案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。
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2026年4月29日水曜日

記憶にある色を求めて 尾小屋DC121

昭和30年代の地方私鉄独特なカラーリングの中で、今回のカラー化は尾小屋、沼尻、松本浅間線などの奇妙で曖昧な色を出すことが主目的であった。この路線に限らず昭和30年代の地方私鉄の奇妙な色はその殆どが昭和40年代に塗り替えられて、消滅してしまった。

その一つ尾小屋DC121が赤系になる前の1962年に見た曖昧な色を、記憶とノートのメモを元にAIカラー化してみた。当時の色は紙媒体があったとしても仕上りにバラツキがあり正確な色の記録は無く、見た人各人の記憶にあるのみ。

FBに投稿したカラー化DC121を更に仕上げたのが今回です。



窓回りの緑がかったクリームが印象的であった
DC121  金平 1962.8.1


2025年6月9日月曜日

真夏の金平

タイトルバックを変えました。
この写真は尾小屋行列車の2軸客車オープンデッキから撮った金平です。今日の鹿部電鉄さんのコメントにあったように確かに線路がヨレヨレナローではなく立派に見えます。草が生えていない。



金平 1962.8.1


この写真から十年後、静かな金平駅にも変化の波が押し寄せていた。1970年代初頭、ディスカバー・ジャパンの旅ブームとSLブームが重なり、鉄道は再発見の対象となった。ナローゲージの趣味の世界に目覚めた高校生や大学生たちが、カメラ片手にこの地にも足を運んだという。

木造の小屋と給水塔、軌道に沿った田の広がり──そんな風景に、彼らはどこか懐かしさと夢を重ねていたのだろう。鉄道写真、ナロー鉄道模型、そして音楽──多くの若者が自分の居場所を探し続けた、1970年代初頭はそんな趣味の大転換期だった。


2022年11月2日水曜日

尾小屋駅の物置小屋

尾小屋駅の終端にあった物置小屋2棟が撤去されたようです。
よくぞ最近まで小屋が保存されて来たものです。
これで尾小屋駅の面影も殆ど消えてしまったことでしょう。
 

清流の畔にあった小屋2棟。


三重交通から来た時はボロボロだったホハフ7も少し綺麗になっていた。


1964.12.30


5号機に火が入った日。1970.11.3


初めて尾小屋鉄道に乗って訪問した終着駅尾小屋。1962.8.1

2022年6月11日土曜日

昭和51年 尾小屋最後の時代

尾小屋鉄道を最後に訪問したのは昭和51年春であった。
廃線1年前で構内の線路もだいぶ外されて寂しくなっていた。
初めて訪問した1962年夏から14年も経っていてよく生き延びたものである。
散々楽しませてもらった尾小屋鉄道を見るのもこれが最後となってしまった。

2012年4~5月にアップした「昭和51年の新小松駅」の続編です。


撮影:1976.04.09


尾鉄バスの観光事業で賑わう新小松駅。

新小松を発車すると民家や工場が並ぶ。




新小松駅の風景。


バスが同居していた新小松の車庫・工場。


かつては給水塔があった機械工場の一角。




2022年6月2日木曜日

ある夏の新小松車庫

 昭和37年、尾小屋鉄道の新小松で見た車庫風景です。
機関車DC121のカラーもまだクリーム/赤になる前で濃淡の緑だったような?
これから時代が変わる前で、それまでの尾小屋鉄道がそのまま残されている
感じがした昭和37年の真夏でした。


撮影:1962.8.1


機械工場。


機械工場の一角。


当時の日本鉱業㈱の社紋が入っていた。
この年(昭37)に日本鉱業が尾小屋鉱山から撤退。

協三工業製の美しいDC121足回り。
一部に蒸機の部品を利用していると言われている。


新小松の車庫と工場の全景。


車庫の反対側には新小松駅。踏切番がいるようです。


炎天下の日立製キハ2.旧塗装で赤帯が入っていた。


キハ2のエンジン回り






赤帯入りの旧塗装 キハ1。


立山重工製14.5tCタンク 5号機。
まさかこれが動く時代がやって来るとは思ってもいなかった。



2021年9月14日火曜日

尾小屋の蒸機運転会。

 頸城を撮ってから午後に向かったのが東洋活性白土、そして尾小屋鉄道の終点夜の尾小屋であった。


超有名な東洋活性白土のミニ蒸機。2フィーター蒸機が現役で働いている夢のような世界があった。1970.11.2


翌朝は秋晴れで尾小屋駅で撮り始めた5号機。1970.11.3


朝の尾小屋駅に大勢の蒸機ファンが集まった。
皆で撮った記念写真のお名前を数十年後に知って驚きの人が何人も。


一往復した5号機運転会。 観音下-倉谷口


観音下の日常風景。日産ブルーバード510の時代であった。


尾小屋駅で休む5号機。


駅舎と周辺の木造建築が何とも味わい深い。


2020年3月10日火曜日

尾小屋鉄道乗車の思い出

今年2月はじめに小松のある高校同窓会に招かれて尾小屋鉄道の思い出を聞かせてもらいました。私より年上の方の体験であり私が知らない昭和30年前後の尾小屋鉄道です。小学校から高校時代まで尾小屋鉄道とどんな関わりがあったのか思い出を書いてもらいました。

以下は昭和30年頃の尾小屋鉄道を利用された方が書かれた思い出です。

〇小学生時代
私は東京で生まれ、疎開先の福島から、国民学校2年の時に、尾小屋に来ました(昭和23年、1948年)。尾小屋鉱山が活況の時でした。病院や映画館や風呂場があり、床屋、八百屋、魚屋、薬屋などの多くの商店がありました。人口は5,000人とのこと。父は洋服の仕立て業をしていました。家族は父、母、兄弟5人でした。小学校の5年間は学校は尾小屋にあったため尾小屋鉄道には乗りませんでした。そして尾小屋鉱山が閉山(昭和46年、1971年)する少し前の昭和40年(1965年)に我が家は金沢へ引越しました。

〇中学時代に尾小屋鉄道に乗車
中学校は観音下駅を下車し、丘の上にありました。1学級約100名・全学校生300名程の学校でした。観音下駅の後ろの山は採石場となっており、山は直角に削り取られ壮大な景色でした。また駅近くにパン屋さんがあり、よくコッペパンを買って食べた記憶があります。生徒は観音下周辺の村々から来ていました。尾小屋から観音下までの距離は約4kmで約20分弱の乗車でした。スピードは速くはなかったですが、よく揺れました。時々尾小屋鉄道と並行して走った記憶があります。車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つでした。昭和28年から30年(1955年)までの通学でした。

〇高校時代に尾小屋鉄道に乗車
小松の高校に3年間通学しました。昭和31年から33年(1958年)まで。尾小屋から小松までは16.8kmあり、乗車時間は約1時間弱でした。当時はバスなどは走っておらず、尾小屋鉄道が唯一の交通手段でした。尾小屋鉄道のおかげで小松に通うことができ、感謝しています。尚、冬には雪が降り・積もり、時刻通りいかず大幅に遅れたり、時には運休することもありました。そのため冬には小松に下宿する生徒もいました。私は3年間尾小屋鉄道で通学しました。車内は心地よく、まるで個室にいるような錯覚をしてしまい。座席に座り考え事をしたり、宿題をしたり、本を読んだり、居眠りをしました。小松は現在と違い商店街は活況を呈していました。1年に1回、弟・妹と一緒に小松に出て商店街を見、うどんを食べるのが楽しみでした。当時、三橋美智也の講演会が小松で開催され入場した記憶があります。三橋美智也の歌は懐かしいです。  

私(katsu)が 撮ったもっとも昔(昭和37年)の観音下駅。晩年の駅とイメージが違います。

尾小屋から観音下まで通学した中学時代。~昭和30年
尾小屋から小松まで通学した高校時代。~昭和33年
通学した当時の観音下駅はこんな感じだったのでしょう。

昭和39年の年末、長原から見た朝日を浴びた尾小屋の街並み。

中学時代の車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つであった。
高校時代に尾小屋から小松まで約1時間の通学で車内は大変心地よかった。
まるで個室のような錯覚をした車内。
等々・・一体どんな列車だったのでしょうか。
1950年代後半(昭和30~35年)は尾小屋鉄道の最も華やかな時代と言われている。

二両目の客車ホハフ7を除き昭和30年頃の列車はDC121(昭和28~)が牽くこんな列車だったのでしょう。写真は昭和37年に撮った尾小屋駅のDC121+ハフ3+ホハフ7+ホハフ3。

2019年11月18日月曜日

尾小屋鉄道 大杉谷口の朝

大杉谷口の鉄橋を渡る朝の上り2番列車。通勤・通学列車なのか客車を5両も牽いていた。

あちこちに使ったこの写真に続く場面が以下の大杉谷口の朝であった。
冷え込む朝の駅で列車を待つ人たち。この日は大晦日前日で通勤客だけではなく正月の買物で街へ向かう人もいたのかも知れない。

撮影:1964.12.30
大杉谷口駅に到着。

新小松へ向かう。

早朝の下り列車