あの京急デハ230形の3連を昭和38年に杉田で撮っていたのを思い出しました。
デハ230にクハ140を組み込んだツートンカラー(赤と黄)の疾走に憧れたのはこの写真の10年以上昔の幼児の頃でした。横須賀の親戚の家に泊まり高台から何回も眺めたその疾走は、O番模型で合葉兄弟のDC2線式レールの電車がぶっ飛ばす光景の思い出と重なります。しかしこの写真を撮った昭和38年は既に憧れは軽便に移りデハ230形に憧れたことなどすっかり忘れていた時でした。
案内文章
高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった。
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
を回想してみました。
2016年4月12日火曜日
2016年4月10日日曜日
上武鉄道ピッツバーグ7号機
上武鉄道7号機が保存されている東品川公園で4/2にリニューアル開園式があったそうです。機関車もお化粧直しされ、開園式に参加の子供たちに7号機関車の生い立ちや軌跡が説明されました。開園式では遠い昔の写真を活用していただきました。
上武鉄道7号機が西武化学(元日本ニッケル)で働いていたのは今から54年前の昭和37年、なんと遠い昔のことか。 Wikipedia 国鉄2850形蒸気機関車
上武鉄道7号機が西武化学(元日本ニッケル)で働いていたのは今から54年前の昭和37年、なんと遠い昔のことか。 Wikipedia 国鉄2850形蒸気機関車
2016年4月8日金曜日
SLが走った市電 3
川崎駅前を出て京浜急行と並走する区間。
現在の川崎から想像もできない風景です。
現在の川崎から想像もできない風景です。
撮影 田辺多知夫 1963.12.12
京急川崎駅からしばらく並走する川崎市電の専用軌道.
並走区間は工場地帯の風景
左に曲がり140号道路の併用軌道に入る.
三線区間を走る国鉄蒸機
2016年4月6日水曜日
昭和38年東京の自動車(都電杉並線3)
昭和38年青梅街道の街並みの写真を見ると、あの「三丁目の夕日」(昭和34年想定)のような東京のイメージがまだ残されています。荷満載のトラック、レトロなクルマ、ボンネットバス、都電、商店の建物と看板、遠くまで広々とした空、背の低い立木など。こんな東京の街並みは昭和40年に入って刻々と変貌して行った。
都電杉並線 1963.11.30 撮影:田辺多知夫
高円寺陸橋から見た街並み.
鍋屋横町の子供たち
さよなら杉並線にかけつけた人々. 荻窪駅
2016年4月3日日曜日
昭和38年東京の自動車(都電杉並線2)
都電杉並線 1963.11.30 撮影:田辺多知夫
14系統杉並線新宿駅(新宿大ガード)
東京にこんなクルマが走っていた時代.
小田急デパートの前を左へ向かうと杉並線新宿駅
手前の古い建物は移転した精華学園女子高では?
手前の古い建物は移転した精華学園女子高では?
青梅街道らしい風景. 本町5丁目
成子坂下
2016年4月2日土曜日
2016年4月1日金曜日
SLが走った市電 2
2011年8月に本ブログで「SLが走った市電」で川崎市交通局を紹介したことがあります。今回は田辺さんが同じ頃に撮ったものをアップしてみます。
【前回の記事】
川崎駅前から塩浜まで川崎の工場地帯を市電が走っていた。日本鋼管前~塩浜間は1435mm軌間に1067mm軌間が入った3線式区間で、国鉄のSL貨物列車が市電の線路を走る珍しい光景が見られた。
訪問した翌年1964年3月に池上新田~塩浜間が休止になり、さらに1969年3月には全線廃止となって消えてしまった。日本鋼管浜川崎などこの一帯は工場構内・専用線のSLの宝庫であり、こうしたSLに較べ川崎市電は目立たない存在であったようだ。
【前回の記事】
川崎駅前から塩浜まで川崎の工場地帯を市電が走っていた。日本鋼管前~塩浜間は1435mm軌間に1067mm軌間が入った3線式区間で、国鉄のSL貨物列車が市電の線路を走る珍しい光景が見られた。
訪問した翌年1964年3月に池上新田~塩浜間が休止になり、さらに1969年3月には全線廃止となって消えてしまった。日本鋼管浜川崎などこの一帯は工場構内・専用線のSLの宝庫であり、こうしたSLに較べ川崎市電は目立たない存在であったようだ。
撮影 田辺多知夫
三線区間のポイント
川崎市電
国鉄蒸機と川崎市電
三線式を走る国鉄C11
以下は2011年8月にアップしたもの.
市電とすれ違って3線式区間をやって来た国鉄のC11. 桜橋
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