案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2026年7月22日水曜日

記憶にある色を求めて(まとめ)

古いモノクロ画像をAIでカラー化するキッカケは、昭和30年代(1960年代後半)の地方私鉄の奇妙な車体カラーを再現する「記憶にある色を求めて」でした。

モノクロ画像をあえてAIの変なカラーにしてどうするの? そんな声も聴こえそうな中で、単にカラーにすることではなく、その後の情景のAIカラー化も同様で、ある目的にかなう画像だけを取上げてきました。

「記憶にある色を求めて」で車体カラー化してきた中で、まだ満足行かない沼尻や法勝寺線を除くと、ここに並べた車体カラーがほぼ記憶にあるイメージに近いものでした。



北陸鉄道能登線キハニ5102 羽咋 1962.8.2
昭和30年代独特の青緑色。


福島交通軌道線。1966年12月
再現がやっかいな青緑色


奇妙な松本電鉄浅間線の色。1963.7.20


窓回りの緑がかったクリームが印象的。
尾小屋鉄道DC121  金平 1962.8.1


2026年7月20日月曜日

電鉄上田駅のワンシーン

過去に写真集等で使った上田丸子のモノクロ写真。
これをカラーにしてみると一体どんな感じになるのか?
写真から想いついたタイトル。
「電鉄上田駅のワンシーン」鉄道(ブログ)



上田丸子電鉄 真田傍陽線   電鉄上田駅  1970年夏

夏休みの家族が列車を待つ情景。
カラー化によってある時代の想いがより感じられるようになった。

■車両と駅の魅力
画面右手の半身だけ写った電車に
くすんだツートンカラーの色がつき、
事実とは異なるけどアルミサッシの色効果で
高まる上田丸子の車両の魅力。
画面左手の木造りに感じる駅のぬくもり。

■ もの悲しさ
木造駅舎、真田傍陽線、家族との時間、1970年の夏、
今 写真に写るその多くは失われ、
そこに感じる喪失感、もの悲しさ。

■大切な時間
祖父母が待つ田舎へ帰るのだろう列車を待つ家族。
父親が、つかの間の夏休みに家族と過ごした何気ない
ひと時は、きっと人生で大切な時間の一つになったことだろう。


(AIカラー化画像)

2026年7月18日土曜日

上田丸子電鉄 夏本番の上田駅

 2011年8月3日にアップした記事より。

夏になると思い出されるのがお盆シーズンの賑わい、そして上田駅の色のこと。


夏休みを使ってよく地方へ撮りに行くことがあったが、8月はちょうどお盆のシーズンで地方私鉄はどこも帰省客など人々の移動で賑わっていた。信越本線上田駅で国鉄に接続する真田傍陽線と別所線では国鉄からの乗換え客で賑わい、夏休みに家族連れでこの私鉄沿線に帰省する人達も多かったのだろう。

それにしても上野から長野方面へ向かう信越本線の混雑ぶりは凄かった、人気の軽井沢~長野方面へ向かう帰省客や観光客で夏の最盛期であった。

昭和45年の上田丸子電鉄は、既に丸子線、西丸子線が消え、この2年後には真田傍陽線も消え、その後別所線だけとなった。この頃に撮った私鉄はどこでもごく平凡な路線だったが蒲原鉄道、新潟交通などと同様に、上田丸子も当時を見ると個性豊かな電車で魅力的に感じるのは時代の変化によるものか。

古風な駅建屋から発着する真田傍陽線は、ツートンカラーの味わいのある電車で電鉄上田駅によく似合っていた.

真田傍陽線 電鉄上田駅 1963.7.20
夏の子供達はローカル電車に乗って元気一杯の笑顔.どこのローカル私鉄でも見られた風景.こんな子供達の風景も楽しい夏のローカル私鉄ならではであった。



信越本線を挟んで反対側は別所線上田駅のいかにも夏らしい光景が.1986年の昇圧化前で様々な電車が在籍し丸窓電車も健在であった.1970.8.17

このカラー化は、厳密な色彩情報に基づく再現ではありません。私の記憶に残る「1970年代の色」をたどったものです。当時の街には、今ほどの鮮やかな色はなく、建物も看板も衣服も乗り物も、少し控えめで、その時代らしい色だったのではないでしょうか。半世紀を経て変わったのは風景だけでなく、私たちを包む「色」そのものも大きく変わったようです。



2026年7月16日木曜日

沼尻のワフ3

モノクロ画像を、chatGPT画像の調整仕上げで使用しているのと同じ、Adobe Express無料版で仕上げてみました。いつまでも無料。

期限過ぎると有料になる無料体験版Adobe Express Premiumとは違う。

  Adobe Express無料版でモノクロ調整仕上げ。
ワフ3  1964年1月 川桁


モノクロトーンの画像仕上げの話から、話題はこの貨車の色の話へ。
    ↓
このワフ3は何色をしていたか? (#9999さんのコメントから) 
何回か塗り替えられて時代とともに、明るいグレー(1966年)、青、他へと変化したようです。AIは知る由もありません。




1966年のワフ3「明るいグレー」を
AIカラー化で推定。
写真にはグレーに塗られた時に、金具や台枠が黒く塗られたのは表現されていない。1964年1月に私が上の画像を撮った時に、どんな色だったのかは覚えていない。



ワフ3の下回りはこのセタと同じか?
ワフとセタの下回りで、車輪径は同じだがWBや台枠全長が僅かに違うようだ。


2026年7月15日水曜日

上田丸子電鉄 下之郷駅

やはり、ブログをPC画面で見るのが私にとって一番楽しめそう。
新しい媒体にも投稿してみたが、「味わい深い鉄道」の写真を理解する人は皆無のよう。
きっと世代が違うせいでしょう。
「味わい深い鉄道」を写真で楽しむには、やはりブログがよさそう。

AIによるカラー画像の鮮明化の一枚。
chatGPTの生成画像そのままで、あり得ない青みだが敢えてそのまま。


生成画像 第1水準 無調整
車両は「記憶色」、風景は敢えてデシタルらしい鮮明な色。


生成画像 第2水準 無調整
こちらが「記録色」に近いか。


元山梨交通7形が休む別所線の下之郷駅 1970.8.17

左が別所線の島式ホームで、手前が西丸子線のホームだった。廃線で使われなくなった線路上に橋を渡し改札口から別所線のホームへ渡れるようにしてある。向こうには使われなくなった元山梨交通の電車が留置されていた.


2026年7月11日土曜日

西公園停車場(色合い)

先日のAIカラー化画像で、いろいろ並べてみました。②が7月10日に投稿した明るめ画像です。


①AI生成画像のまま
(彩度は適度だった)


②調整仕上げ後
①をゲタ履き学生を見えるよう若干明るくした。




③生成画像のまま
その時代に合わせた色調とし、民家屋根の色を変えたAI生成画像。

④ 調整仕上げ後
③を元にしてAdobe Expressで調整したもの。1960年代らしき色で、スマホの小さな画面でも使える彩度はこの程度か? 

これまでモノクロ画像であの時代の街並みの薄汚さをすっかり忘れていた。 車両と違ってどんな色だったかは覚えていないが薄汚かったことだけは覚えている。 そんな薄汚さがカラー化で思い出されてきた。

2026年7月10日金曜日

西公園停車場

停車場の裏手を行く小径は背後の高台にあり、そこにあった西公園に賢治が詠んだ ”春の夕暮れに停車場の灯が明滅する” 「ラジウムの雁」の碑があった。

日が暮れるころ賢治は西公園から停車場や電車の明かりを見下ろしていたかも知れない。そんな情景が目に浮かぶ。

私がこの停車場を撮ったのは1964年の夏。
今、そのモノクロ画像をAIで色をつけてみると、砂利や土に埋もれた軌道、赤ん坊を背負った母親、ベンチで昼寝しているゲタ履きの学生、木造建築の木目などに、今までになかった感覚が生まれて来る。

きっとこの停車場の色も宮沢賢治の時代と何も変わっていないのだろう。



軌道線 西公園


花巻電鉄軌道線 1964年夏
(AIカラー化画像)

2026年7月2日木曜日

曇天の加賀平野

「曇天の加賀平野」

加賀温泉郷が衰退する、ずっと前、動橋から山代温泉行きの電車が走っていた。

黒く垂れ込めた黒い雲は、今にも雨か雪を降らせそう。暗い北陸の冬空の中で、遠い山並みだけが僅かに光っていた。

かつて、こんな鉄道が走っていたことは、地元でも忘れ去られてしまったかも知れない。



新動橋 - 庄 1964.12.29


  北陸鉄道 加南線 1964年12月
  (AIカラー化画像) 今やスマホの時代、画像(彩度他)と文章(段落)をPCとスマホどちらに向けて作成するか悩みます。
PC用に仕上げてもスマホで見るとガッカリ。今回はスマホ画面向けに仕上げてあります。
 

2026年6月25日木曜日

今、ブログは

 今の世の中、ブログは殆ど消滅かと思っていたら

そうでもなさそう。

リンクさせて頂いているブログ以外、

私はまず見ることがなかったブログ。

今も昔も、鉄道ブログの主体は「今の鉄道情報」

のような気がする。

そして、誰かが言っていたように写真は

益々車両写真に向かっているのは確か。

私にとって殆ど無縁の「今の鉄道情報」




より鮮明に出来るようになったモノクロ画像。

スプリングポイントの向こうに拡がる滝駅。
生い茂った草に埋もれてしまいそうな線路。
草むした構内で遊んでいる子供たち。
真っ白に乾いた道路を日傘を差して歩くご婦人。
道路沿いの傾いた電柱に裸電球の街灯が一つ。
傾いた線路通行禁止の警告板。
駅周辺に昭和30年代の民家。

こんな気動車が走っていた。


昭和30年代独特の色の記録.


北陸鉄道 能登線  昭和37年夏

2026年6月23日火曜日

月山と三山電車

機芸出版社から出版した「地方私鉄 失われた情景」の三山線でモノクロにして使った一枚です。
このネガカラー画像は不鮮明で色がよく分からない画像。AIでカラー鮮明化してみると白い月山がハッキリしてきた。ボケた果樹園の花のカタチも色もよく分かる。

モノクロ画像→カラー化の場合と違って、AIが勝手に造形することはなく、元のカラー画像鮮明化だけなのが安心できる。


三山線.羽前高松-新田 1971.5.6

左手が羽前高松方面で電車の背後に月山が入るのは、この羽前高松-新田間しかない。



 この位置で撮ると背後に朝日連峰が入る.1971.5.3
よくあるベタな色。

山形交通 三山線
(AIによるカラー画像の鮮明化)

2026年6月22日月曜日

余韻を追って

「余韻を追って」
情景、旅、音楽、人などに余韻が残るものがある。 
今追い続けているのは過去の記録ではなく、
あの時代が残した余韻である。



桃の花が咲く頃、小さな電車が暮らしを結んでいた。



山形交通三山線 1971.5.3
(AIによるカラー画像の鮮明化)

新潟交通 昭和の街並み(再)

「新潟交通 昭和の街並み」をアップしたのが2010年8月4日と2016年7月22日。
今回で3回目となります。今回はAIでカラー画像の鮮明化をやってみました。


県庁前-東関屋 1968.8.17
雨に濡れた商店街を今見ると、
街の色と電車の色がその時代の風景として調和していた。

県庁前-東関屋 1968.8.17


雨が上がった県庁前駅 1968.8.18
1985年 新潟県庁移転。
1992年 県庁前~東古谷間(併用軌道区間)が廃止で消えた駅舎。

新潟交通
(AIによるカラー画像の鮮明化)

2026年6月17日水曜日

東武のネルソ63号

次は中千住のネルソン63号の車両写真です。
Adobeで鮮明化してみました。

 中千住   撮影:1963.3.25

ネルソン1900年製造  前所有者 国鉄6252   東武入線1942年  廃車1963年




2026年6月15日月曜日

東武のネルソン64号

久しぶりに形式写真と言うか車両写真をFBに投稿してみました。ネルソンは過去に投稿済みですが、新たに調整した画像です。すると多くのコメントを戴き、後ろの有蓋貨車が三岐の貨車らしいということで、こちらに貨車を部分アップしてみました。
三岐の貨車に何を積んで東武からどこへ向かうのか、あるいは外部から東武へ何が運ばれたのか。

中千住  撮影:1963.3.25

東武のネルソン64号
このネルソンの車両写真は初めて投稿です。


ネルソン64号が貨物を牽いて業平橋へ向かう。



ネルソンの後に写った注目の貨車。

2026年6月12日金曜日

矢掛線の雲と民家

「矢掛線の雲と民家」

この日の井笠鉄道は青空に浮かぶ白い雲と、沿線の民家が印象的であった。北川から矢掛へ向かう列車を撮ったこの1枚。

これまでのカラー画像では空と遠方に見える民家が生きて来なかった。今回、AIで鮮明化したあと、Adobeで様々トーンを変えて仕上げてみると、作り物の白い雲ではなく元画像にあった雲のカタチや、民家などが鮮明に見えてきた。



矢掛線の雲と民家。 北川 1967.3.8


井笠鉄道 1967年春
(AIによるカラー画像の鮮明化)

2026年6月10日水曜日

早春の陽光

「早春の陽光」

草木が青々とした新芽を出し始めた両備地方に、やわらかな春の陽光が降りそそいでいた。この地方独特の家々の間を、小さな軽便鉄道が静かに通り過ぎてゆく。
暖かな陽気に包まれた午後、赤い気動車に牽かれた緑とクリームの客車は、この土地の日常の風景の一部だった。


色の調子が不満足だったカラー画像をAIで鮮明化してみると、死んだカラー画像が生きて来る。元画像がカラーなので車両のカラーはよくある暴走が無くて安心できる。ジオラマのような色あいから、渋い色合いまで何種類か生成画像を出して、その中の一枚を好みに仕上げてみた。



薬師 - 北川 1967.3.8



北川駅を発車し井原へ向かう。
井原駅では矢掛線のホジが発車を待っている。


井笠鉄道  昭和42年3月
(AIによるカラー画像の鮮明化)

2026年6月7日日曜日

真夏の淡路 宇山駅

「真夏の淡路 宇山駅」
洲本駅を発車した電車は民家の裏手をかすめるように走り、洲本川を渡り左へカーブするとほどなく宇山駅に到着した。

駅の待合室の壁には、島まつり案内や、「ご利用のみなさんへ」迫りくる廃線に関する紙面が貼られていた。洲本行のホームでは子ども連れの家族が電車を待っている。きっと洲本の島まつりへ向かうのだろう。笑い声と東京にはいない喧しいセミの鳴き声が混ざり合い、空気は夏一色に染まっていた。
以前、モノクロで取上げた宇山駅をカラーにしてみると、真夏の空に浮かぶ白い雲、乾いた駅前広場の暑さ、ゆっくり流れていた島の時間などが蘇って来る。夏の陽ざしも今ほど強くなかったあの夏の日はもうやって来ない。



淡路交通 宇山駅 1965.8.2

淡路交通 1965年夏 
(AIカラー化画像)

2026年6月3日水曜日

里山風景

「里山風景」

軽便鉄道の築堤の下に、一軒の民家がひっそりと建っている。庭先には洗濯物が干され、暖かい春の日差しを浴びていた。

当時、浜松郊外に自然豊かな里山があった。やがて各地で繰り広げられたのと同様に、丘陵は削られ、広大な宅地へと姿を変えていった。昭和30年代は、都市近郊にそんな里山がまだ息づいていた最後の時代だったかも知れない。

昭和30年代のをカラーにしてみると、写真を見ているというより、あの時代の空気の中へ戻って行くような感覚になる。


祝田駅から谷駅へ向かって三方ヶ原台地を上って行く列車。
その車窓に自然豊かな里山があった。1964.3.23


遠州鉄道 奥山線  1964年春
(AIカラー化画像

2026年5月30日土曜日

2月終わりの庄内砂丘

「2月終わりの庄内砂丘」

丘に登り松林の向うに穏やかに開けた日本海を眺めると、早朝から撮り歩いて来た岩場が続く暗い日本海とは違って、優しい雰囲気を感じる海岸線だった。

ハーフ判モノクロ画像をカラーにしてみると、海辺の湿度感、砂丘、二月の終わり、小さな電車、曇天の海などの色が効いて、空腹を忘れ丘に登ったあの時のことがより鮮明になって来る。


庄内砂丘  1966.2.28


昔のネガに写った七窪駅を、今カラーにしてみると、庄内砂丘の曇天、潮風に揺れる防風林、枯草、木造駅舎の風化した壁、かすかに感じる生活感。 そんな細部が刻まれた現役の七窪駅が、より鮮明になって来る。


砂丘の中にあったひと気のない七窪駅。


庄内交通 湯野浜線 1966年
(AIカラー化画像)

2026年5月29日金曜日

築館線の残照

「築館線の残照」仙北鉄道 1964年夏

鉄道が動いていた時代のこと以上に、鉄道が消えた後の線路の風景には深さがある。
そんなことに気づいたのは、撮影したずっと後のことだった。

この写真は仙北鉄道 築館線の廃線跡。当時私は何の感慨もなくシャッターを押したのは「記録として残すだけ」の感覚だった。ところが後になって見ると、妙に心に残る。

この線路の向こうにあった、かつての暮らしの気配。駅に集った人々の声。行き交う小さな2軸ガソリンカーのエンジン音。 それらが消えて久しいのに、ここには「何か」が残っている。鉄道が消えた後の線路の風景は、私たちに鉄道が活躍していた時代の光景を想像させてくれる。



瀬峰から延びる1950年に消えた築館線のナロー廃線跡。
撮影:1964.8.4

 過去に投稿した「鉄道が消えた跡の深さ」をカラー化したものの、やはりモノクロの方が似合うようで、ハーフ判モノクロ画像の鮮明化だけをAIでやってみました。




2026年5月27日水曜日

「ディスカバード・ジャパン」 鉄道沿線に見るこの国の姿、今昔。

著者 大木茂さんが十年掛けていたのはこの本だった。16歳から日本各地の鉄道を撮り歩き、十年かけて記録した風景。その半世紀後、再び同じ場所に立ち、失われた線路や変わり果てた街並みを十年撮り続けた。

車で全国を巡りながら、十年を費やしてまとめ上げた「日本の今昔」。それは単なる鉄道写真集ではなく、この半世紀で地方がどれほど衰退し、風景が変わってしまったかを物語る記録であった。

一つの時代を見つめ続け、なお撮り続ける。その団塊世代の気力と執念に、ただただ敬服するばかりである。あの時の現場で何を想い、半世紀後の現場で何を想ったか、本を開くと惹き込まれる写真+エッセイの本。




2026年5月25日月曜日

京都市電 京大吉田寮

「京大吉田寮と市電」京都市電 1969年正月

記憶から消え行くあの時代の空気感。
電停近衛通の向こうに見える吉田寮。写真は学生寮の問題に端を発し京大全学的紛争へと発展する直前だった。この時に吉田寮生で2回生だった方からのコメントでそれが分かった。
これから大変な時代を迎える昭和44(1969)年正月の静かな風景であった。


背後に京大吉田寮の建物.電停 近衛通.1969.1.2

先日のコメントから。
1969年1月2日、私は吉田寮生で2回生でした。この年は学生部封鎖から大学紛争に入り、今では考えられない時代でした。寮費は月100円、寮食堂は生協食堂より安くて美味しく恵まれていました。下宿代は1畳が1000円の時代でしたので、奨学金とバイト代で月1万円あれば何とか過ごせました。当時の写真は何もなく、アップして下さる市電の写真で昔を思い出しています。

(モノクロ画像のAIカラー化画像)

2026年5月20日水曜日

雪の湯野町

「雪の湯野町」福島交通軌道線 1966年12月

飯坂温泉の街外れ湯野町を発車した電車は、
雪が残る家並みの間の専用軌道を走って、
伊達駅前へ向かって行った。
(不鮮明なハーフ判カラー画像をAIで鮮明化)


福島交通軌道線の難解なツートンカラーは私の記憶にはない色で、様々な情報からこの写真のツートンカラー(特に窓下の青緑)に落ち着きそう。




2026年5月19日火曜日

記憶にある色を求めて 能登線

北陸鉄道 能登線  1962年夏

1962年夏、何がいるのか行ってみないと分らなかった能登線。分かっていたのは時刻表の情報だけ。能登線のカラーリングの根拠はノートにあったメモによる。福島交通軌道線、沼尻と同様に窓下が微妙な青緑カラーで、正に昭和30年代らしいカラーリングであった。この後すぐに北陸鉄道の赤系カラーに変更され、能登線と言えば北陸鉄道の赤系カラーが有名になった。
(生成AIカラー化画像)



滝駅を発車した気動車は民家の間を抜けると前方に日本海が開ける。
滝 - 柴垣

実車を見た時の感想は、窓回りが灰色で白っぽい/窓下が緑がかった水色で緑に近かった。この緑がかった水色が特徴で、彩度と色温度の調整で様々変化する青~緑の色合い。能登線の昭和30年代らしい難解のカラーは未だ完成していない
 →何とか完成し画像差替え 2026.6.25

2026年5月16日土曜日

記憶にある色を求めて 法勝寺電鉄

日の丸自動車 法勝寺電鉄 1962年夏

1962年夏、国鉄時刻表にあった「日の丸自動車・法勝寺電鉄」を頼りに山陰本線米子駅に降り、米子駅の地下道をくぐり反対側に出ると、「日の丸自動車㈱電車部米子市駅」の看板を掲げた駅があり、木造電車が朝一番の発車を待っていた。朝日を浴びたツートンカラーが強烈に記憶に残り、あの時の記憶に近いのがこんな色であつた。
(生成AIカラー化画像)

屋根の色は記憶になくヒギンズさん写真集を参考にした。ChatGPT Plusが数種類出力した画像の一つを基準とし、記憶にある色に近いイメージになるまで調整したものの、青みが未だ完成していない。

朝日を浴びたツートンカラーが強烈な印象であった。
この色の木造電車(元池上電鉄 日車 大正11年製)はデハ201と203がいて、写真はデハ203+フ51。


2026年5月11日月曜日

さいわい橋

「さいわい橋」 福島交通軌道線  1966年

雪の川を渡る電車は、
年の瀬の光の中を走っていた。

山は遠く霞み、
木橋の匂いまで
冷たい風に混ざっていた。


使い物にならなかった不鮮明なハーフ判カラー画像がAIで蘇った。 
福島では「記憶にある色を求めて」の車体カラーの検証ではなく、あの時の清々しい空気感を優先したので、車体カラーが濃くなっています。
(不鮮明なハーフ判カラー画像をAIで鮮明化)


摺上川に架かる木橋「さいわい橋」 1966.12.31
私が見た軌道線の車体カラーは泥だらけでよく覚えていません。誌面情報、ネット情報には様々なカラー情報があり、青寄りも緑寄りもあります。私にはハッキリした記憶が無いので、福島では記憶にある車体カラーの検証ではなく写真の空気感を優先することにしました。ハーフ判カラー画像からAIが出力した車体カラーのままで、Adobeで調整仕上げしたものです。



写真の空気感より車体カラーの検証を重視して出力したもので、調整仕上げなしです。


2026年5月8日金曜日

オリンパスペンで撮ったカラー画像が蘇る

今回は、単なる「モノクロの色付け」ではなく、オリンパスペンで撮った不明瞭なカラー画像を生成AIで鮮明化してみると、これは驚いた59年前の記憶の空気感まで戻ってくる。


島原城から見下ろした瓦屋根の街並み、遠くに広がる有明海、その向こうに浮かぶ熊本。
 1967.3.3

今回の調整は
・海を少し淡くしたこと
・彩度を抑えたこと
・コントラストを自分で追い込んだこと
この調整が昭和40年前後の島原らしい冬〜春先の空気感に効いたようだ。

小さなハーフ判画像の不鮮明な情報から、AIは“存在しないものを勝手に作る”だけではなく、カラー画像の鮮明化では、カラー画像の中に埋もれていた微細な色調や形を拾い直して「当時の記憶に近い形」で再構成していると思われる。

昔のハーフサイズ・ネガの画像は粒子も粗く、情報量も少ない。しかし逆にその曖昧さが「記憶の風景」と非常に相性が良いのかもしれない。


島原の武家屋敷跡。1967.3.3