案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2016年3月31日木曜日

扇町のピーコック

昭和38~39年頃の三井埠頭では1号、5号、7号機の中で汽車製造5号機が主に動いていた。
昭和39年12月訪問時は運よく1号機が動いていた。この1号機はピーコック5500形を2B1形タンク機に改造したB10形(小湊鉄道に保存)のような、英国系2B形テンダの改造機のようであるが正確なところはよく判らない。

川崎鶴見地区で撮影できた号機
第一セメント 1404, 17
三井埠頭     1, 3,  5,  17, 
日本鋼管    10, 12, 18, 105, 124,

小さな機関庫の前で 三井埠頭 1号機. 1964.12.25


背後は正に高度成長期の煙でかすむ川崎工業地帯

美しいピーコック

ここでは魅力乏しい産業用機関車.  三井埠頭5号機 1964.12.25
この5号機は汽車製造1924年製で汽車製造の地方私鉄向けCタンクの基準となった相模鉄道向け4両の内の1両で、相模→国鉄→東野→三井埠頭という経歴を持っている。
動輪が少し大きい南薩5号機Cタンク、これに先従輪付とした神中3号機とともに地方私鉄タイプのタンク機として模型でもよく知られた蒸機である。一連の汽車製造の小型タンク機でキャブの窓の独特なR形状が耶馬渓鉄道10号機と同じである。

参考文献引用 臼井茂信著: 機関車の系譜図3 交友社

2016年3月28日月曜日

2010年 多摩湖線の春

多摩湖線の春を撮りに行ったのは2010年であった。一橋学園~国分寺間にある本町信号所(交換所)の脇にある大きな木立の周辺を様々な角度から狙ってみると、武蔵野の木立が桜と組み合わさると一層引立つ感じで、桜が終わると木立が芽をふきて色合いが刻々と変化していくのが楽しみだ。

竹藪の緑、素晴らしい木立、そして桜の組合せ.本町信号所 2010.04.04 


2016年3月22日火曜日

あれから3年 下北沢駅

数年前の今日が出てくるFacebookで「今日で最後の下北沢駅」が出てきました。
あの日2013年3月22日からもう3年も経つのですね。


FBで使った2048pix画像。

ブログのアーカイブ

2016年3月18日金曜日

筑波鉄道 常陸北条

常陸北条駅は2011年3月20日に取り上げていました。画像を大きくして再掲します。

国道125号線から見た常陸北条駅の全景  1987.3.14



2016年3月13日日曜日

筑波鉄道 まもなく桜咲く頃

1987年3月末で廃線となった筑波鉄道は桜が満開となる直前に消えてしまった。桜の木があるこの常陸小田も風情がある駅であった。

まもなく桜が咲く頃の常陸小田駅 1987.03.14





 最後を迎えた真鍋機関区

2016年3月4日金曜日

仙北鉄道 登米(とよま)

仙北鉄道の終着駅登米(とよま)はブログ開始の頃2010年8月9日にアップしましたが、画像を追加して再度アップしてみます。今ではかっての登米駅前風景も大きく変わったことでしょう。

平成7年の大合併で登米市(とめし)と読むが登米町は昔の「とよま」と読む。米谷から北上川を下ったところあった登米駅の位置を今の地図上で探るのは困難と思ったが、意外に道路に軌道のカーブの形跡が残っていてカーブの先に歓迎アーチ「みやぎの明治村」脇に駅跡を示す信号機が残されていた。

静まり返った登米駅  1964.08.04

登米行きの列車に乗り、スイッチバックのある米谷を過ぎ、終点登米まで乗車したが、穀倉地帯の沿線風景は余りに単調で期待外れであった。終点登米の駅前は街らしい様子はなく静まり返っていた。米谷~登米間もあまりにも単調で撮影もすぐに引きあげてしまった。スイッチバック米谷では各方面にバスが出たり列車交換などで賑わいがあったが、終点登米は閑散としていた。やはり米谷~登米間は貨物を除けば寂れた支線の感じであった。

登米の駅前.廃線後バス待合所に使われた. 

 大陸的な悠々としたスペースに線路が配置された登米駅

登米駅があったところの今をストリートビューで見てみると.

小さなターテーブルがある駐泊所

登米駅を発車するとすぐに左へカーブして直線区間が続く.

発車まで静まり返ったひと時.

とよま駅の改札口