案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2014年6月29日日曜日

marimoさんを偲んで

先日アップしました庄内砂丘、津軽平野、花巻から横手へは1966(昭和41)年初春の東北私鉄めぐりのほんの一部でしたが、この時の旅を含め伴に撮り歩いた鉄仲間の一人marimoさんこと田辺多知夫さん(故人)を偲んで、彼から送られて来た何枚かの写真を紹介します。

左 marimoさん  1966年初春の東北私鉄めぐりの旅  
長靴にショルダーバック、手に傘とカメラ、といつものスタイル、
今思うと何でカメラ以外をザックに詰め込んで背負わなかったのだろうか?

これが日本の風景なのかと驚かされた2枚↓

東武鉄道 中千住駐泊所 ピーコック58(2代目)号機 1963.09.25

昭和炭鉱のクラウス 1965.07.24

もう一本のmarimoさんを偲んではこちら→ 「marimoさんを偲んで 中千住貨物線

2014年6月27日金曜日

西武多摩湖線 萩山駅

以前の多摩湖線平日は朝夕に国分寺~西武遊園地直通が走り萩山駅で交換風景が見られた。
昨年にこの直通の交換が当たり前となったが今までの国分寺~萩山運転もあり平日/休日で異なるダイヤは複雑のようだ。今の白一色電車が走る数年前の萩山駅の黄色のたまこN101系の光景です。

萩山駅の西武遊園地直通のN101系交換風景.左3番線国分寺行と右1番線西武遊園地行 2010.04.30

夕方の萩山駅のN101系の交換風景を撮ってみた。 2010.03.19
多摩湖線萩山駅では平日の17時17分~20時17分は20分置きにここで交換する。
1番線西武遊園地行から通勤客が降りると、反対側の3番線国分寺行が発車する。

平日、国分寺から来た電車の殆どは萩山駅1番線で引き返す.萩山 2010.03.20
写真の国分寺行は牽引車としても使われる全電動車N101系263F。


 遠い昔の萩山駅風景 西武新宿行 1964.04.26

西武新宿行と多摩湖(現西武遊園地)行
萩山駅風景 西武新宿行  1964.04.26

多摩湖線とは別の上水線の終点玉川上水駅.西武新宿行 1964.04.26
玉川上水~拝島間はまだ開業していない時代.

2014年6月25日水曜日

西武多摩湖線 黄色のたまこ


多摩湖線 一橋学園  2010.01.27
西武多摩湖線の101系電車も白一色となり黄色の電車は1編成だけみたいです。
大好きだった一橋学園駅の夕暮れ時もすっかり足が遠のいてしまった。

2014年6月22日日曜日

花巻から横手へ

青森発23:45の夜行急行「八甲田」で寝て翌朝4:35に花巻駅に到着。
庄内交通でスタートしたこの旅で夜行急行「八甲田」で寝るのはこれで3回目となった。
花巻駅の待合室で仮眠した後、花巻電鉄軌道線の朝のラッシュを撮りに歩いた。
泥んこの道端で電車を待っていると朝の田舎道は通勤・通学で町へ出る自転車で一杯。
地方ではまだマイカー時代到来前でこんな時間帯でも車は滅多に来なかった。

花巻郊外の中根子あたりまでくると前日の津軽平野とはうって変わって長閑な田園は春の日差しであった。この時の花巻電鉄には遠鉄奥山線からキハが転籍していてキハが花巻電鉄を走る光景を見たかったが活躍する場はなかったようである。

午後は花巻から横黒線に乗り山越えして横手へ出るとまた寒い残雪の世界であった。
横手で羽後交通横荘線を撮って旅の記録はここで途絶える。
この後、八郎潟の秋田中央交通を撮ってまた青森から夜行急行「八甲田」に乗って福島で下車し
奥羽本線を北上し、山形交通の2路線を訪問するなど欲ばりな旅はあと2回夜行列車を利用した。

花巻電鉄軌道線 熊野 - 中根子  1966.03.04 
 
朝の「中根子」停留場

 花巻へ向かう朝の列車は満員で道路はガラガラ.  中根子

花巻電鉄の車庫内で改装を終えイエローに塗られた元奥山線キハ1804.

花巻駅の釜石線D50250

花巻から横手へ. 横手駅の奥羽本線の特急「つばさ」

横黒線D6040  横手

DF50が走る奥羽本線の脇に羽後交通横荘線の車庫があった.  横手  1966.03.04 

横荘線の車庫にいた珍品ホハニ3とキハ3

横手の街

2014年6月14日土曜日

庄内交通 庄内砂丘

安部公房の小説「砂の女」(1962年)の舞台は鳥取砂丘ではなく庄内砂丘の酒田市浜中であったのを先日の朝日新聞で初めて知りました。

「砂の女は」1964年に映画化され、映画で見た砂に埋もれる生活の光景が今も記憶に残る。
鶴岡市湯野浜から酒田市にかけて35kmにわたり広大な庄内砂丘が続き、湯野浜の北7kmほどに浜中がある。日本海から吹き荒れる季節風の飛砂と闘う生活があり、季節風は砂丘の砂を水田や畑、民家にまで運び、これを防ぐため砂浜の近くでは木材を縄で隙間なく繋いだ「風当て」を家々の周りに巡らせ、1960(昭和35)年頃までは茅葺屋根が一般的だったそうである。

庄内砂丘は湯野浜から北へ35km続く.

鶴岡、善宝寺、湯野浜温泉といった庄内風情を走る庄内交通湯野浜線は、湯野浜温泉の街はずれから七窪にかけて砂丘を走っていたが、まさかこれが「砂の女」の砂丘の一端であったとは思いもしなかった。湯野浜線を訪問した1966年は映画公開の2年後で、日本海と砂丘は今の「夕陽百選の海岸」という明るい観光イメージは全くなく暗い荒涼とした世界であった。

ここから北へ庄内砂丘が続き、北7kmほどに「砂の女」の舞台となった浜中がある.1966.02.28
湯野浜温泉 - 七窪  
同じ場所でオリンパスペンで撮ったもの

風除けのある民家と善宝寺へ続く道 七窪-善宝寺 1966.02.28

砂の中にある七窪の駅

湯野浜線の終点 湯野浜温泉駅

湯野浜の町並の先に日本海が見える

海辺の温泉町 湯野浜

羽越本線鶴岡から湯野浜温泉行き電車が出ていた.

参考: 朝日新聞 2014.5.10 映画の旅人 砂の女

2014年6月10日火曜日

大井川鐵道の電車

前回の大井川鐵道の電車をアップしたのが2011年6月、早いものでもう3年が過ぎました。
引き続き車両紹介の私鉄車両めぐりを続けてみます。

あの阪急の2300系がデビューしてから6年、地方ではこんな魅力溢れる電車がまだ活躍していた。
鉄道友の会の大井川鉄道訪問で、私は千頭森林鉄道に目を奪われ大井川鉄道の電車には余り関心が無かったが、今になって見てみるとこれが中々魅力溢れる電車ばかり。


クハ500形+モハ300形.  千頭 新金谷  1966.9.23
背後に見える2両連結が物凄い電車です。

廃車直前のモハ200形201+202. 千頭 新金谷 
元鳳来寺鉄道モハ10形10と元豊川鉄道モハ10形13.

モハ300形302元三信鉄道(現JR飯田線) +クハ502    1966.9.23
モハ302
クハ502



駿河徳山駅風景

E105 元阪和ロコ1000形.この後、秩父鉄道E382となった.千頭

E102 鉄道友の会撮影会一行が駿河徳山で下車して撮影ポイントへ向かうところ

E101 新金谷

2014年6月8日日曜日

阪急の名車2300系

昨年引退した阪急電鉄2300系がまだ活躍していた. 淡路 2014.06.07

鉄研後輩から送られた阪急のスマホ写真を見ると
私の好きな鉄道の日常風景を撮るなら今やコンデジもミラーレスも要らないでしょう。
何を今さらと云われそう。
そして、鉄道日記で綺麗なスマホ写真をPCで綺麗に見たいなら、もうfacebookは低画質化で適さず。
このグーグルBloggerは最適です。今でも350KB程度まではOKです。


50年前の阪急2300系 過去の記事より
高性能車2300系 (1960年~1967年に78両製造)    桂-東日向町 1964.07.10
新製から50年あまりを経過しても第一線で走り続けているのは驚異的といえるが、そこには、きっちりとしたものを造って長持ちさせるという関西人の哲学が感じられる。 「鉄道ダイヤ情報」2012年12月号より。

2300系   桂-東日向町 1964.07.10