案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。
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2024年12月6日金曜日

東急世田谷線(旧玉川線)

青空と玉電カラーの世田谷線(旧玉川線)


下高井戸-松原 2024.11.24
沿線にドラマの民家「大沢家政婦相談所」が写っていたとは驚き!

下高井戸駅   1962.12.07
この辺りで玉電や京王線の中型車を撮っていたのは遠い昔62年前のことであった。

玉電山下近辺

2019年4月11日木曜日

久しぶりに撮った電車

今日はあまりにも青空が綺麗なのでスマホ(iPhone)で珍しく電車を撮ってみました。
スマホには光学式ズームがなくて電車は撮りにくいけど、どうせ小さく写す電車だからスマホの広角で十分、ということで撮ってみました。
そして鮮明度はやはり天候次第。

2019.4.11
 西太子堂駅

線路のある風景 西太子堂 - 若林

客がいない気の抜けた風景 西太子堂

乗客で活気溢れる三軒茶屋駅


ところでデジ一眼のズームで撮るのをやめたのは、西武101系10連の運用が消えお別れ運転があった2012年12月であった。あれから早や6年が経っていた。
最後の101系撮影

2018年7月29日日曜日

玉電 引込線があった用賀駅(再掲)

引き込み線あった用賀駅のことをアップしたのが2012年2月1日、あれから早や6年以上がたちました。引込み線の話題がFacebookにあったので、奥まってしまった6年前の記事をコメントそのままに引出してみました。

この側線の先を右へカーブしたところは一体どんなであったのか。宵闇さんがネットで調べて教えてくれた凄いサイトによると、そこには映画館「用賀新東宝」、用賀ストア、大衆食堂、床屋があり、ガレキ広場の先で引き込み線が終わっている画像(映画のロケ地)が出てきた。
航空写真もあって、それによれば引込み線の終端は今の世田谷ビジネススクエア(高層ビル)辺りになる。現在の田園都市線の用賀からは想像もつかない用賀駅前があったのですね。


当時の玉電用賀駅にはちょっとした引込線があり路面電車の単調な駅に変化を与えていた。この頃の路面電車の存在は人々の生活に密着していたのでしょう。


引込線が右へカーブしていく。側線はホーム脇まで延びていて子供達の遊び場になっていた。1969.4.22 


用賀の駅を出て左にカーブし大山街道を玉電瀬田へ向かう.  1965.7.27
現在の用賀駅前のカーブ。 2015年4月

上の写真の踏切を渡ると木立の脇をカーブし併用軌道(大山街道)に入る。1965.7.27
現在の用賀駅前。 2015年4月


桜新町を過ぎ専用軌道区間の坂を下ると用賀に到着する。 1969.4.22
左にホーム脇まで延びた側線が見える。

夏の日の用賀駅 1965.7.27

2015年4月24日金曜日

玉電用賀の今昔

田園都市線の用賀で降り地上に出ると、一変した用賀の街並みがある。
かってここに玉電が走り、この先の渋谷寄りに用賀の駅があった。
現在の道路の形状から、ここにあった玉電の軌道と大山街道の遠い昔の風景が浮かび上がる。
1960年代の世田谷用賀、今の街並みからは想像できないほど長閑な風景であった。


用賀 2015年4月
坂を下ったところに用賀の駅があり、道路に軌道と大山街道との合流地点の面影を残している。

写真上はこの辺りで、駅を出て踏切を渡り木立の脇をカーブする 1965.7.27

桜新町を過ぎ専用軌道区間の坂を下ると用賀に到着する 1969.4.22


用賀 1965.7.27

用賀を発車1969.4.22
桜の木の下に見えるのが駅前にあった「梅の湯」のようだ


踏切を渡り木立の脇をカーブすると大山街道と合流する 1965.7.27

踏切はこのあたりで、木立の跡に用賀駅東口があるビルが建つ  2015年4月


そして子供たちの遊び場だった用賀駅引込線の風景 1969.4.22
今だったら危険を感じて電車は止まるでしょうね

2014年5月3日土曜日

昨日のテレビ朝日スーパーJチャンネル「謎の玉川改札」

昨日の夕方、テレビ朝日のスーパーJチャンネルで「渋谷駅の七不思議」が放送され、
「謎の玉川改札」で先日の「玉川改札の今昔」2枚の写真が使われました。
日を追って七不思議の一つずつを取上げて行くのかと思っていたらからまで一気の放送でした。

渋谷玉川改札の昔 この裏付けとして昔の渋谷駅山手改札の写真を調べたのですが、狭い改札口だったのかどうかはよく判りませんでした。玉電本9冊、山手線本、東急本等どの本見ても昔の山手線改札口なんて撮る人はいなかったようです。


「謎の玉川改札」。なぜJR渋谷駅の改札に玉川の文字が?


昔の玉電渋谷駅と山手線改札口
その後の調べで玉電ホームの真正面あれが山手改札口に間違いありません。
渋谷駅開業から今、そして13年後2027年の渋谷までが紹介された


2013年5月30日木曜日

曇天の世田谷線

先月、世田谷線を三軒茶屋から下高井戸に向けて撮ってみたのですが曇天でぱっとしません。
こんなありふれた風景を昔の玉電下高井戸線の雰囲気と比較してみました。
住宅や道路の一新以外は今も昔も鉄道と車(踏切)が共存する静かな住宅地の雰囲気はそれほど変わっていないようです。

西太子堂  2013.04.14

西太子堂-若林

山下からの直線が右にカーブした先に松原の駅がある.山下-松原 2013.04.14
山下-松原


下高井戸に向けて山下を出たところ
山下からの直線の線路が右へカーブするところ. 山下-松原   1962.12.07
カーブの脇にはドブ川が流れる.

現在の下高井戸駅 2013.04.14

下高井戸駅   1962.12.07

塀の向こうには京王線のダブルルーフが走っていた.下高井戸 1962.12.7

2013年2月6日水曜日

消え行く東横百貨店東館

昔、玉電渋谷駅が「東横百貨店」2階にあり、その東横百貨店(現東急)が今年3月閉店になるということで
東横百貨店について調べてみました。

東横百貨店増築の歴史は
1934(昭9)年 東館創業
1954(昭29)年 西館増築
1970(昭45)年 南館増築
ということで玉電風景が消えようとしていた頃は南館が増築工事中だったということになる。
玉電と云えば「東横百貨店」だが1967(昭42)年に現在の「東急百貨店東横店」に改称されている。

JR渋谷駅を複雑に取り囲む東横店各館の配置を分かり易く書くと下図のようで、JR渋谷駅東側にあるのが創業からの東館(緑色)で3月末に閉店し取り壊するのはこの東館であった。その後東横店はJR渋谷駅西側にある西館(黄色)と南館(青色)の2館に集約するそうである。

JR渋谷駅東側は東横線渋谷駅が地下化で取り壊され、東横店東館、東横線地上駅、その下1階の東横のれん街 と渋谷駅の象徴的な風景が消えることになる。

昔あった玉電渋谷駅と東横店西館の位置関係は下図の通り。

3月末閉店し取り壊しとなる東急東横店東館 2013年1月

東急東横店西館と南館

消えゆくJR渋谷駅西側の風景
東急など鉄道3社が渋谷駅を再開発し高さ約230mのビルなど建設し2027年度まで順次開業.

駅地下化で取り壊される東横線地上駅とその下の東横のれん街

華やかな私鉄ターミナル駅

2013年1月30日水曜日

玉電 タルゴ200形と鉄道模型趣味誌のこと

デハ200形 上通り  1969.04.22

コメントで思い出話が出ました昭和30年登場の玉電タルゴ200形。玉電タルゴと言えば兄が毎号購読していた鉄道模型趣味誌で、玉電タルゴの製作記事を子供の頃に読んだことがあり、無性に読みたくなって昔の趣味誌を神田の古本屋で1冊だけ買戻して? きました。この記事が掲載されたのは58年前の1955(昭30)年9月号で86号でした。
「TKK玉川線 新車200形の作り方」のタイトルでO番1/42の製作記事が3回に亘り連載され、筆者は第1第2東京電鉄工機とあり、かの有名な自由形2線式Oゲージャー兄弟だったと思います。

玉電タルゴ製作記事の出だしはこんなでした。
クリームとライトグリーンと夏の粧いも華やかにスマートな80系で名を売った玉電にデビューした新車 !
超軽量、超低床等々幾多の新機軸を採用した200形は、モデルファンがデザインしたような近代的な連接車です。
モデルとしては軽量車の価値を再検討する意味も併せて、R部分の工作を容易にするために、オールペーパ床板なしの張殻構造を採用、また台車、伝動関係等も極力簡易化するなど運転本位の近代的車両とする所に重点をおいてあるつもりです。貴社に於いても、50糎級の堂々たる路面電車を一本増備されては如何でしょうか。縮尺は1/42としてみました。

1955(昭30)年発行の86号

玉電タルゴの模型製作記事(第1回)

【鉄道模型趣味】誌のこと
機芸出版社の山崎喜陽氏によって1947(昭22)年に第1号が創刊された。実物誌の鉄道ピクトリアルの創刊は1951年であり、実物誌がなかった時代から模型趣味誌では模型だけでなく実物記事も多く掲載されていた。上記86号でも「電車を訪ねて」が第50回となり地方私鉄の紹介などは確か100号くらいまで続いた。子供の頃に夢中で読んだ1~100号の実物記事は多くの人が影響を受けたことでしょう。私の地方私鉄もここが原点でした。

数年前に古本屋行きとなった兄の鉄道模型趣味 1号~100号他

2013年1月22日火曜日

オリンパスペンで撮った玉電砧線1

私にとって砧線の思い出は吉沢駅から砧本村の区間であった。子供の頃に狛江から自転車をこいでここまで遊びに来た目的は、この区間を走る砧線を見ることと、もう一つは玉川読売飛行場を見る事であった。写真を撮り始めたのはずっと後であったが、オリンパスペンで撮った1964年は子供の頃に見た砧線沿線風景がそのまま残されていたと思われる。

吉沢の踏切 1964年2月
二子玉川園からやってきた電車は急カーブを曲がり多摩堤通りの踏切を渡ると吉沢駅に到着する。
まるで模型のレイアウトのような光景で、吉沢駅を出ると直ぐ野川の鉄橋を渡り右へ曲がる。

吉沢駅 1964年2月
吉沢駅の昔と今

2007.04.15
鉄橋の先を砧線と別れ土堤を越えると、今は河川敷に緑地運動場が開けるが、昔ここに玉川読売飛行場の格納庫と滑走路があった。自動車に牽引されて上昇するグライダーの練習風景や格納庫に新聞社のセスナの機体が並ぶ光景は正にこの場所であった。

別世界のような砧線沿線の玉川風景 1964年2月
1964年2月の撮影で場所は少し上流と思われ、この頃はまだ読売飛行場は存在し
砧線の吉沢~砧本村間はこんな長閑な土手の近くを走っていた。

何もない長閑な沿線風景の中を砧本村に到着する.