案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。
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2020年9月4日金曜日

霞丘陵から金子丘陵にかけて

青梅(東京)~飯能(埼玉)にかけて丘陵地帯があるが、八高線金子駅から見えるのが金子丘陵で、その西方の青梅まで連なるのが霞丘陵と呼ばれている。

1960年代半ば、地方だけでなく東京近郊にもこんな長閑な風景があった。

撮影:1966.9.29
八高線金子駅。一日何本もやって来た石灰石列車。 

金子丘陵とを背にして桑畑を行く八高線。 金子

金子丘陵を背後に石灰石列車が金子駅に到着する。

東京近郊でこんな長閑な風景を見ることができた。霞丘陵

上記ネガの次のコマにあった日本のモータリーゼーションの幕開け 1966.10.30

三菱

以下はホンダ

ホンダ

   1966.10.30

2013年8月13日の記事 前年1965年の マイカー時代の幕開け

2013年9月22日日曜日

八高線 金子坂

前回は八高線の金子坂を下ったところでしたが、今回は金子坂です。撮影 全て1967.02.03


金子坂を上るD51牽引の貨物列車    金子-東飯能

毎年2月3日は八高線に高尾臨(節分列車)の旅客列車が上下各2本が走っていたので、この年は朝から八高線沿線を歩いた。まずは高麗川へ行き朝8時20分着の上り列車(高麗川駅)を撮り、高麗川~東飯能間の山越えを貨物列車を撮りながら東飯能へと歩き、更に金子方面に歩いて金子坂で下り旅客列車を狙った。この頃の八高線はSL撮影本格派ファンにとっては人気がなかったようで、高尾臨が走る日でさえ金子坂で出会った同好者は確か数人くらいであった。

午後の下りで高尾臨が引き返して来るまで、D51の貨物を寂しい金子坂の自然のなかで楽しんだ。金子坂の今は木立ちが成長しうっそうとした森の中を走る感じで、昔の俯瞰風景は一変してしまったようだ。

終日よく晴れ渡った天気で飯能方面をきれいに見ることができた.

D51重連の貨物列車

金子坂を下ってきたD51が牽く下り高尾臨 節分列車

のんびりと金子坂を行くキハ17形

2013年9月21日土曜日

八高線 金子坂を下ったところ

1967年頃よく通った八高線は金子から東飯能に向かって金子坂を下ると左にカーブし広い茶畑に出て西武池袋線と立体交差する。当時、西武池袋線のことは全く眼中になかったが昨年末に引退する西武101系を撮りに行った所はこの立体交差の近くであったことに最近気が付いた。現在の西武池袋線を元加治の先へ向かったところの風景はあの時の八高線の荒涼とした風景とどうしても結びつかない。

八高線  金子-東飯能 1967.02.03
金子坂を下ってきた石灰石運搬列車が入間川鉄橋、西武池袋線を越えて東飯能へ向かう.

西武池袋線と立体交差するところ. 金子-東飯能 1967.02.13

西武池袋線が八高線と立体交差する手前飯能側の風景.元加治-飯能 1967.02.13

立体交差過ぎた所沢側 元加治-飯能

昨年末の最後の101系. 西武池袋線 元加治-飯能  2012.11.07
この先で八高線と立体交差する.

西武池袋線が八高線と立体交差する所沢側の風景. 2012.11.07 

2013年5月13日月曜日

寄居界隈

秩父鉄道.小前田-寄居  寄居の手前で国鉄八高線と並走する. 1965.05.30

秩父鉄道、国鉄八高線、東武東上線が発着する寄居駅.
この寄居駅に来たのは丹荘から出ていた上武鉄道(日本ニッケル)を訪問した時と秩父鉄道を撮りに来た2回だけであった。池袋駅で初めて見た東上線はこれぞ東武!の凄い電車。これに乗って到着した寄居は八高線のC58や秩父鉄道の電機なども見れた楽しい駅であった。
2回目の寄居駅は熊谷駅で妻沼線気動車や秩父鉄道の古典電機などを撮った後で、寄居近辺で秩父鉄道と八高線を撮り歩いたのだが今の地図を見ても全く思い出せない。

八高線. 寄居を発車し高麗川方面へ向かうC58の貨物. 1962.12.23

東武東上線. 池袋から乗ってきたクハ246. 寄居 1962.12.23

秩父鉄道. ワフ23  寄居


八高線. 煙が昇るあたりが寄居駅か. 1965.05.30

八高線の風景.秩父鉄道と別れカーブの先に荒川の鉄橋がある. 寄居-折原

八高線  荒川を渡る. 寄居-折原

2012年8月4日土曜日

日本の国づくりを支えてきた石灰石輸送列車

八高線を走るD51が牽く石灰石輸送列車を見たあの1960年代後半は一体どんな時代であったのか、
財団法人セメント協会の日本のセメントの需要の推移 を見ると、ちょうど「いざなぎ景気」「列島改造ブーム」でセメントの国内需要・生産が急激に伸びている時代であった。

日本セメント(旧浅野セメント)埼玉工場が日高市に新設されたのが昭和30年。私が見たあの頃の八高線の石灰石輸送列車は、セメント生産増大の真っただ中にあって国づくりの一翼を懸命に担っていた光景であったということに。セメント国内需要はさらに1990年まで、生産は1996年まで伸び続けた。

その後、1999年に石灰石輸送がトラック輸送に切替わるまで鉄道輸送の時代が続き、高麗川から日本セメント(現太平洋セメント)埼玉工場までの専用線が石灰石搬入と製品出荷に使われていた。
この時の専用線の廃線跡が今でも見ることができる。

川越線に乗って高麗川駅を大宮方面へ発車すると
左に八高線、右に川越線、そして中央に工場専用線跡が見える. 2012.07.31 

高麗川から日本セメント(現太平洋セメント)までの専用線については
H.kumaさんの「太平洋セメント埼玉工場専用線」に素晴らしいレポートがあります。
H.kumaさんの地図によれば高麗川駅からセメント工場までの専用線は下記青線のルートであった。

セメント工場専用線

日本センメントの巨大な煙突に向かって延びる専用線.  クリック拡大

この専用線でよく見掛けた96の貨物列車.  1966.08.05

高麗川 1967.02.03

八高線 東飯能-高麗川 1967.02.03
八高線 東飯能-高麗川 1967.02.03

八高線金子坂を下り高麗川へ向かう石灰石輸送列車.  東飯能-金子 1967.02.13
背後に飯能の街を見て復路の金子坂を登る. 東飯能-金子 1967.02.13

青梅鉄道、南武鉄道の時代にさかのぼると、昭和6年に青梅鉄道から南武鉄道の浜川崎までが繋がり、青梅の採掘場から川崎工業地帯の日本鋼管、浅野セメントまで石灰石の一貫輸送が可能になっている。
1970年の頃はED16が牽く石灰石列車は浜川崎まで10本/日、拝島からD51に換えて高麗川まで8本/日あったという。製鉄とセメントに必要な石灰石を運ぶために集結したED16については別の機会にアップしてみたい。

2012年8月3日金曜日

高麗川駅の煙

現在の高麗川駅.昔 蒸機が煙を上げ休んでいたのはこの一角でしょう. 2012.07.31
枻出版発行「ニツポンの蒸気機関車9600」の中で西村光氏の「川越線郷愁」に当時の高麗川駅のことが判り易く解説されていたので引用させて頂きました。

1960年代後半、八高線の高麗川~拝島間で16往復、高麗川~寄居間で9往復、川越線の大宮~高麗川間で6往復の貨物と1往復の客車列車が設定されていた。高麗川駅では大宮機関区の9600、八王子機関区のD51、高崎第一機関区のC58及びD51のいずれかの蒸気機関車が常時煙を上げていた。

高麗川駅の一角.   1967.02.03
右手四角い詰所の今昔を見較べてみると、今もこの形の儘で残っている.

ターンテーブル、給水、ピット等があった一角で休む96とD51.  1966.08.05  クリック拡大

次の作業へ準備中の96.  1966.08.05

高めのデフを装着したカタチよい96

高麗川の一角で蒸機を支える人達.     1966.08.05
この一角にあったピットと給水塔、その先に詰所が. 1966.08.05
八高線のC58.   1967.02.03