案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年8月31日火曜日

山峡に汽笛が響いた日

軽便蒸機が走った1970年の11月3日、尾小屋駅構内では秋晴れの朝を迎え5号機が朝日に輝いていた。軽便とはいえ、立山重工製の産業型14トン機はかなりの体格で堂々とし、昨日見てきた糸魚川のミニSL協三6トン機とは対照的な蒸機であった。
尾小屋  1970.11.3

尾小屋

職員が慌ただしく動き、給水タンクの脇で5号機に給水が始まった
尾小屋

2010年8月27日金曜日

東急玉川線3 上通

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上通     1969.4.22

東急玉川線2 渋谷

廃線から41年、すっかり変わってしまった玉電渋谷駅の跡。
昔の駅風景に、今の玉川改札前の風景を対比させてみました。

玉電渋谷駅の前方に山手線の改札口があり今も「玉川改札」の名称が残っている。
                                                                               (クリックでポップアップします)
渋谷駅     1969.4.22
山手線 玉川改札    2010.8.27

玉電渋谷駅ホーム。 上に地下鉄銀座線が見える。

山手線玉川改札を出て、この先一直線に玉川線の駅があった。
左店舗の上に地下鉄銀座線があり、右手の先に井の頭線がある。
岡本太郎の壁画の裏に地下鉄銀座線があるので
この壁画の前が線路があった位置であろう。

2010年8月26日木曜日

東急玉川線1 三軒茶屋

地方ではないが、この時代の東京の私鉄・路面をアップしてみます。
1969(昭和44)年5月に今の世田谷線を残して廃止された東急玉川線。その直前の三軒茶屋の光景である。東京でも60年代らしい光景は至るところにあったが、足元に気付かず撮らなかったのが今になって悔やまれる。東京オリンピック開催から5年、玉川通りは拡大されモータリーゼーションも本格化し庶民でも車が買える時代に。まだ高速道路はなく空がひろく見える。
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三軒茶屋   1969.4.22

玉川通り 三軒茶屋

2010年8月23日月曜日

野上電鉄 日方駅と接続口駅

日方駅は国鉄海南駅と接続していないため、80mほど先に乗換え専用の「接続口」駅がある変わった駅であった。
この二つの駅の間に拡がっている留置線には、南側に迫る和歌山の山並みを背に、至るところ元阪神の小型車オンパレードであった。よくぞこれだけ同類を集めたもので、5枚窓モハ24以外はどの車両もよく似ている。富山地鉄笹津線からやって来た小さなデ10型が入線したのは、この後の時代であった。
後に人気者となった元阪神5枚窓のモハ24は既に入線していた。

小型車オンパレードの留置線の先に、接続口駅の小さなホームの端が見える。
左からモハ26(阪神)+クハ104、 モハ23(阪急)、  モハ31(阪神)+クハ101、  モハ24(阪神)    日方 1965.8.4


日方駅を発車したモハ32(元阪神)  

日方駅を発車した電車は、構内の端にある接続口駅に直ぐ到着する。この駅と国鉄のホームは通路で繋がって、外に降りることはできない駅である。この駅を出ると左にカーブし東へ進み山に向かう。
日方駅を発車したモハ32は、直ぐに接続口駅に到着する

2010年8月22日日曜日

野上電鉄 日方駅

日方駅の枕木を積み上げたようなホームの裏に車庫(写真右手建物)があり、お断りして中を見せてもらった。
モハ26(元阪神)   日方駅  1965.8.4

庫内には元阪神869(→野上モハ51)の車体がマルーン色のままで置いてあり、あちこちに外された様々な電動機が積み上げられていた。この車両も他の譲受車の中古台車を流用して登場したようだ。

車庫の外には、野上電鉄で最も大型だった3扉のモハ23(元阪急1形26)が出場するところであった。この車両もまた電動機とブリル台車は南海の中古品を流用したらしい。こんな由緒ある名車が活躍していた時代であった。
モハ23(元阪急)       日方

2010年8月21日土曜日

野上電鉄 日方駅

紀伊本線海南駅から離れたところに、野上電鉄の起点日方駅があった。国鉄海南駅との乗換えには別に接続口駅のホームがあった。
駅前を歩いている二人はこの電車の運転手と若い車掌であろう。駅前雑貨店に掲げた野上電鉄の看板の絵は一体何を意味しているのか?  背後には海南駅の国鉄蒸機の煙がたなびく。
夏の陽がかたむく頃、日方駅の光景はこの時代独特のものを感じさせてくれる。


2010年8月20日金曜日

内部・八王子線


天白川沿いに走る八王子線  西日野 - 日永

天白川に沿って走る八王子行き電車   室山 - 西日野    1965.8.5

魅力的なモ231(元松坂線)    内部

内部の車庫では近鉄カラー(マルーン)に塗り替え中であった。

2010年8月17日火曜日

内部・八王子線 四日市駅の大人と子供


近鉄(元 三重電気鉄道)内部・八王子線は今も現存している軽便であるが、
四日市駅の風景や昔の軽便電車は消滅してしまった。
四日市駅では軽便と標準軌の電車が対面する場面があった。
標準軌と並んでみると、乗客の大きさは同じなのに、軽便がいかに小さいかがよく分かる。
小さな車体に載せて張りあげたパンタの大きいこと。

近畿日本四日市駅  1965.8.5

近畿日本四日市駅

近畿日本四日市駅

2010年8月9日月曜日

仙北鉄道 終着駅登米

1964年8月始め、この年の夏はいつもの仲間 iwaさん青蛙さんと3人で、上野19時25分発の常磐線経由の臨時準急に乗り東北私鉄めぐりに向かった。夏休み8月と言えば、上野駅の夜行列車に乗りこむ学生たちは、東北三大祭りや北海道へ向かうのが普通であった。リュックを背負った姿がカニ族と呼ばれた時代。観光地にはまるで縁のない我々の私鉄めぐりの旅は、かなりの変人だったろう。

8月3日花巻電鉄を終え、夕刻に瀬峰へ移動し、駅前にあった農家を改装したような安宿に泊まり、翌朝の一番列車から仙北鉄道を撮り始めた。この日はどんよりした天気で、夏本番とは思えない秋のような涼しい一日であった。

登米行きの列車に乗り、スイッチバックのある米谷を過ぎ、終点登米まで乗車したが、穀倉地帯の沿線風景は余りに単調でがっかりしたものだった。終点登米の駅前は街らしい様子はなく静まり返っていた。登米~米谷間もあまりにも単調で撮影もすぐに引きあげてしまった。
米谷駅では各方面にバスが出るなど、登米よりは賑やかで、列車交換がありスイッチバックを行き交う貨物列車や旅客列車を次々と撮れた。
登米(とよま)駅   1964.8.4

登米ー浅部

登米ー浅部を行く貨物列車

終点登米駅全景
終着駅の車庫
登米駅前の風景  駅舎は今もバスの待合室として使われている

2010年8月6日金曜日

新潟交通3 東関屋に居た車両達



形式モハ17(元東武デハ2形)

モワ51

クハ37(元国鉄41000形)


クハ46(元小田急1400形)

2010年8月5日木曜日

2010年8月4日水曜日

2010年8月3日火曜日

遠鉄奥山線 気賀口から奥山へ向かう1

奥山線の気賀口~奥山間は、朝夕を除くと日中1往復のみで、途中下車して撮影は難しい区間であった。気賀口から奥山へ向かう車窓を並べてみました。途中の駅や沿線には全く人影がなく、浜松-気賀口間とは別世界の感じがした。          

気賀口から奥山へ向かう線路は、山の手前を右にカーブし北上する。1963.4.4


気賀口-井伊谷   気賀口方面を見る

井伊谷駅  気賀口方面を見る

井伊谷-四村   気賀口方面を見る

四村駅   気賀口方面を見る
2000年5月

奥山方面を見る

20分ほどで桜満開の奥山駅に到着

2000年5月

2010年8月2日月曜日

西大寺鉄道4 木造ボギー客車ハボ3、14



ハボ14      1962.7.29


始めて見た、憧れの朝顔カプラーに感激!


ハボ3

車輪径420Φのアーチバ台車   上 ハボ3、下 ハボ14