱山鉄道と言えるのか?

1970(昭和45)年のSL運転会で観音下~倉谷口で撮った写真を見ると、背景に鉱山用ゴンドラが見える。この時ゴンドラが動いていた様子はなく、昭和37年の日本鉱業の尾小屋鉱山閉山で私はゴンドラはとっくに使われていないと思い込んでいた。しかし引き継いだ北陸鉱山が細々と採掘を続けていたようで写真の翌年の北陸鉱山閉山までゴンドラは使われていたかも知れない。もしゴンドラが使われていたとしても、産出物を鉄道輸送したような施設は見当たらず尾小屋が鉱山鉄道と言える時代はとっくに終わっていた。

鉱山用ゴンドラが見える観音下~倉谷口 1970.11.03

昭和37年の尾小屋鉄道.1962.08.01
遡ること8年、昭和37年は日本鉱業が尾小屋鉱山閉山と同時に傘下の尾小屋鉄道から撤退している。この夏はまだ車両に日本鉱業の社紋◎をつけていて、なるほど鉱山鉄道かと思ったが、それらしきイメージの施設は鉄道用ではなくトラック輸送用に使われていて、それらしき貨車もこの時点で皆無であった。

以下は1962(昭和37)年時点の新小松駅の鉱山関係の設備だが当時鉄道用に使われていた様子はなく、トラック輸送の積み替えホームだった。 昭和30年頃に鉱山輸送の全てが鉄道からトラック輸送に切り替わっていたのであった。よく言われる鉱山鉄道の尾小屋は見たことのない昭和30年頃に終わっていたことになる。

左手の鉱山積み替えホームと右手に鉱山事務所.

鉱山積み替えホームに延びてきていた国鉄貨物線(手前側)

貨車はごく普通の無蓋・有蓋車.
1962(昭和37)年の新小松駅

2016年10月27日木曜日

土佐電の魅力1

後免町で軌道線が安芸線に乗り入れる素晴らしい光景があった.1969.5.5

五月晴れの安芸線風景.

安芸線の魅力溢れる車両.後免町

どれも魅力的な車両たち.


安芸線 後免町駅全景.

軌道線 後免町駅

2016年10月25日火曜日

小田急 朝の通勤ラッシュ

昭和30年頃の世田谷といえば、過去に数日間だけこんな写真をアップしたことがあります。

写真は、1960年代の高度成長期が始まる前、デハ2200形登場後からすると1950年代の後半でしょう。私は喜多見で各停に乗って成城で急行に乗換え下北沢までの通学はこの後の時代であったが、小さな中学生の身体は大人達に挟まれて浮いたままであった。座席の前に立ち背後からくる圧力を手で支えきれない客は座席客のヒザの上に崩れ落ちる。時には窓ガラスが割れることもあった。下北沢までのノンストップ・ノロノロ運転で満員電車の乗客は長い時間を耐えていた。下北沢で乗換える客が殺到する井の頭線渋谷行きはもっとひどかった。

夏は着膨れがなくなり冬よりマシだが車内にクーラは無し、夏のサラリーマンは皆ワイシャツ姿が当たり前で夏にスーツ着用できる時代ではなかった。こんな小田急の頃があった。

 急行に新鋭デハ2200形が登場。左の各停は1400か1200形でしょう。急行には乗れない小学生が眺めている。 朝の成城学園前

各ドアごとに押し込み駅員が配置して、押し込みアルバイトもいたのか全身使って押し込む.車掌氏はハラハラし最後の閉まらないドアを数人で押し込んで電車はやっと発車する. 画像所蔵 狛江市 吉原様

2016年10月22日土曜日

世田谷 弦巻3丁目

以前、弦巻3丁目の交差点のことを紹介したことがあります。この交差点のすぐ近くに1992年から(株)ネコ・パブリッシングがあったことを今日初めて知りました。会社が碑文谷へ移転する前に暫くこの弦巻に本社があって、その場所は昔から住んでいる友人宅の正面でした。

昭和30年代前半のバス停「弦巻3丁目」

ここが弦巻3丁目。昭和37から昭和41年にかけて鉄仲間と地方私鉄めぐりの旅プランを練ったたまり場、それがこの写真のバス停を降りたところの高校同級生のお宅であった。写真はその5年前くらいだろうか。

この写真を提供してくれたのがすぐ近くに昔から住んでいるもう一人の高校同級生(非鉄)で、今もよく電話する相手であるが、彼の家の正面にあるカーマニアらしきクルマが出入りするビルの昔話を以前からよく聞かされていた。そのビルこそが1992年に用賀から移転してきた(株)ネコ・パブリッシングであった。
初期のRMライブラリーでお世話になった頃は碑文谷に移転した後で、私は碑文谷以前のネコ・パブを全く知らなかった。


2016年10月12日水曜日

山陽電気軌道 東下関~唐戸


車庫があった東下関駅 1967.2.27
煙突から流れる真黒い煙、道行くジープやバス、街を行く人々、建物など、いかにもこの時代を感じる。駅のホームに犬小屋か? この時代は道路に放し飼いの犬もいた。

山の口

 丘の上に並ぶ住宅. 新町四丁目

電車通りに並ぶ古い建物. 新町三丁目

川沿いの新町三丁目


唐戸の街.ここで長府行と幡生行が分かれる。

2016年10月10日月曜日

第12回 軽便鉄道模型祭

昨日の軽便模型まつりから。

1/80ナロー猫屋線客車(塗装前)
展示用レールがNゲージ用ではなく、これまでには無かった枕木バランスに本気度を感じる。
11月の猫屋線発売で今後の9mmナローがどういう展開になるのか。これまでの1/87 9mmナロー模型界に1/80 9mmナローのコンセプトをどう打ち出すか(提案)に掛かってくるでしょう。単なる低価格路線に終わらないで欲しいものです。

新小松駅。国鉄北陸本線と軽便鉄道の大きさの対比が軽便模型の醍醐味.

国鉄北陸本線の向こうに小さな軽便尾小屋がたたずむ.

1/87 3'6''ゲージと2'6''ナローゲージの対比.

昭和37年夏、三重交通から転籍直後に見た三交カラーのホハフ8。昭和43年に半鋼製の新製車体になった(これをモデルにしたのが猫屋線ホハフ50)

懐かしい西大野駅

Oナローの素晴らしい情景.スマホ画面で部分拡大して見るといろんな新発見に驚かされます.

モジュールの素晴らしさに目を奪われ車両の観察を忘れてしまった。尾小屋ホハフ3 ( 猫屋線ホハフ50のプロトはこちらですね)

2016年10月7日金曜日

山陽電気軌道 早朝の大和町線2

画像を横1024pixから初めて1600pixに拡大してみました。

朝が明け行く大和町の大通り. 1967.2.27

道路にまだクルマは少ない.

賑やかな通勤時間になってくる頃.西口

幡生行に乗り換えて中心部へ向かう通勤・通学客.下関駅の西口

2016年10月5日水曜日

山陽電気軌道 早朝の大和町線1

 山陽電軌を彦島口からアップしたのが20112月、あれから5年以上も経ちました。時間が経てばたつほど背後に写る街並みが新鮮に見えてきます。そしてブログ環境も5年も経てば激変、今では小さな画像に不満だらけ、新しい画像を追加しリニューアルしてみます。

まだ薄暗い朝、街が動き出す頃 1967.2.27


大和町線の終点「彦島口」から下関に向けて似たような工場がや古い建屋が連なっていた。あの工場は何だったのか、写真を順に並べて工場の位置関係を確認してみた。工場の合間に点在する古い建屋はいかにも戦後の雰囲気を残している。

彦島口を発車した電車は大興製函段ボール工場の前を下関方面に向かう.背後には大衆食堂が2軒連なる.

段ボール工場の先には屋上にハムソーセージの看板掲げたマルハ工場が見える.

マルハ工場の出勤風景が始まる.大和町二冷前 


良く似た大きなビルは?  マルハ工場と思ったがよく見ればそうではなかった.電車の背後にタクシー会社と美容室が.

終点 彦島口、本州はここで終わる.この先の橋を渡ると彦島へ.左手に並行する山陽本線は彦島へ渡ってから関門トンネルにもぐる.左手に山陽本線下関のヤードがある.