
夕暮れ時の一橋学園駅.2010年1月
50年60年前のフィルムカメラ画像は路線名と年代で瞬時に出てくるのに、デジカメ画像は路線ごとに纏めていないので、日付だけが頼りとなる。
夕暮れが迫ると、静かな駅にふたたび人の流れが戻ってくる。
一日の仕事を終え、家路へと向かう安らぎの時間がある駅。
西武多摩湖線 一橋学園駅 2010年1月
電車は洲本駅を発つと、ガタガタと民家の裏手をかすめるように走り、洲本川を渡り左へカーブするとほどなく宇山駅に到着した。
1964(昭和39)年に廃止された、国鉄日光駅前のループ線。軌道線ならではの急カーブで駅前をぐるりと回るその線路は、楽しさがありとても気になる存在でした。青蛙、田辺両氏による当時の写真と、残されたループ線図とを照らし合わせて、その姿をたどってたのがみたのが2015年6月22日の投稿「日光軌道線 国鉄駅前のループ線」でした。
ちょうど東京オリンピックが開かれたあの年、観光都市・日光の表玄関に古びた路面電車がたむろしている姿は「みっともない」とされ、それが廃止の理由の一つになったとも言われています。しかし、今だったら・・・
真夏の朝、日光駅前に立つと、まず目に入るのが「日光ステーションホテル」。その朝のバイキングは、まるでここはどこかヨーロッパの観光都市にいるような錯覚に陥る。客のほとんどは外国人観光客。彼らの多くは、やがて駅前から発車する「世界遺産めぐりバス」に乗っていくのだろう。そのバスも、すぐ先の東武日光駅前で満杯になる。インバウンド観光の中心は、やはり日光東照宮や輪王寺など、世界遺産群をめぐる定番コースなのだろう。
もしこのJR駅前、そして東武駅前に、軽やかなライトレールが巡回していたら・・・駅と観光拠点を静かにつなぐ新たな足として。混雑するバス路線の代わりに、静かに街をなぞるように走るライトレール。観光の利便性も大きく変わるはずだ。
一方、JR日光駅前から出る「霧降高原行き」のバスは、乗客が数人ほど。町を抜け、静かな高原へと分け入り霧降の滝で降りると、そこにはインバウンドの喧噪はまるでない。風の音とウグイスの声、霧降はいまもなお、日光の“日本的な静けさ”を感じられる場所だった。
世界遺産が人を呼び、静けさが人を癒やす。そんな対照的な二つの顔を、夏の二日間で見せてくれた日光だった。
花岡行と小坂行の発車案内が表示された大館駅. 1966.03.0
昭和41年早春、奥羽本線の大館駅に降り立った。雪の残るホームには、ありふれたキハと機関車が発着を繰り返していた。かつて鉱山を結んで走った小坂鉄道も、今やナローゲージの面影を失い、1067mmへと改軌されていた。改軌は昭和37年10月のこと。乗車券には「同和鉱業小坂鉄道線」と記されていた。
大館からは小坂線と支線の花岡線が分岐していたが、構内の風景はどこか味気なかった。軽便鉄道らしい車両や線路の表情は、もうそこにはなかった。
書物によると小坂のナロー時代は、軽便とは思えぬほど重厚で威風堂々としていた。その時代の客車をこの数年前に越後交通栃尾線で見たことがある。今、改めてその写真を見ると、冬景色の大館駅が思い出された。
ナローが改軌されても、車両が変わっても、あの大館駅の小坂鉄道には時代を越える風格があった気がする。その日は、津久毛から細倉方面に歩き出した。暖かい早春の陽が田畑を照らし、仙北鉄道沿線にも似た風景が広がっていた。田んぼの向こうに並ぶ農家のわら葺屋根。冬枯れの黄色い草むらの間から早くも新芽がのぞき、名も知らぬ木の花が満開だった。
よく考えてみれば、朝から何も食べていなかった。次の杉橋駅なら駄菓子屋くらいはあるかもしれない──そんな淡い期待を抱きながら歩いた。
到着した杉橋駅の周辺には、ぽつりぽつりと人家があった。駅は無人駅だった。駅のそばに松の木と石碑があり、ほんの少しだけ旅情を感じさせる風景が広がっていた。
駅前に商店街はなかったが、ふと見つけた淡路島で見たような素朴な駄菓子屋。今ならコンビニに当たる存在だろう。ここでようやく昼食にありつけた。菓子パン2個、合わせて35円。川辺に腰を下ろし、それをかじる。ようやく落ち着いたそのとき、M15形のMT編成がやってきた。
帰りの石越行電車を待っていると、日は傾き暗くなった駅周辺の家々の煙突から夕飯の煙が立ち上っていた。ひと気のない駅のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと夕空を眺めていると、一人の地元の老人が、こちらを見てコンチニハと挨拶されたのには驚いた。東京と違って東北ではこんな挨拶は当たり前のようだ。
栗原電鉄の旅は、決して魅力溢れる沿線風景や名所旧跡に出会える旅ではなかった。ただ、空腹のまま歩いた田園と、同じ型の電車の往復。そんな単調さのなかに、なぜか今でも忘れがたいものがある。
昭和38年の3月、その頃大学2年だった私は友人の“ガンちゃん”に誘われて、東武鉄道の中千住駐泊所を訪れた。
ガンちゃんは高校時代の同級生。東武の蒸機に並々ならぬ情熱を持っていた男だった。どこか憎めない江戸っ子気質、撮影よりも機関車そのものに惚れ込んでいるようであった。「今、中千住に行けばネルソンがまだいる。いつ消えるかわからないぞ」私は東北方面のナローゲージばかりに気を取られていた頃だったが、彼の熱意に押されて共に出かけた。
中千住の駐泊所は、町の中に小さく纏まった機関区で、黒光りするネルソン63と64号機(B6形)が静かに休んでいた。蒸機の傍にいたのは、年配の機関士だった。少し離れて見ていた私たちに気づくと、彼は声をかけてくれた。そうして始まった機関士との短い会話。ガンちゃんは饒舌だった。彼の蒸機への知識と熱意に、機関士も次第に表情をほころばせ、やがてキャブに上がることを許してくれた。
石炭の匂いと油に包まれた空間で、機関士は静かに話をしてくれた。私はただその場の空気に浸っていたが、ガンちゃんは真剣な眼差しで彼の話を一つも聞き逃すまいとしていた。
あの時のネルソンも、あの機関士も、そしてガンちゃんも、もうこの世にいない。
ガンちゃんは趣味を長く続けられないまま、世を去ってしまった。
構内に漂っていた石炭のにおい、ネルソンの鈍い黒光り、そして蒸機を愛した一人の友人、それらは今も記憶の奥の片隅に残っている。
1963.3.25