案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年8月30日金曜日

高度成長期 4年の様変わり

車が滅多に来ない金石街道(昭和39年)から始まり、日本の社会の変わり目、東京オリンピック開催後の東京モーターショー(昭和41)とマイカー時代の到来、その翌年の都電風景(昭和42年)と続けてきましたが、その東京の風景から僅か4年前の静岡鉄道駿遠線ではこんな風景が見れました。

凸凹道路をオート三輪が埃を撒き散らして軽便列車を追いぬいて行く昭和38年の風景。
道路は未整備でオート三輪が活躍していた時代でした。こんな時代はまだ駿遠線もバスやトラックに対抗出来たのでしょう。この時の訪問では短時間にDB機関車が牽く列車がひっきりなしにやって来たものです。ところがその4年後には袋井-新三俣がバス運行に切り替えられ、この僅か4年の様変わりは高度成長時代に自動車保有台数と道路舗装率が急激に増大した日本の様変わりだったのでしょう。


駿遠線DB608が牽く列車と、日本のどこにでも見られた非舗装路とオート三輪.
柳原-諸井 1963.04.04





2013年8月26日月曜日

金石線 金沢駅裏手にあった中橋駅(続)

金石線中橋駅 1964.12.31

金石線の始発駅中橋は金沢駅の裏手にあり国鉄と貨物連絡線がある興味深い駅でした。
駅は北陸本線と金石街道に挟まれた狭苦しい一角にあったようです。国鉄裏手にあり国鉄線路に対し直角に線路が延び、貨物連絡線がある地方私鉄の始発駅は珍しくもなかったが、中橋駅の場合は限られたスペースでいかに線路有効長を確保するかを考え独特の線路配置になったと推定されます。

中橋駅は金沢駅や金石街道に対しどんな位置関係にあったのか、カーブポイントが多い構内線路配置はどんなであったのか、今までアップしてきた写真を並べて線路配置を割り出し、さらに北陸本線、金石街道との角度・位置関係を推定してみたのが下図です。

駅の入口は街道に面していたのでしょう.

駅ホームに対し駅舎の配置が微妙に傾いている. 発車待ちのモハ3003

クハ1101+モハ3005の2両分程度のホーム長. 

国鉄金沢駅構内へ繋がる貨物連絡線

直線に延びる線路をやってきたモハ3003

次々やってくる魅力溢れる電車 モハ3005

ホーム脇にある車庫へ分岐する線路

2013年8月23日金曜日

都電 日本橋1967年

日比谷交差点を撮った数日前の日本橋はこんな風景でした。永代通りと中央通りが交わる日本橋交差点あたりで当時の車が判る写真を集めてみました。

日本橋や銀座では意外なスタイルの車を稀に見ることがあったが、オリンピック開催から3年目の東京は車も一新しとっくにクルマ社会が始まっていた。地方でも路面電車が走るような大都市はどこも車が道路に溢れていた。

永代通り日本橋交差点  1967.11.26
まだ意外な自動車も走っていた.

永代通り日本橋交差点.背後が東急百貨店(元白木屋)

永代通り日本橋交差点

 この翌月に消えた都電1系統. 中央通り日本橋

中央通り日本橋

車の氾濫で邪魔ものになってしまった都電. 中央通り日本橋

1967年第14回東京モーターショウ.前年に続き展示された初代サニー1000
1966年にスタートしたマイカー時代は1967年秋の東京モーターショウで更に身近なものに.
手の届かぬ存在のマイカーだったが、鉄仲間の一人はこの頃すでにサニー1000を購入していた.
マイカー時代の到来はあっという間のことであった。

2013年8月20日火曜日

西馬音内電車と西馬音内盆踊り

昭和48年4月に消えた羽後交通雄勝線は、西馬音内電車と言われ奥羽本線湯沢から秋田米どころを西馬音内(部分廃線後)まで走っていた。昭和39年夏に訪問した時は駅で湯沢の七夕まつりと幻想的な西馬音内盆踊りの案内掲示があり、七夕まつりの一端は見たものの盆踊りは開催が10日後であり諦めたのでした。

この時代は盆踊り開催ともなると、沢山の見物客が湯沢で西馬音内電車に乗って西馬音内駅で降り、駅や電車は大変な賑わいであったことでしょう。そんな風景を想像して当時の西馬音内電車と一昨日まで開催された西馬音内盆踊りの最新画像1枚を並べてみました。

湯沢七夕絵とうろうまつりのfacebook 「はぁ〜え、湯沢のなえでもびゃっか」さん、そして西馬音内盆踊りのスミスさんのブログ「酒だ酒だ・・」 、現地最新画像をありがとうこざいました。

昭和39年夏の西馬音内駅. 1964.08.06
西馬音内盆踊りを10日後に控えた駅の風景.

今年も8月16日~18日まで開催された西馬音内盆踊り.撮影:スミスさん
盆踊りだけは昭和39年の夏と何も変わらないことでしょう。

西馬音内電車. 西馬音内駅構内 1964.08.06
盆踊りの日は客車増結でどんな編成だったのでしょうか.

夕陽を浴びた西馬音内駅.  1964.08.05

西馬音内駅 1964.08.06

2013年8月17日土曜日

都電 日比谷交差点1967年

歴史的建築が並ぶ日比谷通りの日比谷交差点(電停:日比谷公園)寄りに帝国劇場と第一生命館が並び、当時ピカピカに光り輝いていた帝国劇場の建物はこの1年前に建替えられていたものでした。東京オリンピック開催後の1967年に見た車のカタチが変化した日比谷通りは、その後46年を経て育った緑と歴史的建築と近代建築で美しい風景になったものです。

建替え直後の帝国劇場 1967.12.03
 2013年夏

終戦直後の歴史が刻まれた第一生命館

日比谷公園から都電5系統他に乗ると日比谷通りを馬場先門へ向かう.1967.12.03
2013年夏

日比谷交差点

夕暮れの日比谷交差点から内掘通りを見る

2013年夏、緑多き日比谷公園から見た終戦記念日の東京の姿.

2013年8月15日木曜日

都電 日比谷通り1967年

1966年秋の東京モーターショウ(マイカー時代の幕開け) から1年後の都内の風景を眺めてみました。
日比谷通りは最も綺麗な道路で大衆車には余り縁がなかったこの一帯は車も少なく道路が広く見えます。
この僅か3年前まで見られたタクシー、ハイヤー、三輪トラックなどのレトロな車もすっかり過去のものに。

日比谷通りで帝国劇場の前から馬場先門方面を見る.1967.12.03
日比谷通りの並木
帝国劇場の建物は今も当時のまま.2013年夏

重厚な旧建築が並ぶ日比谷通り.右手が東京会館
1971年の建替えで姿を変えた東京会館


馬場先門電停と明治生命館
今も当時の姿を残す明治生命館

日比谷交差点

2013年8月13日火曜日

マイカー時代の幕開け

日本のマイカー時代の幕開けは何時だったのか東京モーターショウから確認してみました。
東京オリンピックが開催された翌年の1965年は、高度成長の所得倍増政策が1960年にスタートして5年が経ち、次の高度成長躍動期がスタートした年でした。この年の秋に晴海で開催された「東京モーターショウ1965」には夢のマイカーを見ようと多くの人々が押し寄せました。
この年の展示はプロトタイプやレーシングカー、スポーツカーが多かったようで、大衆車ではスバルを除けばその後直ぐに消えてしまったような車ばかり。まだまだマイカー時代の幕開けはこの先のことでした。

東京モーターショウ1965   日野コンテッサ1300 1965.11.04

 日野GTプロトタイプ

 ホンダN800
ダイハツ
スバル


ところが翌年の「東京モーターショウ1966」になると、それまで決定打がなかった大衆車にサニーとカローラが登場し、いよいよ本格的なマイカー時代の幕開けとなった。学生だった私にとってマイカーは遠い存在でサニーもカローラも関心がなかったのか写真もなく微かな記憶だけでした。

東京モータショー1966の人々の熱い眼差し.   1966.10.30

日本がこんな華やかな時代になっても、この頃の地方はまだ未舗装道路で街外れの道路はホコリまみれの世界.並行する主要道路の整備が進んだところでは早々とバスへ切替え廃線となった地方私鉄も多かった.

 都市部を除くと日本の各地はどこもホコリが白く漂っていた.

淡路交通の沿線は道路のホコリで草木の緑も真っ白になっていた.1965年8月 1966年廃線
日本のどこにでもあった風景.

オリンピック開会式の日の横浜駅前の車. 1964.10.10 横浜市電は1972年全廃

2013年8月12日月曜日

日本の社会の変わり目

先日の金沢から港へ向かう雨上がりの金石街道で、どこまでも続く道路にトラックやマイカーの姿はごく僅か、金石線沿線からの貨物はまだ金石線で国鉄金沢駅まで運ばれていた。こんな光景は他でもよく見掛けたものです。

この1964(昭和39)年の頃、大都市では既に車社会の到来が始まっていました。なんとか行き残ってきた地方私鉄もこの頃から急速に衰退して行く。この激変は一体何があったのか、私の中で漠然としていた高度成長時代の社会の変わり目と、地方私鉄の衰退を時系列に対比してみました。(軽便鉄道は地方私鉄衰退の事例として並べたものです)

これを見ると私が金石線を撮った1964(昭和39)年頃の日本は高度成長による社会の変わり目で、この年の東京オリンピック開催以降は高度成長のなかでも劇的な社会の変化で、車登録台数の急増や道路舗装率のデータからも爆発的な「車社会の到来」の時代であったと言えるでしょう。

よく写真を撮りに行った1962~1964年の頃は大都市を除けば地方の道路はまだトラックやマイカーも少なく、地方私鉄には活気ある路線も見ることができました。それが1965(昭和40)年~に入ると沿線の道路整備も始まり車の姿が多くなってきて、それまでの地方私鉄の活気もあっという間に衰退→廃線へと向かったのでした。
1960年代の地方私鉄が様変わりして行く風景は、日本の社会の大きな変わり目に地方私鉄が翻弄された時代の姿であったことが分かります。


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軽便鉄道の貨物長大編成 1966年

参考図書: 「高度成長-昭和が燃えたもう一つの戦争」 保阪正康 著 朝日新聞出版