案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。
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2026年5月30日土曜日

2月終わりの庄内砂丘

「2月終わりの庄内砂丘」

丘に登り松林の向うに穏やかに開けた日本海を眺めると、早朝から撮り歩いて来た岩場が続く暗い日本海とは違って、優しい雰囲気を感じる海岸線だった。

ハーフ判モノクロ画像をカラーにしてみると、海辺の湿度感、砂丘、二月の終わり、小さな電車、曇天の海などの色が効いて、空腹を忘れ丘に登ったあの時のことがより鮮明になって来る。


庄内砂丘  1966.2.28


昔のネガに写った七窪駅を、今カラーにしてみると、庄内砂丘の曇天、潮風に揺れる防風林、枯草、木造駅舎の風化した壁、かすかに感じる生活感。 そんな細部が刻まれた現役の七窪駅が、より鮮明になって来る。


砂丘の中にあったひと気のない七窪駅。


庄内交通 湯野浜線 1966年
(AIカラー化画像)

2025年5月26日月曜日

寂れた七窪駅



庄内砂丘の中にひっそり佇む現役時代の七窪駅.1966.2.28


寂れた駅と言えばまず思い浮かぶのは、庄内砂丘の中にぽつんとあった庄内交通七窪駅の風景だった。 ここはまだ列車が走っていた時代の記録だが、列車が去った構内には人影もなく、潮風に晒された駅は静まり返っていた。いわば“現役鉄道の寂しさ”が漂っていた駅だ。

当時の私は、列車が写っていない写真にあまり関心がなかった。ましてや廃線跡などは、自分にとっては“終わった場所”にしか見えなかった。だから、こうした寂れた駅の写真も、当時の私にはただの一枚にすぎなかった。

ところが今では、廃線跡や廃駅を撮る“廃墟写真”という分野が市民権を得ている。鉄道が廃止になったあとの風景にこそ、賑わいがあった時代を想像する物語があるという。現役時代の痕跡を辿り、その余韻をデジタル画像で浮かび上がらせる試み。それが今の写真表現の一つになっている。

確かに、現代のデジタル処理は目を見張るものがある。色の演出、コントラストの妙、空気感の操作── もし60年前の七窪駅を今の技術で再現したなら、この風景はどんなふうに蘇るのだろうか。
潮風に揺れる防風林、枯草、木造駅舎の風化した壁、かすかに感じる生活感。 そんな細部に七窪駅にかつて刻まれていた時代のことを、今だったらもっと深く捉えられた気がする。

そして、鉄道が“動いていた”こと以上に、鉄道が“消えた跡”の深さを知ったのは、つい最近である。



七窪駅の引込線に使われなくなった客車が休む.七窪駅の片隅.


先日、出版された凄い廃線写真集.




2016年1月10日日曜日

庄内交通 砂丘の中の七窪駅

昭和41年の「東北私鉄めぐり」は田辺さん青蛙さんと一緒で、2月27日上野発21:00の上越線羽越線まわり秋田行急行「羽黒」のナハ11に揺られてうす暗い温海駅に到着したのが翌朝5:30。冷たい雨の中を日本海沿いに走る羽越線C57の撮影からスタートした。9日間の旅で旅館に泊まったのはたった1泊のみ、あとは東北周遊券で夜行列車を使った毎夜の車中泊であった。朝食を抜けば一番列車から撮影できて、すこぶる効率が良いのだが空腹と寝不足の旅であった。こんな旅に耐えたのも次々消えゆく地方私鉄を記録しておきたい一心からであった。


海岸沿いの羽越線列車を小岩川近くでしばらく撮って、DF50が牽く日本海に乗って庄内交通が出ている鶴岡に到着したのが昼頃。鶴岡を発車した1両の電車は雄大な出羽三山を望む庄内平野をしばらく走ると交換駅の善宝寺に到着する。ここから風景が一変し、松林の中を抜けると砂丘が現れそこに七窪駅があった。終点の湯野浜温泉まで乗って終着駅と日本海沿い温泉町の家並みを撮って七窪に戻る。ここで三人は思い思いの撮影ポイントを探して散りぢりとなり、田辺さんは望遠レンズで七窪のこんな風景を捉えていた。以前アップした私の45mmレンズで撮った七窪とはだいぶ感じが違って見える。

1966.02.28 撮影:田辺多知夫
庄内砂丘の中にあった七窪駅 
このあたりの海岸は昼前に見た荒海の日本海と違って、松林連なる遠浅の砂浜のためか日本海独特の暗いイメージはなく明るい感じの海岸線で、別荘風の気の利いた建物が1軒ポツンと立っていた。トゲの植物が生い茂る七窪の丘陵を登ると松林の向こうに穏やかな日本海が見え鶴岡行の電車がモータをうならせて勾配をゆっくりゆっくり登って行った。七窪駅の貨物線の端には使われなくなった2軸客車などが置き去りになっていて、車庫もどうやら使われていない様子、ひと気のない寂しげな駅はムード満点であった。

七窪の風景にふさわしいモハ7(元京王電軌)が盛んに往復していた。

日本海から離れた民家でも風よけの囲いがあった。 善宝寺-七窪

善宝寺を過ぎ田圃と松林の間を走ってから松林の中に入る。
善宝寺~七窪の松林区間を行くモハ8

善宝寺駅へ進入するデハ101

2014年6月14日土曜日

庄内交通 庄内砂丘

安部公房の小説「砂の女」(1962年)の舞台は鳥取砂丘ではなく庄内砂丘の酒田市浜中であったのを先日の朝日新聞で初めて知りました。

「砂の女は」1964年に映画化され、映画で見た砂に埋もれる生活の光景が今も記憶に残る。
鶴岡市湯野浜から酒田市にかけて35kmにわたり広大な庄内砂丘が続き、湯野浜の北7kmほどに浜中がある。日本海から吹き荒れる季節風の飛砂と闘う生活があり、季節風は砂丘の砂を水田や畑、民家にまで運び、これを防ぐため砂浜の近くでは木材を縄で隙間なく繋いだ「風当て」を家々の周りに巡らせ、1960(昭和35)年頃までは茅葺屋根が一般的だったそうである。

庄内砂丘は湯野浜から北へ35km続く.

鶴岡、善宝寺、湯野浜温泉といった庄内風情を走る庄内交通湯野浜線は、湯野浜温泉の街はずれから七窪にかけて砂丘を走っていたが、まさかこれが「砂の女」の砂丘の一端であったとは思いもしなかった。湯野浜線を訪問した1966年は映画公開の2年後で、日本海と砂丘は今の「夕陽百選の海岸」という明るい観光イメージは全くなく暗い荒涼とした世界であった。

ここから北へ庄内砂丘が続き、北7kmほどに「砂の女」の舞台となった浜中がある.1966.02.28
湯野浜温泉 - 七窪  
同じ場所でオリンパスペンで撮ったもの

風除けのある民家と善宝寺へ続く道 七窪-善宝寺 1966.02.28

砂の中にある七窪の駅

湯野浜線の終点 湯野浜温泉駅

湯野浜の町並の先に日本海が見える

海辺の温泉町 湯野浜

羽越本線鶴岡から湯野浜温泉行き電車が出ていた.

参考: 朝日新聞 2014.5.10 映画の旅人 砂の女

2012年8月27日月曜日

庄内交通 七窪駅の風景

昭和35~38年の3年間を七窪から鶴岡まで高校通学していた方からコメントを戴き、あの七窪駅を思い出してみました。

終点 湯野浜温泉から善宝寺へ向かって歩くと次の駅が七窪であった。
日本海に近い松林に囲まれた七窪駅は、どんよりと曇った空と人気のない景色が印象的で、この日は海が荒れていて日本海から強い風が吹いていた。七窪の小さな駅には車庫と貨物ホームがあり、使われていない昔の2軸客車が寂しく置かれていた。

七窪駅を発車し善宝寺へ向かうモハ7. 1966.2.28  クリック拡大

モハ7は右手の松林の中へ消えて行った.

七窪の貨物駅の先に置かれていた2軸客車(明治37年製を改造)
ワ20+ハ12+ハ13

2011年12月16日金曜日

庄内交通 元京王の電車

 善法寺の田舎電車 で湯野浜線を取上げましたが、そこで活躍していたのはモハ8(元京王電鉄)や古老モハ7(元京王電気軌道)でした。

モハ8は1963(昭38)年8月の京王線昇圧化600→1500Vを迎え、 最後の活躍をしていたあの京王線中型車2400形。そしてモハ7はずっと古く元京王電気軌道からの移籍してきた。
京王線で5連で突っ走っていた2400形は、湯野浜線へ来てのんびり単行で松林の中を走っていた。
またモハ8+モハ7の元京王同士で手を組んで走ることもあった。
どちらも中小私鉄にほど良い全長で、地方路線によく溶け込んでいた。

撮影 1966.2.28
国鉄鶴岡駅の隅に湯野浜♨温泉ゆきを掲げたホームがあり
ここから湯野浜温泉行きの電車が発着していた. モハ8+モハ7

日本海が近い松林を行くモハ8(元京王デハ2400形2405)


善宝寺駅に到着するモハ7


 善宝寺駅の交換風景。 貨車を牽くデハ101


モハ7


そしてこんな電車も デハ103(元東急デハ3200形)

デハ101  善法寺

2010年10月11日月曜日

庄内交通 湯野浜温泉

5月22日アップした「善宝寺の田舎電車」庄内交通の終点湯野浜温泉です。

善宝寺を出た電車が日本海の砂丘に出るとすぐに終点湯野浜温泉駅に到着する。駅は海岸線に近く、湯野浜線と海岸線の間に湯野浜の街並みあり、駅の反対側には小高い丘が迫っている。駅前にはボンネットバスが客を待ち、一帯は温泉町だがこの日はひっそりとした感じであった。
田舎電車に湯野浜温泉がよく似合った。

湯野浜温泉駅周辺の街並み
湯野浜駅にやってきた単行のモハ8(元京王)  1966.2.28

湯野浜温泉駅 モハ8


駅の向こうに日本海が

右へカーブし海岸から離れ鶴岡へ向かう。