案内文章
高度成長期に突入した1960年代は、
地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
。
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
を
回想してみました。
2010年7月30日金曜日
西大寺鉄道2 財田駅
後楽園と西大寺の中間点あたりで山陽本線に接続する。
山陽本線の東岡山駅に隣接して西大寺鉄道の財田駅があった。
国鉄の貨物ホームと軽便の貨物ホームが繋がっていて、このホームで貨車の荷物が積み替えられた。昭和37年の廃線直前でも混合列車が走っていたので、最後まで貨物があったのであろう。 1962.7.29
財田駅の全景
列車交換風景。バケットに自転車が積まれたキハ6と、右はキハ7。
ワボ9
2010年7月27日火曜日
北陸鉄道能登線2 真夏の羽咋
国鉄七尾線の羽咋から三明まで、北陸鉄道唯一の非電化線が走っていた。
終点の三明は松本清張の「ゼロの焦点」の舞台となった能登金剛の近くである。
1962年8月、金沢から七尾線に乗り羽咋で降り、北陸鉄道能登線を訪問する。
能登線は途中高浜あたりまでは穏やかな海岸線が続く。
波打ち際ぎりぎりを魅力的な気動車が走っていた。
1962年8月2日
尾小屋鉄道訪問の翌日、金沢から朝一で羽咋へ向かう。
国鉄七尾線に隣接した北陸鉄道能登線の羽咋駅構内には、様々な気動車が構内にたむろし、
1両1両みな外観が異なる個性豊かな魅力的な車両ばかりであった。
朝日を浴びた羽咋駅構内の全景、片側バケット付気動車が出発の準備に取り掛っている。
前面4枚窓両端バケット付キハ5151+コハフ3001の上り列車が
到着し、乗客は七尾線に乗換える。
両端バケット付トレーラのコハフ5301翌年動力化され、
その後、筑波鉄道へ転出しお馴染みのキハ541に。
車庫に休んでいた前面3枚窓両端バケット付キハ5001が出動し、今日の準備に。
厳ついキハニ5102、出発前のひと時
2010年7月15日木曜日
淡路交通2 島の電車
瀬戸内海の東端にある最大の島 淡路、そこは素朴な人情と郷土芸能淡路人形のひなびた味わいが醸し出す美しい島である。そんな土地にぴったりな電車が島の中心部 洲本からうず潮の福良までのんびり行き来していた。
真夏の淡路は強烈な陽の下、阪神方面からやってきた海水浴、キャンプの若者達、鳴門のうず潮見物の観光客でいっぱいである。そんな賑わいをよそに島の電車は行商人のおばさんや、工場帰りの若い女性達を乗せて、至ってのんびりしていた。沿線にはネギ小屋やため池が点在し、せまい畑にはまだ実の小さいスイカが夏の陽を浴びて転がっていた。
こうしたのどかな島の交通も、ご多聞にもれずバスが主力となり、洲本-福良間の立派な舗装道路には観光客を満載したバスが電車をしり目に景気よく走っていた。
広田 - 長田
二本松 - 納 1965.8.3
2010年7月14日水曜日
島原鉄道
昭和42年の島原鉄道。
島原城から歩いて直ぐのところに島原鉄道の島原駅があった。街の風景も今では一変してしまっていることだろう。春の陽を浴び、のんびり走っていた島原鉄道は、今も諫早からこの先の島原外港駅まで走っている。
島原駅 1967.3.3
島原駅
島原駅
島原城から島原の街と駅方面を見る。遠くに島原湾の海が拡がる。
島原城
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