案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年6月29日月曜日

流山駅の貨物線2

1962年当時の流山駅において、
万上みりんの野田醤油(現:流山キッコーマン)工場へ延びていた貨物線と貨物駅はほぼこれで間違いないと思われます。皆さまからの情報提供ありがとうございました。





1960年当時の貨物駅の上屋やホームは、RMライブラリー(上)にあった貨物駅の写真2点(流鉄提供)によりやっと判明した。

RMライブラリー(下) 表紙のキハ32(撮影:1934年)のダルマが電車庫の奥に置いてありました。 1963.3.31

2020年6月20日土曜日

花巻電鉄 中央花巻駅

今日発売の鉄道模型趣味(TMS) 7月号は連載第13回目の「街中の中央花巻駅」です。

花巻電鉄鉄道線は花巻中央から花巻温泉まで走っていましたが、その始発駅は国鉄花巻駅ではなく街中にあった中央花巻駅でした。かって、岩手軽便鉄道と花巻電鉄が並んだ(軽鉄)花巻駅との位置関係は図示の通りです。

TMS No.942号 7月号

TMSに載せた中央花巻駅は電車がいない駅全体の写真です。 1964.8.2

岩手軽便鉄道 (軽鉄)花巻駅のボールドウィンCタンク機 ケ236  

以下は鉄道線デハ57にまつわる画像でTMSには掲載していません。

花巻駅で客待ちしている鉄道線花巻温泉行き電車デハ57。 1966.3.3
左側は軌道線発着ホームで温泉郷の看板がズラリと並ぶ。この時は既に中央花巻駅まで延びていた線が廃止になり、鉄道線はこの花巻駅が始発駅であった。

いかにも春の陽ざしの中をやってきたデハ57。1966.3.3

馬ずら電車と並んだ鉄道線電車。花巻 1964.8.2

鉄道線デハ57。 花巻 1964.8.2

中央花巻へ向かうデハ57。花巻 1966.3.3

街中の中央花巻駅とは対照的な花巻温泉の洒落た駅舎。1964.8.2
福島交通湯野町、松本電鉄浅間温泉、花巻電鉄花巻温泉と温泉通い電車の終着駅はどこも魅力的な駅であった。

花巻の玄関口 東北本線花巻駅。1966.3.3

2020年6月15日月曜日

朝の浅間温泉驛

温泉といえば浅間温泉行きの軌道線 松本電鉄浅間線。
ひなびた木造電車と対照的だったのが立派な洋館風駅舎であった。
昔も今も高級感ある温泉地の感じがする。

撮影:1963.7.20
朝の日が差してきた浅間温泉驛。

浅間温泉の立派な駅舎。

浅間温泉驛

松本市内へ発車した朝の通勤電車。

下り電車がまもなく浅間温泉に到着する。中浅間近辺

2020年6月10日水曜日

鉄道模型趣味誌70号(1954年) 加悦鉄道を訪ねて

鉄道模型趣味誌70号(1954年6月号)に掲載された「加悦鉄道を訪ねて」の懐かしい記事。
昭和29年発行で私が兄の鉄道模型趣味誌を見たのは小学生でした。

FBの友人に送ってもらった記事の1ページ(撮影画像)です。
当時の模型趣味誌の地方私鉄めぐり実物紹介記事はこんなだったのですね。
写真の加悦鉄道は1952(昭27)年です。


1952(昭27)年の在籍車両。
この頃は明治生まれの2号機が朝夕客車を牽いていたそうです。


この10年後1962(昭37)年に私が訪問した時、動力車で蒸機は1088号機(2B1)がC160号機大江機械製作所製に入れ替わり、その他の蒸機、ディーゼルカーはそのまま在籍していて、そこへ大型ディーゼルカー キハ51が入線した直後でした。

以下は1962(昭37)年夏の動力車。
夏草に埋もれて休車中の2号機。明治6年 英国スチーブンソン製 元国鉄No.123 

1261号機 大正12年日車製


C160号機 昭和17年大江機械製作所製

 4号機 大正12年川崎造船製

片ボギー車キハ101 (昭和11年日車製)

DB201 (昭和28年森製作所製) 


2020年6月7日日曜日

鉾田線 桃浦駅のこと 

関東鉄道鉾田線(その後の鹿島鉄道)を訪ねたのは1966年夏、もう54年も前のことでした。
先日、facebookに投稿したのがこの桃浦の1枚。

霞ヶ浦に日が沈む頃、夕陽を浴びて桃浦を行くキハ42201。1966.8.28

旧東横キハ2両のうちこの42201は翌年に両端を切妻2枚窓に改造されてしまった。美しい流線型に金太郎塗分けで活躍していた旧東横の42201最後の夏だったかも知れない。旧東横の2両は塗装変更して1976年まで活躍した。

こちらはキハ42202

ところで、この湖畔の写真を撮ってから霞ヶ浦の帆曳船を眺めながら引き返した桃浦駅のことを書きたかったが写真が1枚もなし、あったのは2007年の廃線直前に撮った無人駅の桃浦でした。そこで駅員が駐在していた頃の桃浦駅の写真をお借りしました。

有人駅だった頃の桃浦駅 1981年。良玄通信さんのサイトより許可得て掲載。
1963年2月には貨物営業を廃止している。

あの1966年の夏、霞ヶ浦の湖面に陽を反射しながら沈みゆくオレンジ色した夏の太陽と情緒ある帆曳船を眺めながら1日の撮影を終えた。湖畔から夕暮れの桃浦駅に戻ると委託駅の駅員さんから冷たいスイカをごちそうになり美味かったこと。ポツンと燈がついたクモの巣だらけの裸電球の下にテニス帰りの高校生たちが賑やかに集まってきた。


41年ぶりに訪問した桃浦駅。'07.03.08
丸太小屋風に建て替えられた無人駅桃浦。

霞ヶ浦湖水浴の時代には桃浦の駅も賑わったことでしょう。

2020年6月6日土曜日

聖光学院前のデルタ線

福島交通軌道線。
国鉄伊達駅前に 飯坂温泉「ようこそおいで下さい これより4Km(電車)」の看板があり温泉行きの電車が出ていた。伊達駅前を出た電車は聖光学院前のデルタ線で方向を変えて湯野町(飯坂温泉)へ向かう。

このデルタ線の駅が実に魅力的で格好の模型化題材ではないでしょうか。1967年9月に聖光学院前~湯野町間が廃止となり、それに伴い長岡分岐点~伊達駅前間は貨物専用線になったようだ。


撮影:1966.12.31
デルタ線の急カーブ。ホームはないがここが聖光学院前の駅であった。

伊達駅前からやって来た湯野町行の電車。

長岡分岐点から直進して伊達駅前へ向かう電車と湯野町行電車がここで接続する。

湯野町

湯野町駅

ある日の尾小屋鉄道

1970年11月の尾小屋SL5号機の運転会の記録を調べていたら、当時の尾小屋鉄道のこんな日常記録がありました。

尾小屋の5号機運転会の前日11月2日18:08に小松駅に到着。新小松駅で東京から来ている2人と合流。尾小屋行きのDLが牽く3両編成の軽便列車は夕方のラッシュ時で金沢あたりからの務め帰りなのか都会的な女性もたくさん乗っていた。
軽便のオープンデッキも鈴なりで若い人の楽しそうな会話がはずんでいる。

この鉄道の沿線は夜ともなれば暗闇で深い山間へ入っていく感じで民家の灯りなど全く見えず、どこを見ても暗闇であった。昼間と違って夜の軽便は寂しく物悲しいムードであった。一人二人と小さな停留場の暗闇に乗客が消え尾小屋に着く頃には車内もガラガラになって来た。

ということでこの時の写真が一枚もないのが残念です。
オープンデッキも鈴なりから2軸客車ハフ1形が連結されていたのかも知れません。

観音下~倉谷口 1970.11.3
SL運転会当日のDC121

運転会前夜の尾小屋駅にいた5号機とハフ1と2そしてホハフ2。  1970.11.2