案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2021年2月18日木曜日

奥山線の気賀口

20日発売の鉄道模型趣味(TMS) 3月号の"失われた情景"第21回は遠鉄奥山線です。





曳馬野からやって来たキハが気賀口に到着する。1964.3.23

駅を出ると井伊谷川の手前で急カーブする線路、川の向こうの小高い丘、のどかな駅と民家、そんな温暖な奥浜名湖にあった気賀口風景をTMSに纏めてみました。
ここにある写真はTMSに掲載できなかったものです。 

眠たくなるような長閑な気賀口の駅。


構内図下絵

2021年2月11日木曜日

みりんと流山電気鉄道

田辺さんが撮った昭和39(1964)年の流山線風景で、この時代の沿線には春の季節感あふれる田園風景があった。改称激しい今の流鉄はこの時「流山電気鉄道」であった(1967年流山電鉄に改称)

流山の「万上みりん」輸送がトラック輸送に切替えられる直前で「万上みりん」を鉄道輸送していた時代だったようだ(万上みりん工場の引込線は1966年撤去された)。
みりん以外の貨物輸送は1976年まで続いた。


撮影:1964.4.23 田辺多知夫氏

春の田園風景を行く混合列車モハ100形+ワ11。1964.4.23
みりん輸送に使われたと思われる小型木造貨車ワ11(1964年10月廃車)とワフ31(1965年10月廃車)はこの直後に廃車となった。 



この時代に主力だったモハ100形(旧南武鉄道)4両は1979年に全廃となった。

自然豊かな流山駅。
駅の背後に迫る台地に無数の樹木があったがその後樹木の全てが消えた。

流山駅の一端に貨物駅とみりん工場の引込線み線があった。小型木造貨車ワフ31が消えた翌1966年に引込み線が撤去された。この写真を撮った時のみりん工場は野田醤油醸造㈱であった。

万上みりん工場の経緯
1917年 万上味醂㈱を設立
1925年 野田醤油醸造㈱が万上味醂㈱と日本醤油株式㈱を合併
1964年10月 キッコーマン醤油㈱に改称
2006年 みりん部門を流山キッコーマン㈱に分社。
現在 流山キッコーマン㈱で万上みりんを製造している。

2021年2月6日土曜日

井笠の9号機(コッケリル製)

くじ場にいた井笠の9号機(ベルギーのコッケリル製Bタンク)

臼井茂信さんの「機関車の系譜図2」にこの機関車の詳細な経緯など調査報告が掲載されています。1967年にくじ場の格納庫にいた9号機は1968年には笠岡に保存され、その後転々とし現在は井原に保存されているようです。

この写真は兄が撮影したもので撮影日、場所は不明です。

 井笠9号機(コッケリル製) 伏見桃山城  撮影日不明

くじ場の蒸機は2011年5月にこちらでも紹介しています→くじ場のSL2


井笠9号機 くじ場の格納庫 1967年

2021年2月4日木曜日

井笠の7号機(コッペル製)

井笠鉄道で1961(昭和36)年10月に廃車となり解体処分される予定が、奇跡的に助かり各地を転々と移動しながら近年では長野県の「野辺山SLランド」に引取られ静態保存されてきました。2018(平成30)年8月31日で同園が閉園となり、2019年に古河足尾歴史館にて保存されました。
(古河足尾歴史館HPより)


古河足尾歴史館のトロッコ館野外に展示された7号機。  2020.11.21
2019年到着したままで未整備の状態。

7号機は井笠で最も力のあるC型蒸機で神辺線の天井川の勾配で客車を牽いて活躍したそうです。神辺線の天井川とは両備国分寺と湯野の間に流れる高屋川支流のことで、両備国分寺を出るとすぐ高屋川支流の土手を登る。この急勾配で使われたのが6号でなく7号機だったが、それでもスリップ発生で機関助手が砂撒きしないと登れないこともあった。
(幼少時代から神辺線御領に住み軽便が生活の一部であった方の昭和20年代初頭のお話)


今や神辺線の廃線跡めぐりが盛んに開催されているようで、コンクリート高架の井原線に比べ昔の軽便神辺線の鉄道施設がいかに小さかったかで驚いているようです。もしかしたら今は軽便程度の規模で輸送力は十分かもしれません。


井笠の中で最も美しいと言われている7号機(コッペル) 。廃線後、各地を転々として足尾の安息の地にたどり着いたのが何よりです。


7号機を初めて見たのはくじ場車庫であった。  1962.7.30




2回目の訪問ではくじ場の格納庫に保存されていた7号機。1967.3.8

4両の蒸機8,7,9,3号機が鎮座していた格納庫。


美しいコッペル7号機と同型の6号機。くじ場車庫。