案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年6月26日日曜日

長崎電軌 蛍茶屋支線

長崎駅前で3系統 蛍茶屋行きに乗ると、桜町から坂を下り公会堂前の分岐点に到着する。
蛍茶屋からこの公会堂前を通り西浜町までが蛍茶屋支線で、5系統(蛍茶屋~石橋)の一部となる。
公会堂前から繁華街西浜町へ向かうと、どこからも山並みが見えいかにも地方都市らしい。ストリートビューで44年後の今の風景を覗いてみると、ビルの間に今でも山並みが見える長崎の繁華街であった。



桜町 - 公会堂前  1967.3.2  ポップアップ画像

公会堂前の分岐点

西浜町 - 公会堂前

賑橋. 眼鏡橋はここから近い.

西浜町の賑わい. ポップアップ画像


思案橋から蛍茶屋へ向かう4系統.  西浜町(アーケード前)

もう一つの西浜町. 思案橋行きはここで分岐する.

2011年6月20日月曜日

大井川鐵道の電車

SLの動態保存など動く鉄道博物館が始まる頃のずっと昔、昭和41年の大井川鐵道にはこんな電車が居ました。この頃から複雑な前歴を持った車両が多数在籍していたようで、あまりに複雑かつ大昔のことで前歴は参考程度の記載です。

廃車直前のモハ200形201+202. 千頭 新金谷 1966.9.23
元鳳来寺鉄道モハ10形10と元豊川鉄道モハ10形13.
子供の頃に何かの雑誌で見て、大井川と言えばこの個性的電車をイメージしたものだ.

モハ300形302.元三信鉄道(現JR飯田線) +クハ502?   千頭

モハ307+クハ  千頭
昭和30年代に全国各地の地方私鉄に転じた西武モハ151/クハ1151形.
西武で客先仕様に改装し20両全てが完売した. ↓モハ307+クハ507

  新金谷


クハ500形+モハ300形. 元富士身延鉄道  千頭 新金谷


駿河徳山駅の風景

モハ300形+クハ500形.  ポップアップ画像
 元富士身延鉄道(現JR身延線)の2扉クロスシート車

出典:週刊朝日百科「公営・私鉄」No.03、鉄道ビクトリアル臨時増刊「特集」西武鉄道.

2011年6月14日火曜日

駿豆線 夏の新車

伊豆箱根鉄道の軌道線が廃線された直後、鉄道線(駿豆線)大場工場を訪問しそこで見た艤装中の
モハ1000系(5月24日アップ)のその後です。

この大場工場訪問の5か月後に再訪すると、モハ1000系がデビューしていた。
他のお下がり電車とは違い、1000系は西武所沢へ発注し自社で艤装したピカピカの新車であった。
修善寺の2駅手前 大仁の田圃の中を走る1000系は、当時まだクーラなどは付いて無く、
窓を開ければ心地よい自然の冷気が入って来た。
クーラのないこの時代、灼熱の真夏とは言え、窓を開ければ済むことであった。
真夏は絶好の撮影シーズンで、炎天下を撮り歩くには水筒や帽子が必携と思うが
それに気を使った覚えもない。自然豊かな当時の夏は今の酷暑とは違っていたのでしょう。


昭38.西武所沢へ自社発注した新車1000系がデビューした頃 1963年7月 大仁

大場

大仁
伊豆の自然の中を行く.


ED11. 何の変哲もない電機だが、元国鉄アプト式電機ED40形とは驚いた.
昭28年西武所沢工場で両運転台化、電車用台車に交換など大改造されたとのこと.

1963.2.22  大場

1963年7月 大場


東芝車両製ED33(旧西武鉄道) 修善寺

2011年6月13日月曜日

ごあいさつ

昨年1月に西武線101系ブログを立上げ、ある日脇道にそれてスタートした
「地方私鉄 1960年代の回想」も早や1年が過ぎました。
お陰さまで昨年5月以降の訪問者数は延べ10万に達し、アクセスして戴いた皆さま、
メールやコメント欄で感想を入れて戴いた皆さまに厚く御礼申し上げます。
遠い昔の地方私鉄1本に絞り込んだジャンルでここまで続けられたのも皆さまのお陰です。
この1年GoogleのブログBloggerの進化に伴い、小ブログの様式も少しずつ変化し
試行錯誤のところがありますが、今後ともどうかよろしくお願い致します。



    katsu

2011年6月10日金曜日

豊沢川 夏の日の思い出

地図: 志戸平温泉を出て急カーブを曲がると豊沢川に接近する.
その先の不二保前、松倉、松原を過ぎると神明前に到着する.
志戸平温泉から神明前まで3.3Kmの道程を撮り歩いたようだ.

鉛温泉側から見た志戸平温泉駅  1964.8.2
夏休みのせいか子供連れの客で賑わう駅.左の西鉛温泉行きの電車は、ここで殆ど客を降ろし終点に向かった.山と駅に挟まれたこんな狭いところに遊園地があり、賑やかな様子であった.この子供達も今や50代で、軽便電車に乗って訪れた遊園地のことが楽しい思い出になったことだろう。
志戸平温泉駅を出るとすぐに急カーブを曲がりまた道路と合流する.


「松原」 道路に溶け込んだ軌道以外は何もない.


「神明前」

太神宮の前にある藁ぶき屋根小屋は電停「神明前」であった.
この土壁の中には一体何があったのだろうか?

駅の小屋の裏に回ってみた.向こうに見える神社入口の石碑には村社太神宮とあった.

この辺で花巻温泉峡は終わり花巻市郊外の平地を
しばらく走ると西公園辺りに到着する。

2011年6月9日木曜日

花巻電鉄 前田学校前




小さな川を渡る花巻行き電車. 山の神 - 前田学校前   1964.8.2

軌道は渡り温泉の処で豊沢川を渡り、川はそれまでと反対側を流れる。
これがその鉄橋と思い次の画像が「渡り」の駅と思っていた。
ところが駅前の建物の看板をよく見ると前田小学校とあり、現在の地図を見てみると道路脇に小学校があり近くに小さい川が流れていて、この駅は前田学校前であった。
こから大沢温泉、渡り温泉は歩かず志戸平温泉まで乗車してしまったようだ。


電停「前田学校前」 駅の真ん前が小学校.
花巻側から見た志戸平温泉駅.
左手が温泉街がある豊沢川側、右手が遊園地がある山側となる.

2011年6月7日火曜日

花巻電鉄 鉛温泉から山の神へ

毎度手間取るのが撮影場所の推定で、作業は撮った画像をネガのコマ順に並べ、
現在の地図に駅位置を入れて撮影場所を割り出すと云ったやり方です。
軌道(鉛)線も撮影場所が曖昧で、歩いたと思われる区間の地図に駅の位置(推定)を入れてみました。

地図: 豊沢川に沿っている県道12号花巻大曲線を「鉛温泉」から一直線に進むと高倉山温泉の手前あたりで右に左にカーブして、その先の一直線を暫く進んだところに「山の神」電停があった.豊沢川沿の花巻温泉峡には次々と温泉が点在している。

砂利道の道路の端っこに遠慮がちに敷かれた軽便トロリーラインの軌道。豊沢川に沿って軌道がある風景は電車が来なくても嬉しくなる。自動車はたまに来る程度でほとんど走ってなく、歩いている人に出会うことは更に稀であった。この後、急速な自動車の普及でこの道路もあっという間にきれいに整備された事でしょう.   1964.8.2


鉛温泉を出発しカーブを抜けて埃まみれの直線区間を貨車を牽いた電車が行く。
この先に進むと「山の神」電停に着く。一面ホコリまみれの草木の中にユリの花が咲く.


この木立のある「山の神」電停は魅力的なポイント.お店をやっている感じの
建屋はその後、となりに2階建を増築したようだ.道路は大沢温泉方面へ続く.

2011年6月6日月曜日

花巻電鉄 西鉛温泉

花巻電鉄の鉄道線とは対照的な軌道線、8回目のアップとなります。
今回は終点西鉛温泉から軌道線(鉛線)を花巻方面へ向かってみます。


終点 西鉛温泉駅に到着したポール電車.  1964.8.2
豊沢川沿いに点在する温泉に客を降ろしながら山間に入って来た電車はここで行き止まりとなる.終点西鉛温泉は何もないところで、旅館のマイクロバスが待ち受け、待合所に
「歓迎 新鉛温泉 愛隣館 この先百米」の看板があった.


ポールの上げおろしを済ませた電車と、発車を待つ乗客.
砂利道を走る車の埃で白っぽい西鉛温泉駅.


側面から見ると馬面電車デハ3にそっくりな幅広デハ3.


西鉛温泉を発車した電車は右手に流れる豊沢川に沿って温泉峡を走り
花巻まで1時間ほどの旅が始まる.


鉛温泉駅.(差替え訂正させて頂きました)
交換可能駅だが線路間隔がかなり離れている奇妙な駅.
近くにあったスキー場は今もあるようだ.
鉛温泉スキー場


花巻行きの上り電車は延々一直線に続く砂利軌道を進む.鉛温泉駅

ラベル↓花巻電鉄をクリックされると過去のアップ済みと繋がります。

2011年6月5日日曜日

花巻温泉行きの軽便電車

花巻電鉄の花巻駅からは豊沢川沿いに志戸平温泉、鉛温泉などへ向かう軌道線と、花巻温泉、台温泉へ向かう鉄道線が出ていた。鉄道線は立派な専用軌道で電車もポールではなくZ型ビューゲルと、軌道線のようなトロリーラインのムードはなくファンにはあまり注目されなかったようだ。

花巻駅. ホーム左が軌道線、右が鉄道線のりばとなっている.
ホームには花巻温泉 台温泉 志戸平温泉  大沢温泉などの温泉マークが賑やかに並ぶ.
1964.8.3

炎天下 東北の田んぼの中を行く.


交換可能駅 瀬川

瀬川を渡る


周辺の木立からすると花巻グランド前か?


小奇麗に纏まった花巻温泉駅


花巻温泉駅 花巻温泉入口に建つ駅舎.
軌道線の終着駅西鉛温泉とはえらい違いであった.