案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年1月31日月曜日

霞ヶ浦の湖畔 4

関東鉄道鉾田線。
霞ヶ浦湖畔の桃浦へ向かう前に覗いてみた朝の石岡機関区。
そこには様々な流線形の気動車が休んでいた。機関区の奥にはクラウスのSLが留置され、そして鹿島参宮鉄道スタイル?の竜ヶ崎線の僚機の気動車も見ることができた。
ホームで出発を待つ気動車は可愛い「びわこ」型と、楽しい車両が揃った鉾田線であった。

石岡駅と石岡機関区。   1966.8.28

びわこ型 キハ201


キハ40401とキハ42503。   42503は改造されて後のキハ601へ。


キハ40401。 竜ヶ崎線で見た40402と同型。


2両いたクラウスの内、1両(4号機)が機関区の奥に留置されていた。 

2011年1月30日日曜日

霞ヶ浦の湖畔 3


小川高校下 - 桃浦   1966.8.28

小川高校下 - 桃浦  1966.8.28


小川高校下 - 桃浦     1966.8.28  

小川高校下を出発し桃浦へ向かう気動車は暫く田畑の中を一直線に進み、霞ヶ浦の手前を左にカーブし湖畔の水ぎわを走っていた。
41年ぶりに訪れた湖畔の風景は護岸工事で変ってしまったが、岸辺に木がある風景は、あの時の木 (画像最上段) が大きくなったのだろうか。時代が変わり車両や湖畔が変われど、鉄道沿線の素晴らしさは変わっていなかった。春になったら廃線跡を歩いてみたいものだ。

小川高校下 - 桃浦  2007.3.8


2011年1月28日金曜日

霞ヶ浦の湖畔 2

ゆったりと時が流れる桃浦。
先日の霞ヶ浦湖畔を行く気動車、さらに追加してみました。

夕暮れの桃浦を行くキハ42201。桃浦 1966.8.28
追加画像。 夕暮れの霞ヶ浦に帆引き船が何隻も現れてきた。 桃浦


関東鉄道鉾田線(元鹿島参宮鉄道鉾田線)

2011年1月27日木曜日

常総筑波鉄道 筑波線

常総筑波鉄道は昭和40年6月に鹿島参宮鉄道と合併して関東鉄道になったが、その数年前に訪問した常総筑波鉄道時代には個性ある気動車が活躍していた。真鍋の車庫にはあまりに古すぎて正体不明な車両も居たがこの直後に消えてしまったようだ。

初めてこの筑波線に乗ったのは上野から国鉄客車に乗って筑波山へ遠足に行った時であった。その時に交換駅でみたツートンカラーの元国鉄40000形に惚れこんだが、その隣の何やら小さな窓のブサイクな気動車が妙に印象に残っていた。
何年か経って撮影に訪問すると、土浦駅でブサイクな気動車キハ305に出会えて感激し、好みはすっかりキハ305に変わっていた。このキハ305の経歴は判らないが松井車両のようないかにも田舎ガソリンカーといった堪らない魅力を感じる。

これぞ筑波線のキハ301が活躍していた。     真鍋    1962年3月

真鍋機関区の風景。 大型のキハ401(播丹鉄道の国鉄買収車)

301に較べて一段と窓が小さく、強烈な個性溢れるキハ305。   土浦


キハ311 (元国鉄キハ40009)   真鍋
ホハフ201

ホハ312 真鍋

こんな自動車がまだ動いていた時代。 真鍋

機関庫の中には巨大な7号機が鎮座していた。 真鍋
1924年汽車製造製の名機1C1形タンク

2011年1月26日水曜日

霞ヶ浦の湖畔

関東鉄道鉾田線(元鹿島参宮鉄道)
2007年3月に廃線となった「鹿島鉄道」のずっと昔、当時も常磐線石岡から霞ヶ浦の奥にある鉾田を結んでいた。1966(S41)年夏の終わり、鉾田線の霞ヶ浦の湖畔「桃浦」を訪ねてみた。いつもの撮影行きと違い、どん欲に撮るのをやめて「桃浦」に集中したのは、とても珍しいことであった。

霞ヶ浦湖畔を行く キハ201  ゆったりと時が流れる。 桃浦  1966.8.28

霞ヶ浦湖畔を行く キハ42201 桃浦 1966.8.28 
当時は旧東横のキハ42201、42202や、びわこ型流線形キハ201など特徴ある気動車が次々とやってきて、湖畔での撮影は終日飽きることがなかった。
この後にキハ201の廃車や元東横キハの改造で、流線形は次々と消えて行き、その後訪問することはなかった。流線形の気動車の存在で、他に居た元国鉄キハ07(半流6窓)やキハ04では平凡で物足りなく感じたものだった。

 旧東横の流線形キハ42201と42202 1976年廃車。石岡

びわこ型流線形キハ201 1970年廃車。 石岡

2010年5月2日アップ後、消去してあったのを新フォーマットにリニューアルしたものです。

2011年1月24日月曜日

東武鉄道 熊谷線

1983(S58)年6月に廃線となった東武熊谷線(妻沼線)。高崎線熊谷から利根川の手前 妻沼まで走っていた。一体いつここを訪問したのか、乗車券を見ると昭和56年7月18日で廃線2年前であった。1960年代はとっくに過ぎ、もうこの頃は地方私鉄を撮りに行くことはなく、たまに車で近場を撮りに行く程度であった。

熊谷線は大変地味な東京近郊の路線で、話題になることも少なかったようだ。車両も沿線風景もファンにとっては実に単調な鉄道で、こうして画像を並べてもアクビが出てくるような刺激のない鉄道であった。
ここの東武キハ2000形3両は、鹿島鉄道の人気者キハ431と432(元加越能)と同型とのことだが、これと較べ東武キハが全く人気がない理由は、カラーリングと2灯式ヘッドライトにあったようだ。
ブタ鼻(ライト)の白ブタとは良く言ったもので、カラーリングでももう少し配慮されれば、もっと注目されたことだろう。
変色前の切符

畑の中を行く2連のキハ。  実物はもっと黄色がかったクリーム色だった。 1981.7.18

畑が連続する沿線風景。

画像追加: 妻沼駅の木立
駅前には東武交通労働組合の熊谷線廃線反対の看板が。
駅前には商店が数件あるだけで中心街から離れていたようだった。

車庫の内部。
妻沼の機関区。利根川の土手がすぐそこに。
利根川に向かった線路がこここで途切れ、その先に
利根川を渡る計画だった築堤が残っていた。

2011年1月23日日曜日

中千住駐泊所

前回アップした「業平橋の貨物ヤード」、Cedarさんからご指摘があり、貨物ヤードの場所が間違っていました。申し訳ありません前回の表示を訂正させて戴きました。
営団日比谷線の高架が見える場所は、北千住~牛田間にある貨物ヤードで、その脇にあったのが中千住駐泊所でした。ネルソンは中千住駐泊所がある貨物ヤードと、業平橋の貨物ヤードの間を往復していて、前回の写真はそれを追いかけたものでした。

64号機  中千住駐泊所 1963.3.25

64号機  中千住駐泊所


63号機


63号機  中千住駐泊所


63号機  中千住駐泊所

2011年1月21日金曜日

業平橋のネルソン

今話題の東京スカイツリーと言えば、東武鉄道 業平橋のことが思い出される。
1963(S38)年3月、こんな身近な業平橋と中千住駐泊所がある貨物ヤードを往復する、名機ネルソン(元国鉄6200形)の東武63,64号機をまだ見ることができた。この直後に63号機は廃車解体され、翌年に64号機が杉戸機関区で廃車された。この風景の半年後、貨物ヤード 業平橋の一角には廃車になった大量のネルソン、ピーコックが集結されていた。

63号機   中千住駐泊所  1963.3.25

64号機

64号機


業平橋にあったSL機関区。 中千住駐泊所

駐泊所があったところ。  2011.01.27

2011年1月19日水曜日

越後交通 栃尾線 廃線迫る 3

廃線迫る長岡駅に留置されていた3両の経歴は。

左: 元江ノ電115 →ホハ23→クハ111
中: 元草軽モハ105→モハ200→サハ306(同型サハは合計4両)
右: 元草軽ホハ23→ホハ26→サハ30→ホハ50
と、どれも興味深い経歴で、最後は栃尾規格型電車の間に組み込まれ総括制御編成の一員になった事でしょう。元草軽の客車は一時サハになって、その後また元のホハに戻っている。
国鉄のホームから見えた長岡駅の3両 クハ111+サハ306+ホハ50。   1975.3.8


元路面電車で江ノ電を経て入線し、様々な改造を重ねてクハ111となった。
古典客車の台車を活用した異色台車がチラッと見える。


元草軽の電車だったサハ306。この日はサハ302が総括制御編成に組み込まれ活躍していた。

元草軽の客車ホハ23だったホハ50。
草軽時代からの台車(車輪径530Φ)で、隣の元電車サハ306に較べ車高が一段と低い。

2011年1月18日火曜日

越後交通 栃尾線 廃線迫る 2

もう1本走っていた総括制御の編成は「クハ104+クハ同+サハ302+モハ217」で、興味深いのは元草軽の電車がサハ302として組込まれていた事である。そして小坂鉄道の明治生まれ古典客車の台車を履いた、新造クハ2両も組込まれていた。 10月19日アップの「元小坂鉄道の台車2

クハ104+クハ同+サハ302+モハ217の編成。  椿沢近辺 1975.3.8

クハ104+クハ同+サハ302+モハ217の編成(右側)

総括制御化で昭和42年にクハ102、103、104が新造された。

草軽モハ101~105について。
草軽の5両全てが栃尾線に譲渡され、全てが栃尾線の終焉まで活躍した。
モハ101→ホハ28→サハ302
モハ102→ホハ29→サハ303
モハ103→モハ208→サハ301
モハ104→モハ207(外観が変身)
モハ105→モハ200→サハ306
サハ化される前のモハ208  1964.3.22
総括制御編成化で付随客車となったサハは草軽電車の外観をよく残し、近代化編成を魅力的に感じさせてくれた。昭和16~19年日鉄自動車製の草軽モハ100形が近代化に生き残るとは、サハ化するのによほど使いやすい車両だったのだろう。台車もそのままで、長年走り込んだ鋼板台車(雨宮型)が美しかった。
何十年も走り込んだ元草軽の鋼板台車
(鋼板とアングル材で構成された雨宮型)

参考文献:寺田裕一著「消えた轍 3」